第73話 ただ一つの約束

 夜五つ(20時頃)

 寝間にて、桃子は控えていた。無論、待ち人は家光である。多忙を極める家光がようやく心休まる時間は日が暮れた頃であった。


「桃子」


 と愛おしげな響きを帯びた声色で背後から名を呼ばれる。桃子は久しく目にした家光の少しやつれながらも微笑を添えた表情に泣きそうになった。

 日中、紫乃に告げた事を家光にも伝えなければならない。紫乃が示した反応から察するに家光も納得がいかない表情を浮かべるだろう。

 しかし、桃子の決意はもう揺らぐ事がない。何を告げられるのだろうか、と身構える家光に桃子は言った。


「桃ね、大奥を出ることにしたの」


 途端に家光は目を見開いた。そして、忠長を改心させようと駿府へ赴こうとした桃子を引き寄せた時と同じ様に脆い肩に手を伸ばそうとした。しかし、桃子の揺るぎない瞳が家光の動きを止める。

 家光は何か考える様に顔を伏せ、瞳を閉じた。行灯あんどんの橙色の光が顔に影を作り、表情から心中を察するのは難儀である。

 果たしてどの様な言葉をかけてくるのか、桃子は目を見張った。

 暫くして家光は一つ息をはき、桃子の瞳をじっと見つめながら言う。


「その様な思いに至った経緯を聞きたい」


 その一言に桃子は頬を緩めた。涙液で満たされた視界で捉えた目の前の男は3代将軍徳川家光なのだと、竹千代の面影を重ねようとも、もう似つかわしくなく、瞳をそっと閉じた。


 全てを告げると、家光は「そうか」と一言溢し、黙った。彼の眼はこれまで桃子と過ごした日々に思いを馳せる様に煌めいている。


「あまりにも共に過ごす時間が長過ぎたのだろうな」


 家光は惜しげに眉を潜めた。しかし、桃子に気を使わせない為か、口元は微かに笑っている。


「余は甘んじていたのかもしれないな。このまま幼き頃と変わりなく、福、桃子と共に永遠に過ごす事が出来ると思っていた」


 家光が世継ぎに固執しないわけはこれであろう。しかし、世継ぎがなければ、徳川の血は途絶えてしまう。それは心から慕う祖父、家康と父、忠長の願いを裏切る事となる。

 目の前でじっと見据える桃子をこの腕に引き寄せ、無理に子を孕ませば己の手から離れることはないだろうか。

 家光は悪しき考えをかき消す様にかぶりを振った。

 自ずから城を去ると心した桃子。家光にとってケジメの時が来たのだと思わざる終えない。


「余にそなたの思いを屈させる動機はない」


 家光は桃子との別れを決意した。


「余はそなたに返しきれぬほどの恩がある」


 桃子は思わず笑った。


「それ、福も言ってた」


 桃、どんだけ恩作ってんだし、と笑って見せる。


「何か、余に出来ることはないか」


 そう問うてみると、桃子は人差し指を向ける。


「一つだけ。約束してほしいことがある」


 食い気味にいう桃子に家光は首を傾げる。


「外国との関係を完全に断ち切るのだけは辞めて。なんでかというとね、この江戸の文化って凄く外国人にウケるの。関心を持ってるの。折角いい文化なんだからさ、自慢気にちょっとだけ見せてあげようよ」


 家光は渋る様に顔を伏せた。負けじと桃子はいう。


「外の世界から学ぶことって沢山あると思うの!それはきっと、ちよたんの為になるし、江戸の為になる!」


 桃子の言葉に納得せざる終えない部分もある。しかし、徳川家存続の為に外国との関係を断ち切る事は一番手っ取り早い。

 家光は桃子に問うた。


「桃子、聞かせてくれ。未来の江戸と異国の者達はどの様に関わっている」


 桃子は自身が目にしたありのままの光景を口にした。


「江戸の人達と変わりなく、暮らしてるよ」


 はたして桃子が生きた未来は徳川の手でつくられたものなのか。その答えを問うにはまだ時間を要する。

 家光は

「そうか、ありがとう」

 と礼を述べた。


「桃子、余はそなたが去った後もこの江戸を、泰平の世を築き上げる事に邁進する」


 揺るぎない家光の眼差しに桃子は満面の笑みを浮かべる。


「うん、ちよたんなら出来る」


 おそらくこれが最後であろう、愛おしいその名を口にした。



⭐︎紫乃の小話⭐︎

 寛永16年(1639)7月5日、鎖国は完成に至ります。外国との関係を断ち切る事を意味する『鎖国』当たり前のように意味が理解できる言葉ですが、実は『鎖国』という言葉自体は当初存在しませんでした。1800年頃、とある蘭学者が作り出した造語なのです。

 鎖国といえど、オランダ・中国との貿易は続いていたようで…はて、鎖国というのか疑問に思いますが、今日、和を重んじた日本文化が色濃く残っているわけも鎖国があったからかもしれません。

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