第72話 桃子が切り開いた道

 その奥女中は自室に着くと、脇息にもたれる事もなく、背筋を伸ばし、腿の上に細長い指を揃え、目の前に座る紫乃を見据えた。

 紫乃はその奥女中に母、芳の面影を重ねた。


「そなた、名は」


 途端に名を聞かれ、紫乃はハッと息を飲み、こたえる。


「紫乃でございます」


 すると、その奥女中は目を見開いた。


「そうか、そなたが紫乃か」


 なんとも優しげな声で微笑した。その微笑を目にし、紫乃は微かに緊張が緩和した。しかし、なぜ自分が部屋に通されたのか。これまで面識があっただろうか?だとすれば、決して忘れることはないだろう。やはりそのわけが分からず、紫乃は伏し目がちになる。


「そなた、文はしたためているのか」


 突然の事だった。紫乃は頭に降ってきた言葉に一拍遅れで


「はい!月に一、二枚程…」


 と後半は消え入る様な声で言った。質問の答えになっているのか、自信の無さが表れたのだ。しかし、奥女中は納得した様に

「そうか」

 と口角を持ち上げる。


 不思議と紫乃はその者に対する恐怖心が無くなっていた。さらに、その方の側にいる事が心地良いとさえ感じた。

 そんな紫乃に奥女中は更に質問を投げかける。


「何故泣いておった」


 紫乃はこの方に胸の内を打ち明けたい、と思った。なるべく感情的にならない様に紫乃は口を開いた。


「実は、わたくしがお仕えしておりますお方様が大奥を出る事になりました」

「それは、心苦しい事よ」


 同情を込めた奥女中の眼差しに紫乃は頭を下げる。奥女中は「続けよ」と眼差しで促す。


「わたくしは、はじめその方に仕える事に抵抗しておりました。とても自由気ままで秩序もない様な方だったので…」


 紫乃はその日の事を思い出す様に瞼を閉じた。町中で殿方と口論し、挙句の果てには助太刀すけだちした福に礼も言わず、無礼な態度をはかっていたその姿は、ふと紫乃の口元を緩ませた。


「しかし、とある事件をきっかけにわたくしはその方の心の強さを知りました」


 あの日交わした抱擁でどれほど桃子の温さを感じ得たか。

 紫乃は目を開けた。


「いつの間にか、共に過ごす時間がかけがえなく、生まれて初めて心からお慕いしたいと思ったのでございます」


 紫乃は胸に手を当てた。その仕草に心からその者を思っているのだろうと感じ得る他ない。


「これから先、永遠とわにその方に仕えたいと思っておりました」


 紫乃の脳裏に先程の桃子とのやりとりが過ぎる。途端に唇が震えた。何かを失う時の恐怖がどっと押し寄せてきたのだ。


「桃子様が…桃子様がいなくなった後、わたくしはどう生きれば良いのか、分かりませぬ」


 ついにその名を口にした。紫乃の双眸そうぼうから涙が溢れる。

 願わくば共に行きたい。しかし、ふとその願望を抑え込む様に父や母、兄が脳裏に浮かぶ。母が言う『成りたい様になりなさい』という言葉は大奥での生き方を意味している。

 やはり別れしか道がない。

 悔しげに眉をひそめる紫乃に奥女中は言葉を投げかけた。


「その方はそなたにどう生きるべきか示したか」


 紫乃は首を振る。


「何も聞かず、わたくしは部屋を飛び出したのでございます…」

「そうか…」


 双方とも口を閉ざした。紫乃は既に水気を増した袖で涙を拭い、奥女中は何か考える様に瞳を閉じた。

 しばらくして口を開いたのは奥女中だった。


「今、伝えるべきだろうか」


 誰に問うわけでもなく呟かれたその言葉は奥女中が自らに問うたものであった。奥女中は頷いた。


「私はそなたの慕うその者から言伝を預かっておる」

「え?」


 紫乃は思わず聞き返した。そして桃子が他の奥女中と面識があった事にひどく驚いた。すると、目の前の奥女中が何か思い出した様に笑った。


「以前、何の約束も無しに私の元を訪ねて来た。文字の書ける女中がいる。故にその女中の才能をかってほしいと直談判しに来たのだ」


 紫乃は目を大きく見開いた。


「名乗るのを忘れていた。私は藤と申す。祐筆頭ゆうひつがしらを務めている」


 どうりでと紫乃は納得した。何処か近寄り難い貫禄を放ちながらも、器の大きさと慈愛深さの感ぜられるその雰囲気、まさに女中を束ねる者の佇まいであった。

 しかし、紫乃は祐筆がどの様な務めをしているのか、知らなかった。それを察した様に藤は、うむ、と頷く。


「私たちは文をしたため、し、後の大奥に伝える事を務めとしておる」


 途端に紫乃はハッと目を見開いた。以前、桃子と交わしたとあるやりとりを思い出したのだ。


 その日、紫乃は夢中になって筆を走らせていた。なぜなら、頭に鮮明に過る間に書き留めたいと思っていたからである。

「紫乃!」

「きゃっ」


 そんな無我夢中の紫乃にイタズラを仕掛けた桃子。驚く紫乃を前に桃子はニヤニヤと楽しげな表情を浮かべる。


「驚かさないでください」


 紫乃は胸に手を当てホッと息を撫で下ろした。


「何書いてんの?また、手紙?」

「いいえ、違います」


 机に広がる紙を覗き込み、首を傾げる桃子に紫乃は唇を尖らせ、誇らしげに言う。


「なーに勿体ぶってんの?教えろし」

「実は…」


「わたくしは、これまで桃子様が携わった様々なことを記録していたのです」


 紫乃は桃子が大奥に来てから今日こんにちまで、桃子の閃きで起こった様々な出来事を密かにしたためていた。

 あの日のやりとりを桃子様が記憶していた?

 衝撃を隠せず、動揺する紫乃に藤は言った。


「もし、そなたが桃子様の思いを汲み取るというなら、考える余地があるだろう」 


 桃子が新たな境地に踏み出すのと同じく、紫乃も新たな境地に踏み出すのだ。


「桃子様が、わたくしの為に…切り開いてくれた道…」

「心の整理が着いたなら参られよ」


 紫乃は藤の寛大な心に深く頭を下げた。


「私は歓迎する」


 そう言って微笑む藤はまるで菩薩ぼさつの様であった。

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