第71話 牡丹を濡らす雨
「紫乃、話があるの」
そう声をかけられ、妙にかしこまった桃子に紫乃は何事かと首を傾げた。紫乃は『また上様のことだろうか』と考えてみたもののそれにしてはあまりにも大人しい気がしたため、少し身構えた。
「如何なさいましたか?」
うん、と伏し目がちになる桃子。桃子の脳裏にはこの後に変化するであろう紫乃の悲しみを帯びた顔が過っていた。しかし、もう決断したことだ。伝えなければならない。
「実はね。桃、大奥を出る事にしたの」
「え」
聞き間違いだろうか。聞き間違いであってほしい。
紫乃は恐る恐る
「言葉の意味がわかりませぬ」
と震える唇を動かした。
「もうここでの生活はやめて、一人で生きていこうと思うの」
そして桃子は決断に至ったわけを伝えた。その間、紫乃は受け止めたくないという思いからか、拳をギュッと握りしめていた。
「わたくしは、嫌でございます」
桃子が話し合えると同時に紫乃は声を上げた。涙を堪える様に震える唇をギュッと噛み締めるその姿に桃子が泣きそうになった。
「紫乃…」
「紫乃も桃子様について行きます」
言葉にしたもののそれが決して叶わぬ願いである事を紫乃は分かっていた。紫乃の双眸から大粒の涙が溢れる。
そんな紫乃を桃子は堪らなくなり、自分の胸に抱き寄せた。
「紫乃泣かないで」
桃子も涙声である。紫乃は首を振る。
「わたくしは泣いておりませぬ!」
そうは言いつつも、もう誤魔化しが効かないほどに着物の袖に咲く牡丹の花が
「わたくしは、桃子様の世話係でございます。桃子様はもうわたくし無しでは生きられないのでございます」
「紫乃…」
「それに桃子様が一人で生きていくなど不可能でございます!野垂れ死ぬに決まっております…!」
桃子は紫乃の辛辣な言葉が桃子を引き止めるための必死の策だと気づいていた。その為、うんうん、と頷きながら紫乃を宥める事に尽くした。すると紫乃は首を左右に振る。
「わたくしが…わたくしが桃子様無しでは生きられないのでございます!」
誰よりも多くの時間を共にした紫乃にとって桃子の消失はとてつもなく、大きい。姉の様に慕いながらも、時に手を焼き、しかし恋焦がれた存在。
紫乃は桃子の腕の中から身を離し、駆け出した。
「紫乃…!」
桃子は駆けていく紫乃の背中に叫んだ。その声は届く事なく、ひとり残された桃子の心に痛く染みた。
***
「桃子様…」
紫乃は止めどなく溢れる涙を拭いながら歩いていた。頭の中にはこれまで桃子と過ごした日々が過ぎるばかりで、そうした思い出で一層と紫乃の視界を朧げにする。
その為、前方からやって来た人物を避ける事が出来ず、衝突した紫乃は尻餅をついた。
「申し訳ございません!」
紫乃は視界が開けた目で人物を捉えた。その人物は、
途端に紫乃は膝を揃え、床に頭をついた。
「申し訳ございません」
紫乃は無事にやり過ごしたいと願った。
「そなた、何故泣いておる」
「…え?」
滑らかな声色に紫乃は思わず顔を上げた。するとその人物は打掛を翻し、
「わたしの部屋に来なさい」
と踵を返した。
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