第70話 幾年越しの感謝

「なんか今思えば、あの時の桃、狂い過ぎだなって笑っちゃう。本当まさにホス狂だった」


 桃子は、あははは、と笑いながら言う。福は知られざる桃子の過去に、未来であるからそうなのかもしれないが現実味を感じられなかった。しかし、桃子が受けた心の痛みは肌が痛むほど感じ得ることができた。


「ほとんどの生きてる人って前世に受けた痛みなんて忘れてるんだよ。多分、同じ痛み受けても記憶にないから新しい経験として記憶してるんだと思うのね」 


 福は頷きながら聞いた。


「桃はさ、こうして奇跡的に前世、過去に経験した痛み?失敗を覚えてるわけじゃん。なら、もう同じ事は二度と繰り返したくないし。せっかく新しい人生歩み始めたんだから、もっと違う人生の楽しみ方ってあるかなって思ったの」


 桃子の瞳はキラキラと輝いている。


「だからここを出て江戸の町で一人で生きてみようと思う」


 福はもう桃子の考えを改める策がないと思った。これまでの日々を思い返すと目頭が熱くなる。瞳を閉じ、一呼吸した。


「そなたがそれを望むのなら仕方がないことじゃ」


 福は声が震えぬ様、腹の底から声を上げた。

桃子は、ほろりと頬を緩ませ「ありがとう」と福の手を握る。その手は温かで、桃子は母の手を思った。もう、触れる事がないのであろう母の手。初めてにして最後の福の手。

これから一人で生きていく。

 桃子は溢れそうになる涙を堪えた。


「桃子には数え切れないほどの恩がある」


 家光の将軍確約から幕政の改革まで桃子の閃きが頼りになった。


「残りの人生をかけても返し切れないだろう」


 福は珍しく冗談めいた言葉を口にした。桃子は、らしくないと思いながらも福なりの気遣いなのだろうと笑った。


「生活で必要なものは、こちで手配しよう」


 せめてもの恩じゃ、と福は言う。桃子は福の粋な計らいに素直に

「ありがとう」

 と感謝を伝えた。


「それから…」と桃子は福を上目遣いに見る。どうしたものか、と福は小首を傾げた。


「あの時、桃を助けてくれてありがとう」


 桃子は深く頭を下げた。

一瞬、福は何のことだか分からず、頭にハテナを浮かべた。すると桃子が恥じらいながら言った。


「初めて会った時…おじさんと揉めてた桃子を助けてくれたでしょ…?」


 福は、ああ、と思い出した様に声を上げる。初めて対面した時、懐きの悪い猫の様にツンけんとした桃子の態度。福は吹き出す様に高々と笑った。


「ははは、今ようやくあの時の感謝の言葉を聞いたわ」


 あまりにも昔の事で懐かしさのあまり、またも目頭が熱くなる。老いたものだな、と福はしみじみと思う。

 ふと、福は思い出した様に声を上げた。


「紫乃には伝えたのか」

「まだ、伝えてない」


 桃子は苦笑を浮かべる。それもそうだ。桃子の世話係として長年仕えてきた紫乃が、この話を聞いてしまったならば、どの様な反応を示すか、容易に想像できる。


「紫乃が納得する様、伝える事ができるのか」


 福の問いに桃子は口をキュッと結ぶ。しかしすぐに、何か策がある様で自信に満ちた瞳を福に向けた。


「まぁ桃、紫乃の事よくわかってるからさっ」

「そうか」


 福はふっと笑った。これ以上深入りするのは、よそう。しかし、もう一つ確かめておかなければならない事がある。


「家光にはどう伝える」

「それはちょっと考え中…」


 流石の桃子でも、これは難問の様だ。


「でも、黙って勝手にいなくなるって事はしないよ!ちゃんと、ありのままを伝える」

「そうか…もしもの時は妾を頼ってくれ」

「うん、ありがとう」


 こうして桃子は福の部屋を後にした。ひとり部屋に残された福は寒空を見上げた。そして庭を見渡す。間もなく、雪解けを迎え、新たな春の季節がやってくる。桃子を送り出すには良い季節であろう。


「まだ、冷えるな」


 福は肩をすくめ、襖を閉めた。

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