第48話 サイレント・ミッション

 “滅茶苦茶耳が良い巨大ゴリラ複数体に囲まれている”という情報は私の心を折りかけるには十分過ぎる破壊力だった。なんとか平静を保てたのは、「今私が諦めたらこの子たちを誰が守るんだ!」という胸の叫びのおかげだった。私にこの子たちを見捨てるという選択肢はない。それを考えることすら論外だ。あり得ない。


 絶望的状況と使命感はかえって脳をクリアにするらしい。一周回って冷静になった私は改めて周囲を観察する。ワゴンを押したまま階を移動する手段は恐らくエレベーターのみ。それも動くかどうかわからない上、動いたとしても駆動音などで間違いなくゴリラに気付かれるだろう。そしてひとたび気付かれれば――その先は考えるまでもない。


(……)


 視線の先にいるゴリラは先ほどのドラミング以降その場から動く様子がない。キョロキョロと周囲を探るような気配すらもなくただただ佇んでいる。おそらく、代わりにその鋭敏な耳をそばだてているのだろう。


(逆に考えれば……わざと音を立てることで誘導することもできる……?)


 ふと、そんな考えが浮かんだ。例えば何か遠くで何らかの音を立て、ゴリラがそれに気を取られている間に行動する、とか。


(でも、どうやって……?)


 生身の私に出来ることは限られている。何か飛び道具でもあれば良かったのだろうが、当然ながら服屋にそんなものは置いていない。


 音を立てないように気をつけながら、深呼吸を1つ。


(結局……今頼れるのは自分の体だけ、か)


 気合いを入れるように、1度ぐるんと肩を回す。球技系の部活への助っ人参戦で知らぬ間に高まった投球能力を活かすべき時が来たらしい。


 足元を見て、投げるのに手頃なサイズのものが落ちていないかを確認する。散乱しているものは数多いが、遠くで音を立てることが目的なのでなるべく硬さのあるものがいい。


(……よし)


 結果、私はマネキンの左手を手に取った。握り拳と開いた手の中間のような曖昧な形をしている。硬さは申し分なく、投げるにも支障はない。


(上手く釣られてくれるといいんだけ……ど!!)


 意を決して、振りかぶったマネキンの左手を投擲する。普通の床で普通に投げるだけならただゴリラを目の前に引き寄せてしまうだけの結果に終わるだろうが、ここはショッピングモール。フロアの中央には吹き抜けのエスカレータースペースがある。


 マネキンの左手は、私の意図した通りそこへ吸い込まれるようにして階下へと落ちていった。マネキンの左手はかなり下まで到達したらしく、私の耳には何も聞こえて来ない。


 だが、ゴリラの反応は劇的だった。


 私の視界にいる1頭が激しいドラミングと共に怒号を轟かせ、吹き抜けからダイブして行った。その直後、上の階にいたもう1頭も飛び降りて来る。階下にいたもう1頭の反応もおそらく同じだろう。


 そして響き渡る連続した破壊音と雄叫びに、私は冷や汗をかかずにはいられなかった。罷り間違っても音を立ててはいけないと改めて思い直す。ちなみに赤ちゃんたちは階下の騒音などどこ吹く風といった様子ですやすや眠っていた。助かった。


 ゴリラたちの気が済むまで、だいたい1分くらいかかっただろうか。音を立てた対象を血眼になって探しているのか、ゴリラたちが戻って来る気配はない。無事に目の前からゴリラを退かすという目的は達成したが、あの程度の音でも襲ってくるとなれば目の前にいるのとほとんど変わりはないだろう。


(やっぱりゴリラたちをまた刺激して……あの破壊音に紛れて動くしかないか……)


 おそらくあれだけの破壊音ならば、私が出す音も十分に掻き消してくれることだろう。だが、猶予はゴリラの気まぐれに任せるしかないし、次も赤ちゃんたちが起きないという保証もない。


 私は取るべき行動を吟味しながら、マネキンの片手をもう1つ拾い上げるのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る