第16話 来宵、奮起す

 ひっくり返ってタイヤを天に向けた大型バスの陰に身を潜め、私はようやく一息つくことが出来た。あちこちが砕けたアスファルトの上を裸足で歩く羽目になったせいで足の裏が痛い。


 寝間着の袖を渾身の力を込めて千切り、足に巻き付ける。お気に入りだったため苦渋の決断だったが、どうせ夢の中なんだし、と自分に言い聞かせて実行した。現実に戻った時本当に袖が千切れてたら泣くかもしれない。流石に厚みが足りないためかアスファルトの感触はほぼダイレクトに伝わって来るが、皮膚の表面を守れるだけでも十分だろう。擦り傷で歩けないなんてことになったら本当に終わりだ。


 遠くの方ではひっきりなしに爆音が響いており、それに混じって、身の毛もよだつような絶叫も聞こえて来る。脳裏に、テディベアが白骨化したかのような顔と枯れ枝のような細長い腕が浮かんだ。幸いまだそれらと遭遇してはいないけれど、ここから出られなければ時間の問題だと思う。


 そもそも、この明晰夢から脱出する方法を私は知らない。


 昨夜は暁くん(?)たちが怪物を倒したことで夜が明けたように見えたけれど……


(もし怪物の撃破が脱出の条件だったとしたら……)


 私は想像する。怪物と正面から向かい合う自分の姿を。それも昨日のように突然の遭遇では無く、自分の意思で。


(いや無理無理無理無理無理無理!!)


 想像の中の勇敢な自分が砕け散り、昨夜の、蛇に睨まれた蛙のように完全に固まってしまった自分の姿に取って変わった。


 ひったくりをこかしたり、店員を脅迫することに夢中で油断しきっていた強盗の膝裏を蹴っ飛ばしてやった時とは訳が違う。それらも恐怖を覚えるエピソードではあったけど、あの怪物がもたらす恐怖はもっと別の……言わば生物としての本能に突き刺さるようなモノだった。


 捕食者怪物と、獲物人間という構図。色々場数を踏んではいても、根本的にただの人である私にそれをひっくり返すことは敵わない。あの推定暁兄妹のように、超常の力を振るったりは出来ないのだ。私は。


「でも、何の抵抗も出来ないのは……嫌だな」


 せめて身を守れるくらいの物は欲しい、と、私は周囲に目を向ける。すると、ビルから剥がれ落ちたらしき、一抱えほどのコンクリートブロックが目に止まった。そこから長めの鉄筋が、如何にも選ばれし勇者の剣です、といった風情で突き出している。


「なんだそりゃ」


 こんな冗談が浮かんで来るようになったのは不安が一周でもしたからだろうか、と自分に突っ込みながら、私はただの鉄筋勇者の剣を掴んだ。意外と脆かったのか、鉄筋はブロックを2つに割りながらあっさりと引き抜かれた。思ったよりもズシリと来るその重さが頼もしい。


 怪物に効くかはわからないけど、振り払うくらいは出来るだろう。私の心に、少しだけ余裕が生まれた。


 だからだろうか。


「――ヒぃ――――」


 微かな、本当に微かな悲鳴らしきものが耳に届いたのは。


 恐る恐るバスの陰から顔を出すと、通りを50メートル程進んだ先で、腰を抜かしてしまっている黄色いガウンのおばあさんと、今にも襲いかからんばかりのダンゴムシみたいな怪物たちの姿が見えた。


「――――」


 その瞬間、私の思考が白く染まった。


 さっき立ち向かうのは無理だと思ったこととか、私はただの人間なんだぞとか、獲物が捕食者に抗えるものかとか、そういう警告のようなものは全部彼方にぶっ飛んだ。


 気付いた時には、私の体はバスの陰から飛び出し、アスファルトの上を一気に駆け抜けて、鎌首をもたげるように伸び上がって鋭利な牙を光らせていたダンゴムシに肉薄していた。


「やああああああああッ!!」


 裂帛の咆哮と共にフルスイングされた鉄筋が、ダンゴムシを天高く打ち上げる――

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