第9話 現夢潜行
<side:暁日人>
太陽が、地平線の向こうに消えて行く。世界が闇に包まれ、静寂が支配する空間となる。
夜。多くの人々が身体を休め、心を癒やす時間帯。じきに、当たり前に朝が来ることを微塵も疑わないまま、ベッドに入る者も出てくることだろう。
だが、現在のこの街に限っては、残念ながら朝が来ることは当たり前ではない。
「なんか。こうしていると屋上に忍び込んだみたい。悪いことしてる気分で、ちょっとドキドキする……」
傍らに立つ日向が、軽くストレッチをしながら楽しげな口調で言った。今俺たちがいるのは、今日転校して来たばかりの高校の、緑化がされた校舎の屋上。クラスメイトが突撃して来るというアクシデントこそあったが、彼女を帰して以降は特に何事も起きていない。完全下校時刻はついさっき過ぎて、眼下の校庭を、勉強熱心な居残り組がまばらに校門の方へ歩いて行くのが見えた。
職員室の明かりはまだ点いているし、この屋上庭園にあるものも含め監視カメラはしっかり機能している。しかし、いずれも俺たちの姿を捉えることはない。
「……悪いこと、か。今更ながら、階に対して罪悪感が湧いて来たな」
「仕方ない。まさか【
「そうだな……」と返しながら、俺は先程突撃して来たクラスメイト――階 来宵の顔を思い出す。昨日救い出したやつが隣の席になるなどとは考えもしなかったので、実は教室でも平静を取り繕うのに苦労していたのだ。しかも、普通の人間の記憶には残らないはずの【現夢境】の出来事を覚えているという、最大級の
故に俺たちは、彼女に対しては盛大に知らないフリをする以外仕方がなかったのだった。
“ただの悪い夢”ということにしてしまった方が良い。あんな空間が存在するなどということを知ってしまうよりは。今なら彼女はまだ、平和な日々に戻ることができるのだから。
俺は小さな懐中時計を取り出し、文字盤を確認する。短針と蛍光グリーンの針が、今正に重なろうという所だった。
「間もなくだ。準備は良いか?」
「いつでも。……これ以上、関係ない人たちから犠牲者は出させない」
感情の高ぶりに合わせ、日向の瞳が青白く瞬く。お互い心構えは万端だ。今夜は深いとの観測結果なので骨は折れるだろうが、さしたる問題ではない。
そうこうしている内に時が来た。懐中時計の短針と蛍光グリーンの針が完全に重なり、
瞬間、世界が停止した。
……正確には、俺たちが現世から切り離された。止まって見える周囲の風景は、俺たちがまだ現世に存在していた最後の状態のまま固定されている。
俺は時計の文字盤が放つ光を前方へ向けた。空間が揺らめき、まるで水面のようにいくつも波紋が広がって行く。俺と日向は頷き合うと、タイミングを合わせてその波紋に飛び込んで行った。
最初に感じたのは猛烈な風。次いで浮遊感。波紋を通り抜けた途端に、俺たちは高空から落下している状態になったのだ。にもかかわらず、急激な気圧や温度の低下による身体の変調はない。もうこの急降下も慣れたものだ。
「【
隣で俺と同様に全身で強風を浴びていた日向が静かに呟くと、纏っていた高校の制服が爪先から深い青を基調とした燕尾服に変化し、虚空から現れた清廉なサーベルが腰に装着された。サーベルのナックルガードに嵌め込まれた3つの宝石が、煌々と夜空を照らす月光を反射して存在感を示す。
「【
それを確認し、俺もまた力ある言葉を紡いで手に収まっていた懐中時計を宙空へ解き放つ。時計は即座に弾け飛んで無数の光の粒と化すと、俺の全身にまとわりついて学生服を黒と銀色のコートへ変えた。自分では確認出来ないが、髪や瞳の色も銀色に変化していることだろう。
最後に蛍光グリーンの針が俺の手に戻ると、それは日向が持っているものと寸分違わぬデザインのサーベルへ変成した。
戦いの準備は出来た。青と銀の粒子を散らしながら、俺たちは巨大な満月をバックに地表を目指す。眼下には、俺たちが転校して来た街の姿。しかし、林立するビル群は戦争でもあったかのように損壊しているものが目立ち、道路端にはスクラップとなった車の山が多数見られた。ほとんど現世の街と変わらなかった昨晩の風景とは大違いだ。
日向の観測結果通り、今夜の【現夢境】は、深い。つまりは、かなりの長丁場が予想される、ということだった。
とはいえ、やることに変わりはない。俺は強化された眼で地上を精査し、日向へと早口で指示を飛ばす。
「地表付近に目標多数。火属性。日向は西から奴らを市役所の広場へ追い立てろ。俺は東からだ。合流後に【
「オッケー。また後でね」
俺たちは身を捻って足裏を合わせると、互いを蹴り飛ばす勢いで東西に分かれた。
こうして今宵も人知れず、戦端は開かれる。
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