第8話 困惑の屋上
『全く身に覚えが無い』
その言葉を、すぐには理解することが出来なかった。それでは昨晩私を助けてくれたのは、いったい誰だったというのか。限りなく2人に似ているだけの別人だったというのか。頭の中で、そんな思考がぐるぐる回る。
暁くんは困ったような表情で日向ちゃんと顔を見合せると、
「少なくとも昨日の夜は、越して来たばかりで疲れていたから普通に眠っていたよ。……まさか翌日まで引っ張るとは思わなかったが」
「それでクラスのみんなが困ってたって聞いたよ。しょうがないにーさんだなぁもう」
「面目ない」
「普通に……」
私はそこで思った。普通に眠っていた、ということは、“夢を見る機会はあった”ということ。兄妹にも、あの明晰夢を見る可能性はあったのだ。
「じ、じゃあ昨日の夜、何か夢を見たりは……」
「いや、何も見てはいない。ばっちりと
私が一縷の望みを掛けた質問も、残念なことに不発に終わった。日向ちゃんの方も同様で、何も見ずに朝を迎えたという。
「そんな……」
「まあ、聞く限りだと明晰夢だったみたいだし、普通の夢以上にリアルに感じたってだけなんじゃないのか?俺たちが出てきたっていうのは謎だが」
「きっと新手の正夢だよにーさん。運命的だね」
日向ちゃんのその言葉に、昨夜の女の子の去り際のセリフが蘇る。あの『すぐにまた会える』とは、夢に出てきた彼女では無く“本物の日向ちゃんと会える”という意味だったのだろうか……?
「という訳なので。兄共々これから宜しくお願いします。階先輩」
気がつくと、日向ちゃんが右手を差し出していたので、私もその手を握り返す。風のせいか金属に触れていたせいかはわからないが、その手は、昨晩よりもやたらと冷たく感じた……。
結局、昨夜の出来事は非常に凝った正夢として結論付けられてしまいそれ以上進展することは無く、私は混乱したまま、暁くんから大量の安眠グッズと深い眠りのためのアドバイスの数々を貰って家路につくのだった。
釈然となど、するはずがなかった……。
◼️◼️◼️◼️◼️◼️
「……」
「……」
しきりに首をひねりながら帰って行く来宵を見送ると、暁兄妹は再び屋上の端へ向き直った。西へ傾いた太陽がオレンジ色の光を放ち、夕闇に沈みゆく街並みを染め上げている。
「……どういう、ことだ?」
暫く続いた沈黙を、
「何故階にあの世界での記憶が残ってる?」
「わかんない。私もかなり混乱してる」
両目に当てていた大型の双眼鏡を下ろし、日向は視線を街並みの方へ向けたまま応えた。黒かったその瞳は、今は誘蛾灯のような青白い光を湛えている。
「階先輩は普通の人間だし、悪夢から解放されたならその記憶も消えているはず……だよね」
「ああ、普通の人間はあの世界での記憶を保持出来ない。楽しい夢だろうと悪夢だろうと、目覚めればいずれ薄れて消えてしまうように」
日向に首肯を返しながら、日人はおもむろに制服の胸ポケットを探る。
取り出されたのは、文字盤のサイズが500円玉程度の、銀色の小さな懐中時計だった。その時計には長針短針と秒針の他に、不気味な蛍光グリーンで染められた、短針と同じサイズの4本目の針が存在している。あと3時間もすれば、その針は短針とピッタリ重なるだろうと思われた。
「……後少しか。わからないものをいつまでも考えている場合では無くなって来たな」
「そうだね。先輩のことは一端脇に置いておこうか……」
光を放つ眼を細めて、日向は彼方の景色を睨んだ。
「今夜は。深いよ……」
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