第25話 あなたの活躍は脱帽ものです

 山あいの街道は、鬱蒼と茂る森に包まれていた。登りに降りとアップダウンも激しく、薄暗さも相まって見通しは悪かった。


「でも道は整備されてるからな。迷子になる心配は無さそうだ」


 周囲に危険があるかは警戒した。敵は、魔獣は居るのか。先を急ぎつつも神経を張り巡らせておく。


 すると、やがて大きな違和感に気付かされる。


「これだけ大きい森なのに、静かすぎじゃないか?」


 生物の気配がない。鳥も、虫も、鳴き声の1つすらあげないのは不自然だ。そう思うと、この地域自体が巨大な罠のようにも思え、怖気が走った。


 それでも引き返すつもりはない。ただ前を進むのみ。小川を渡り、岩山を登り、谷間を跳躍して抜けた。片時も休むもんか。そんな覚悟も、漂う異変を前にして怯んでしまった。


「なんだこの臭い……。それに霧まで出てきたのか」


 すえた臭いに思わず口元を覆った。視界も不明瞭なのは、モヤらしきものが立ち込めているからだ。見間違いとも感じた変化はたしかに起きている。濃紫に染め上げられた霧は、赤黒い空を映したかのようで、やはり不穏だった。


 足を止めるうち、首筋に電流が走った。それは頭の奥深くに痛みを誘発し、徐々に強まっていく。ここに居てはいけない。本能が鳴らした警鐘を疑う余地は無かった。


「それに急がなきゃ。早く向こうに辿り着かないと……」


 再び道を駆け始めた。しかし気持ちとは裏腹に足並みは落ちるばかり。頭痛も激しさを増していて、後頭部をハンマーで殴られている気分になる。手足が鉛のように重く、腹の底にズシリとした疲労が感じられる。


 足は酷くもつれた。腹から倒れて小砂利を噛んだ。そしてとうとう身動きすら取れなくなってしまう。


「ゴホッゴホ! さっきよりも霧が濃い……」


 周囲を視認できるかも怪しい程だ。地面に寝そべっていなければ、道の上だと忘れてしまいそうだ。


 僕は急いでいるのに、先へ行かなくちゃならないのに。焦りが、項垂れる腕を持ち上げさせるけど、それも力なく投げ出された。


「あれ、僕は何をしたかったんだっけ?」


 何かを考えようにも頭痛が激しい。思考はまとまらず、組み立てる傍から崩れるようだ。


 少し休まなきゃ。地面の上でも構わない。砂利に頬を寄せつつ寝転がると、不意に誰かの声が聞こえてきた。名前は、顔はどうだったか。思い出せなくとも、確かにかつて縁のあった人物だ。


――お前みたいな役立たずを雇ってやるだけも感謝しろよ。パシリにしか使えねぇカス野郎が。


 やはり名前は思い出せない。しかし前の会社の人だった事は覚えている。


――先輩のミスを見つけてフォローすんのがお前の仕事だろうが。だからこの業務はお前のミスのせいだ。終わるまで帰るんじゃねぇぞ。


――おい、今月の指導料を寄越せ。普段から仕事を教えてやってんだ。給料を丸々差し出すくらいの気持ちを見せろよ。


 あの人も魔界に居るのか。人間じゃ無かったって事か。正直、不愉快だからどこかへ行って欲しい。


――マジで無能。使えるとこ無し。2度と公道を歩くなよ、社会のお荷物の癖に。次からは這って歩け。


 そうだ、僕は平凡。平凡以下の人間だ。言われなくたって知っている。大それた事なんて出来やしない。一般的な生き方すら危うい出来損ないだって。


 そう思えば一層脱力が激しくなる。すると、耳にうるさい声は質を変えていった。


――飛び込み自殺だってよ。写真とってSNSに上げようぜ。


――お付き合いとか、ちょっと勘弁かな。ほら、マジマくんって全然面白くないし。見た目だって良くないし。


――この前借りた金はもう少し待ってくれよ。次のこづかい貰えたら絶対返すからさ。


 やがてそれらの声は、馴染みのあるものから縁の遠いものに移り変わっていく。


――商店街で刃物を持った男が暴れました。店員の態度が気に食わなかったと供述している模様です。


――明確なメリットが無いと政治は変わりませんよ。やはり社会とは正義ではなく、金と力関係がですね。


――ネットでの誹謗中傷が社会問題になりつつありますが、法整備は間に合っておらず……。


――社会人ならば会社に全ての労力を、時間を、時には命さえも捧げてようやく一人前なのです。それに引き換え最近の風潮たるや……。


 あぁ、下らないなと思う。僕という存在も、そして僕を取り巻く環境も。


 こんな世界で生きて、頑張ろうとして何が得られるのか。きっとささやかな幸福すら手に入らない。路肩に転がる小石がせいぜい。それが僕の運命だというのなら、努力しない方が楽できるだけ快適だと言えた。


「こうして這いつくばるのが、僕にはお似合いだよ」


 改めて言葉にすると、更に気力は萎れていった。指の1本も動かす気になれない。いっそのこと、このまま大地に飲み込まれ、養分として役目を果たす方が良いとさえ思う。


 すると、近くで重たいものを引きずる音が聞こえた。こちらに迫っている。しかし顔を起こす気にすらなれない。何者だって構わないとも思う。


 音が止んだ。何かが絡みついてくる。顔が、身体が持ち上がり、宙に浮いた。


「君は、誰だ……?」


「クケケケ、クケェェ」


 正面には眼を血走らせて笑う女性の姿。巨大な花から上半身が突き出た様な容貌だ。足の代わりに触手が何本も生えており、そのうちの1本が僕を捕らえている。


 これは食われてしまうのか。そうなれば僕は君になるのか、それとも僕が君になるのか。別にどうだって良いか。この絶望感から逃げられるなら、他は些細な事ばかりだ。


「さようなら。エレンさん」


 何の気無しに漏れた言葉は、突然意思を宿したかのように、僕の脳裏を駆け巡った。再び鋭い頭痛が走る。しかし今度のは温かであり、輝かしい光景をも連れてやって来た。


――そんなに畏まらないで。これから一緒に働く仲間なんだから。


――もう仕事を覚えたの? 頼りになるわぁ。


――うぇぇ不味い……。コーヒー残ってるの忘れてた。


――あなたが私達魔族を受け入れてくれた事、とても心強く感じるの。


――凄いじゃない、あなたは最高よ!


 腑抜けた体に、少しずつ気力が、温もりが取り戻されていくのが分かる。そうだ、なぜ忘れてしまったんだ。僕には命に替えてでも救わなければいけない人が、危機に脅かされながらも待っているんだ。


 両腕、両足は触手に締め付けられている。渾身の力で抵抗した。


「離せよ、この……!」


 締め付けの力は強烈だ。しかも更に強められていく。


「こんな所で……やられてたまるか……!」


 形勢はどう見ても不利。それでも諦めない。いや、その更に上を、限界の先まで到達する事に賭けるしかなかった。


――魔力は想いの力に左右されるわ。


 そう、強く願うんだ。エレンさんを、この世に渦巻く暴力から、あらゆる理不尽から守るための力を。


「力を、寄越せーーッ!」


 弾けた。触手の破片が飛び散る。敵は痛みで身悶えていた。


 これ以上のチャンスはない。僕は大きく跳躍して逃れ、再び先を急いだ。


「もしかして、高い場所は瘴気が薄いのか?」


 予感は正しかった。木々の頭を飛び越して進んでいると、臭いが和らぐ事に気付いた。走るよりも跳んだ方が良い。


 満足に息も吸えないのは流石に辛い。肺が焼け付いたように痛み、脳も圧迫されたような悲鳴をあげた。それでも跳ぶ。構わず先を行く。


 それからの事だ。周囲の木々が消え失せ、なだらかな丘陵地帯に辿り着いた。


「ゲホッゲホ! もしかして抜けたのか?」


 周囲に濃紫の気配は無い。赤黒い空と、どこまでも草原が続く光景だけが見えた。


「突破できたみたいだ。死ぬほど疲れたけど……」


 その時、アネッサさんの餞別を思い出し、瓶を開封した。魔力薬だというそれは、とにかく意地の悪い程の味わいだった。


「苦すぎる! でも、ちょっとだけ元気になったかな」


 多少の気怠さを残しつつも、全身は問題なく動いた。良薬口に苦しは、魔界でもちゃんと通じそうに思う。


 すぐに丘を駆け抜け、風を追い越して駆けていく。遠くに砦らしき拠点がポツリと佇んでいる。行く宛ては、見失う方が難しいけど、焦りで胸の内が黒く染まる。


「こんなにも激しい戦だったのか。無事でいてくれよ!」


 そこらには激戦の爪痕が散らばっていた。柄の折れた軍旗、破損した剣に槍、鎧らしき金属の残骸。打ち捨てられた数多の荷車も、ほとんどが粉砕されていた。地面には大穴が開くか、巨大な爪で裂かれた跡が刻まれて痛々しい。


 それらの不穏な光景を横目に、全力で駆け抜けていく。そのうち、ふと違和感に気付かされた。もう1度眼を向ければ、そこには見知った顔が横たわっていた。


「オルトロス、こんな所にいたのか!」


「グルル……」


 返答は腹ばいの姿勢で返された。顔に生気はある。しかし、一向に立ち上がろうとする気配はない。


「お前、足を怪我したのか。ちょっと見せてみろ」


 赤く滲む後ろ足に歩み寄ってみると、頬を激しく殴打された。尻尾による洗礼だった。


「お前な、こんな時くらい我慢しろよ。女好きだって知ってるけどさ」


「グルルル!」


 威圧的な声だけど様子がおかしい。しきりに顔をあらぬ方に向けているのだ。いや、そちらは砦がある方角だった。


「もしかして、早く行けと言いたいのか?」


 オルトロスは答えない。しかし瞳には強い意志が宿っており、すがる気配は微塵もない。


「分かったよ。動けるまで休んでろ」


 語り合う互いの瞳。初めてオルトロスと打ち解けたような気分に、どこか面映ゆくなる。


「お前も死ぬなよ、絶対だぞ!」


 僕はこの時点で確信した。エレンさんはまだ生きていると。そして、今もまだ危険に晒されている事を。


 砦がいよいよ近づく。すると小刻みな金属音、肌がひりつく気配が強まっていく。近い。丘の向こうか。


 大きく飛んで次の光景が眼に映る。その途端に緊張感が瞬間的に高まり、腹を殴られたような衝撃として現れた。


「やめろ! エレンさんに手を出すな!」


 横たわる彼女。折れた大鎌。対するは巨大なカマキリ。人よりも巨大な自身の鎌を高々と掲げ、今まさに振り下ろそうとしていた。


 着地。駆ける。全力以上の力を足先へ。痛めてしまっても良い。指がもげて腐り落ちても構わない。今この一瞬だけでも、限りのない力を僕に。


「間に合えぇーーッ!」


 倒れ伏す体。飛び越す。振り下ろし。交差した腕をかかげて対抗。骨が軋むような衝撃。重力が数倍になったかのような重圧。しかし、確かにその攻撃は宙で止まった。


 後ろを振り向けば、鎌の先がエレンさんの目と鼻の先で揺れている。間一髪。僅か数センチ。指先程度の距離が、成否を明確に分けていた。


 どうやらコンマ秒単位で成功したらしい。無理を重ねた報酬は、愛する人の生存だった。


「は、ははっ。ギリギリセーフ!」


「嘘でしょ。マジマくんなの……?」


 聞き慣れた、そしてすれ違いが元で奪われた声が、僕の耳に戻された。胸の奥からは安堵がこみ上げて溢れた。それは強敵と相対する緊張すらも飲み込み、ひとときの安らぎを与えてくれた。

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