第16話 スタッフは大切な家族も同然です

 金曜午後。本来なら心躍る時間帯なのだが、心細さで一杯だ。魔王様は朝から不在。エミさんはオルトロスの散歩に出掛けた。そしてモーリアスさんは、激怒したエレンさんを背後に初夏の空へと旅立った後だ。


「何でだろ。こんな時は物音が気になるんだよな……」


 建物が軋む音、風でカタカタと鳴る窓。それら1つひとつが意味深なものに感じられ、背中にヒヤリとした寒気を覚えてしまう。もちろん気のせいだと理解している。それでも何か居るのではと、本能が警鐘を鳴らしてくる。


 例えばホラー映画を見た後のシャンプーのような、あるいは夜中に洗面台の鏡を眺める時のような、非科学的な事象が起きそうな気配。もっともこの場においてオバケが出ようと不思議ではないのだが、ゾワッとした怖気は止まなかった。


 今もやはり床の軋む音、発光した気配もあった気がする。でも誰も居ないのだから全ては勘違い、神経が過敏になった結果でしかない。


「ダメだダメだ。仕事に集中しなきゃ……」


「独り言ですか。やはりこの会社でのお務めが辛いのでは?」


「ヒィィーーッ! どちら様ァ!」


「おや、これは心外です。この私をお忘れになるとは」


 椅子から転げ落ちそうになるのをどうにか堪えていると、聞き慣れた声だと気づく。どうにかして視線を送ってみれば、見覚えのある顔が僕を見下ろす光景があった。


「あなたはトルネリアさん。魔王様の知り合いの」


「覚えていておいでですか、まぁ当然です。私のごとき見目麗しき容貌は、ニンゲンにすれば垂涎ものですからね」


 僕の記憶に根付いてるのは、もちろん美貌なんかじゃない。異様なしつこさ、そして自己中心的な人物として鮮明に覚えているのだ。それはもうクッキリと、心理的レイヤーの最上部にある。


「何の用ですか。魔王様なら外してますよ」


「いえいえ。本日の目的はアナタですよ」


「ぼ……僕ですか?」


「必ずやさらってみせる。先日、そう告げたでしょう。いつぞやお会いした時よりも更に混じっていますね、良い兆候です」


 眼前の整った顔に笑みが溢れる。見惚れそうになる感覚は一切なく、むしろ蛇に睨まれたカエルの心地だ。腕力で敵う相手でない事は本能的に分かる。ならばせめて意地というか、明確な意思表示くらいやっておくべきだ。


 混じるとか、気がかりな単語があっても無視だ。ここで相手に付け入る隙を与えてはいけない。


「前にも言ったでしょ。僕はここを辞めません。その気持ちなら変わってませんから」


「そんな事言わずに。本日は手土産をお持ちしました、きっと気に入ると思いますよ」


 相変わらず話を聞いてくれない。僕の言葉なんぞ右から左で、さっそく何かを取り出そうと胸元を漁りだした。どこにしまってんだよ。


「まずはコチラをどうぞ」


 胸の谷間から小瓶をつまみ出し、僕の手に渡された。掌に収まるサイズでガラス製、頂点の部分には金属の蓋。中身は透明な液体だ。


 そんな見た目はさておき微妙な温もりが不快だ。想い人ならともかく、厄介さんの生肌になんか憧れようがない。


「要りませんよ。そもそも何か分からないし」


「何をおっしゃいますか。こちらは魔界でも希少品で、極めて高価な薬品ですよ」


「どんなに高くても、要らないものは要らないんです」


「フフッ。薬の効能を知っても拒絶が出来ますか」


 トルネリアさんは小瓶に手を伸ばすと、蓋の部分を押し込んだ。すると周囲に透明な霧が噴射され、広がっていく。ツンとした感覚から微かにムセてしまった。


「ゴホッ。何するんですか!」


「騒がぬよう。これは抗虫の秘薬という、ありがたい薬品なのですよ」


「こうちゅう?」


「ニンゲンは夏になれば山だの海だのと出かけるのでしょう。無防備にも薄着の姿で。しかしこの秘薬さえあれば心配ご無用。悩ましき虫どもから身を守る事が……」


「つまりは虫除けスプレーじゃないですか、もう持ってます。そこらのコンビニにも売ってますよ」


「何ですってーーッ!?」


 トルネリアさんが口元を手で隠しつつ白目を剥いた。なぜだろう、初めて愛嬌みたいなものが感じられた。


「フ、フン。浅知恵のニンゲン共にしては、高尚な物を作ったではありませんか。しかし、大して効果がないのでしょう?」


「いや、結構効きますよ。これは一回の噴射で半日は寄せ付けないって代物です」


「半日……!?」


「そうですけど、何を驚いてんですか」


「いえ別に。先程の品は一旦引き取ります。所詮は小手調べ程度の物ですし」


 トルネリアさんは小瓶を手早く引っ込めた。高価な稀少品とは。


「本命はこちら。これは凄いですよ、その名も防熱クロースです」


「それよりも、いちいち胸元に物しまう癖やめませんか?」


「驚かないでくださいね。これは熟練魔術師が、強力な魔力と術式を組み込む事で生み出された、世紀の一品ですよ。価値も相応で、100万ディナにも迫る程」


 ディナは魔界の通貨だ。確か、10円で1ディナくらいのレートだったと思い出し、そこで考える事をやめた。


「そんな馬鹿高い物を寄越されても困るんですが」


「フフッ。溶岩に投げ入れても熱に堪えうる性能です。この世界の夏は無意味に暑いでしょう。首に巻くだけでヒンヤリとして心地良いですよ」


「暑さ対策グッズですか。世の中にはそういう商品もたくさんありますって」


「強がりはおよしなさい。ニンゲンごときに、これ程の高等技術など存在しないのですから」


 その言葉とともに、僕の首元に例の布がかけられた。次の瞬間、肌を刺すような激痛が駆け抜け、思わず床に転げ落ちてしまった。


「痛い! 何ですかそれ!」


「痛いとは? 確かに冷属性の魔法がかけられていますが、適正者であれば平気でしょうに」


「何ですか知りませんよ、痛いものは痛いですって!」


「えっ。もしかして適正者では……ない!?」


 本日2度目の白目。続け様で見せつけられても効果は半減だ。さっき程の愛嬌は感じられなかった。


「何という事でしょう。ただのヒョロガリなニンゲンごときに、200万近くも浪費してしまうとは……。赤字確定、本社からどれだけ口汚く罵られる事か……」


「よく分かりませんが帰ってもらえますか? そろそろ仕事したいんですけど」


「いえ、それでもアナタを雇います!」


「どうしてそうなるかな」


「理屈は明快。200万の利益が出るまでアナタを無給で働かせれば、万事解決です」


「もしかしなくてもフザけてますよね?」


「元はと言えば、アナタさえ居なければ無駄な出費もせずに済んだ。だから誰が償うべきかは考えるまでも無いのです!」


「自分の失敗は自分で処理してくださいよ!」


「うるさい小僧め。契約してしまえば後はこっちのものだ!」


 机に叩きつけられた羊皮紙。そして迂闊にも、僕は右手を奪われてしまった。親指の腹に鋭い痛み。微かに血が滴るのが見えた。


「さぁ、拇印を押すのです。無駄な抵抗はおやめなさい」


「嫌だって何度も言ってるじゃないですか……!」


「これだけの大枚をはたいて成果無しだなんて、私の査定に響いてしまいます」


「それが僕と何の関係があるんですか!」


 トルネリアの力は凄まじい。抵抗しようと試みると、手首が、手の甲がミシミシと嫌な音を立ててしまう。全力で振り払おうとしても、全く通用しなかった。


「強情ですね。このままでは骨が小砂利のように砕けますよ。まぁその方が大人しくなるので好都合ですが」


「誰が、アンタなんかに屈するかよ!」


「中々の心意気ですね。貧相なクセに。ではお望み通り、骨を砕いて差し上げます」


 絶望に心まで青ざめたその時だ。背後から突風が吹き荒れ、何かが耳元を掠めていった。それは閃光だった。


 矢の形を模した光は、トルネリアの額を精密に捉えていた。しかし直撃とはならない。宙で見えない壁に遮られると、やがて粉々にされ、光の粒子を辺りにバラ撒いた。


「そこまでよ、トルネリア!」


「エレンさん!」


「マジマくんの手を離しなさい。さもないと……」


「さもないと、何ですか?」


 トルネリアの気配が変わった。それまで浮かべていた侮蔑的な笑みは消え失せ、真顔に変容した。見開いた瞳も、見るものを射殺すような鋭さがある。


「調子に乗らない事ですね。下っ端魔人ごときが、この私に敵うとでも?」


「魔力は想いの強さに左右されるわ。見掛け倒しの無知な清麗人(せいれいじん)には理解できないでしょうけど」


「私に弓引けば全面戦争に繋がりますよ。アナタの浅はかな一存、果たしてポロンが許すでしょうか」


「大切な仲間を守る為だもの。魔王様もきっと分かってくれるわ。それよりも早く、その手を離しなさい!」


 視線による激しいつばぜり合い続く。僕はその間、どんな顔をしていただろう。


 エレンさんは僕を大切な仲間と言ってくれた。僕は人間なので、仲間とは人を指す。つまりは大切な人と断言したという事になる。


(エレンさんの大事な人……かぁ)


 背筋も凍る睨み合いの傍らで、ニヤけていたかもしれない。場違いだと分かってはいる。それでも頬が緩むのに抗えなかった。


「フン、まぁ良いでしょう。今回は負けてあげます」


「何度来ても同じことよ。マジマくんは渡さないから」


「その強がりもいつまで保つやら……」


 トルネリアは捨て台詞を残して輝き、やがて消えた。


 何なんだアイツは。あまりの出来事に疲れ切ってしまい、床にへたり込んだ。その拍子に手を着いた所、鋭い痛みが腕に走った。


「いってぇ! だいぶ痛めつけられたなぁ」


「大丈夫? すぐ治してあげる」


 エレンさんは僕の傍で膝を折ると、すかさず治療を開始してくれた。僕の腕を抱きしめるように、あるいは慈しむように。


 ジワリとした温もりが右腕に宿る。心の奥まで染み込むような体温に蕩(とろ)かされてしまいそうだ。


「どう? まだ痛む?」


「いえいえ、お陰様で。だいぶ癒やされました……」


 その時だ。傍のドアが勢いよく開かれた。


「ただいま戻りましたぁ。先輩、何に癒やされるんです……」


 硬直する僕達。登場したエミさんも固まり、今度は緩やかに震えだす。


「アァーーッ、巨乳を揉みしだいてる仕事場でぇーー!」


「いや、違うんだよ。誤解だって」


「しかも癒やされるとか言って堪能してるぅーー昼下がりの有閑エロスぅーー!」


「だから違うってば。怪我をしたから治療してもらおうと……」


「何言ってるんですか、おっぱいに治癒機能なんかありませんよ!」


 結局その日は、エミさんから『おっぱい大好きマジマさん』という蔑称で呼ばれるハメになった。自然に、エレンさんとはたびたび苦笑を交換する事に。


 その時になってもやはり、胸の奥には温かなものが感じられるのだった。


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