第7話 先輩は一流揃いです
朝9時前。出社すれば机の掃除、終わればオルトロスの餌やり。初日こそ驚きの連続だったのだが、人類には慣れという概念があり、それは平凡な僕にも扱える武器だった。
「さすがに毎日やってれば、筋肉もついてくるか……!」
餌を満載した手桶はマジで重い。それでも必死になれば運べない程でもなく、掌のマメだって擦りむける痛みから守ってくれる。あとは一歩ずつ着実に裏庭へと向かうだけだ。
不格好でも良い。こうして1つ1つ出来ることが増えると、ジワリとした喜びが広がるようだ。決して、エレンさんに褒められるのが嬉しいからじゃない。あの人は感極まると、僕の首元に飛びついて頭や頬を撫でながら全力で褒めてくれるけど、それが理由じゃないんだ。
「オルトロス、朝ごはんだぞーー!」
裏庭で声を掛けると、雑木林から巨体が飛び出した。そして一直線に駆け寄ってからの跳躍。僕の体を目掛けて。
「その手なら食わないぞ!」
迫り来るのが人智を超える速度でも、事前に分かっていれば対処は難しくない。頃合いを見計らって横に転がる事で回避。頭の向こうで重たい風切り音を感じつつ、攻撃をかわす事に成功した。
「ど、どうだバカ犬! 人間には知性っていうものが……ヘブッ!」
勝利宣言も虚しく、オルトロスの尻尾が僕の頬をクリーンヒット。重い、そして痛い。これしきの事で頬骨はかつてない熱を生み、目眩を伴う痛みを発した。
出来る事と言えば、のたうち回る事。他には見苦しく泣き叫ぶくらいだ。
「いた、痛い! これ、骨いってんじゃないのか!」
「マジマくん、大丈夫!?」
その時、エレンさんが2階の窓からフワリと降りてきた。それは物理法則に反し、綿毛にも似た軌跡を描いた。
「大変、すぐ治すからじっとしてて!」
そう言ってエレンさんは僕の肩を掴み、自身の体に近づけた。そこで思い出す。腕を怪我した時は腕が、手の甲だったらやはり手の甲が、彼女の豊か過ぎる胸元に押し付けられた事を。
じゃあ顔を怪我したら、もしかして……!
「それは流石に問題ありませんか!」
「すぐ終わるから、良い子にしてなさい」
良い子で居られる自信がありません。そう思ったのも束の間。想定外にも僕は寝かされ、頭が彼女の腿に置かれた。いわゆる膝枕の形だ。
少しだけ呆気に取られていると、温かな光が煌めき、痛みが遠のいた。
「はい、終わったわよ」
エレンさんの慈愛に満ちた笑みが降り注ぐ。差し込む日差しも後光みたい。その様子を膝から見上げるという贅沢、ラグジュアリなひととき。僕がお年寄りだったとしたら、あまりの尊さから拝んでしまう所だし、実際に内心で拝む僕が居た。
それからはエレンさんに伴われてデスクへと戻っていった。その間のオルトロスは悪びれた様子もなく、手桶から溢(こぼ)れた餌を無心になって貪り続けた。この犬畜生め。
「さてと、今日も1日頑張りましょうね」
そんな掛け声とともに始まった今日という日。しかしオフィスには僕達以外は居らず、嬉しくも恥ずかしい幕開けとなった。魔王様は用事があるとかで朝礼も無し。
狭い部屋に2人きりだと、ついつい固くなってしまう。パソコンのリターンキィをやたらとパシパシ叩くのも無理からぬ事。
何とも言えない気不味さが漂う中、騒がしい男が乱入してきた。モーリアスさんだ。正直言って何の仕事をしてるか不明な人だが、この日ばかりは普段と様子が違った。
「おおぃエレン。この哀れな怪我人を優しく治しちゃくれないか」
その言葉に偽りはなく、頬やら手の甲やらを擦りむいているようだった。赤毛の短髪も着崩したストライプのスーツも、いつも以上に乱れている。
やはり酒臭い。そこそこ離れているのに強烈に臭う。大方、酔っ払った挙げ句に転んだという所だろうか。
「仕方ないわね、そこに座りなさい」
渋々ながらもエレンさんは了承して重い腰をあげると、ソファに座るモーリアスさんの傍まで歩み寄った。アレをやるのだろうか。身体を密着させたりとか、いつもの手厚い看護をするんだろうか。
(なんでだろ、凄く嫌だ)
百歩譲って魔王様なら我慢できても、モーリアスさん相手はなぜか腹立たしい。僕に止める権利なんか無いのは分かっているけど、腹の奥にメラメラと滾(たぎ)る痛みには、耐え難いものがあった。
そんな恨みがましい視線が、ほの光る指先を捉えた。治療が始まり、気づけば終わっていた。
「はい、治したわよ」
「おいおい淡白だなぁ! オレも新入りみたいにペロペロチュッチュしてくれよぉ」
「そこまでしてないわよ!」
「そこまでされてませんから!」
僕の叫びがエレンさんのものと重なる。それが途方もなく恥ずかしくて、ついデスクに突っ伏してしまった。
「それよりもホラ、お水。口をゆすいできなさい。臭くて堪らないわ」
「冷てぇもんだよな、まったく……」
肩を落として部屋を後にしたモーリアスさん。残された僕達は、力の無い笑い声を交換して、ほどなく視線を外した。なぜだろう、静けさがとても重たい。そのくせ苦痛よりも急かされる気持ちの方が強いから、不思議に思う。
「あの、エレンさん?」
「なっ、何かしら?」
「どうしてモーリアスさんは……」
僕と違う治し方なんですか。聞きたい。心の底から聞いてみたい。でも意気地のない口は、欲求とは全く違うことを尋ねてしまった。
「どうしてモーリアスさんは……いつも酔っ払ってるんですかね?」
「あぁそれはね、彼の仕事だから」
「仕事? あれがですか?」
「気になるなら本人から聞いてみたら」
エレンさんの視線がドアに向かう。すると間もなくモーリアスさんが現れ、ソファにごろりと横になった。
「なんだよ2人揃ってジィッと見やがって。ようやくオレの美男子っぷりに気づいたのかい?」
「何が美男子よ。400歳超えのオジサンじゃないの」
「400……!?」
シレッと破格の数値を聞いてしまったが、本題はそこじゃない。彼の業務内容の方が多少、いやずっと、気になっていた。
「モーリアスさん。あなたの仕事はなんですか?」
「アァン? もしかしてお前、オレが穀潰しだって思ってんのか?」
「そこまでは言いませんよ。ただ、何をしてるのかなと」
「カァ〜〜! 夜魔の王とも謳われしモーリアス様が、こんな扱いを受けるだなんてよぉ。ナメられたもんだぜ」
「そういうの良いですから、何をしてるのか教えてくださいよ」
「チッ。情報収集だよ、ニンゲン様のな」
「情報収集……?」
エレンさんの方を見れば、無言の頷きが返ってきた。そして「彼は人間社会に溶け込むのが上手い」とのお墨付きまであった。外見が魔族という不利をものともせず、コミュニティの一員にまで伸し上がったのだとか。
「そうなんですか? ただの酒好きにしか見えませんが」
「よっしこの野郎。丁度良い機会だからオレの仕事ぶりを見せてやんぞ。エレン、軍資金をくれ」
「分かったわよ。ええと1、2、3……」
「2人分だぞ。いつもの倍は出してもらおうか」
「まぁ仕方ないわね、ホラ」
「クケケェ、まいどありぃ」
そう言ってモーリアスさんは、差し出された紙幣をポケットにねじこんだ。嫌な笑い方をするもんだ、なんて思ったが、これは彼の一番の笑い方だった気がする。朝礼で何度か見かけたものだった。
ちなみに、モーリアスさんの仕事は夕暮れから始まるらしい。それまで僕は業務、向こうは高いびき。釈然としないけど、声をあげるだけ無駄だと理解しており、目を瞑っておいた。
やがて迎えた日暮れ。定時を終えた僕達は、エレンさんの見送りを受けてから街の方へと繰り出した。
「いやぁ堪んねぇな。2人分も金出すとか、言ってみるもんだぜクケケ」
モーリアスさんは手慣れた動きでお札を数えていた。不揃いな向きを整える辺り、見た目よりも几帳面なのか。
「これから仕事に行くんですよね? 夜遊びじゃないですよね?」
「当たり前だろ。だからお前に残業代が出るんじゃねぇか」
「そりゃまぁ時間外ですし」
エレンさんはキッチリ残業としてカウントしてくれた。いわゆる割増賃金。時給にして2千5百円とか心がとろけそうな程に美味しい話だ。ただし、これから付き合わされる仕事の内容次第だけど。
「さてと、本日はここにしますかねっと」
モーリアスさんは路地裏の店で足を止め、のれんを潜っていった。傍には赤ちょうちんが揺れている。
単なる居酒屋にしか見えない。そう思いつつ後を追うと、やっぱり居酒屋だった。大手チェーンではなく個人経営で、地元密着型の店舗のようだ。
「いらっしゃい……ってモーリアスの旦那!」
「おう大将。今日は財布があったけぇんだ。客全員に1杯ずつ奢ってくんな」
「おい皆。今日は旦那が振る舞ってくれるってよ!」
その言葉に店内がざわついた。狭い造りの10人と座れない店構えなので、数人でも混んでいる様に感じられた。その店内では、またたく間にモーリアスさんへの感謝で満ちていく。
「おう新入り。何を突っ立ってやがる。入り口に居たら商売の邪魔になるだろうが」
「はぁ、すんません……」
僕はモーリアスさんの隣、カウンターに腰を降ろした。どう見ても居酒屋。客も大学生やらサラリーマンばかり。特別なものは一切なく、よく見かける飲み会風景しか転がっていない。
「モーリアスさん。本当に情報収集なんか……」
「へいお待ち、瓶ビール2本ね!」
「ホラ飲めよ新入り。注いでやるから」
「はぁ、では、いただきます」
片手に収まるグラスに白い泡が立ち上る。飲む。美味い。普通にビール。
「それでですよ、モーリアスさん。ここで仕事を……」
「へいお待ち、だし巻き卵にイカの一夜干しね」
「ホラ食えよ。ここの料理は安くて美味ぇんだ」
「はぁ、では、食べますよ」
だし巻き卵、醤油をかけた大根おろしと一緒に。イカの一夜干しは七味とマヨネーズ。美味い。安心できる味わいだとは思う。でも忘れるな、本題はそこじゃない。
「モーリアスさん、これってただの酒盛り……」
「おい旦那ぁ、聞いてくれよぉ!」
唐突に横から絡まれた。見知らぬ酔っぱらいがモーリアスさんの肩に手を置いて、縋るような姿勢を見せている。知り合いなのか。モーリアスさんは驚きもせず、空いた椅子を引いて座らせた。
「どうしたんだ。溜め込んでねぇで聞かせてくれよ、アンタの腹の中をさ」
「まったくよぉ、うちの鬼嫁ときたらな……」
長々と語られたのは世間様でよく聞かれるような、取り留めもない話だ。その間モーリアスさんは、腰を据えたままでジッと耳を傾けた。
「うんうん、なるほど。それで?」
「倅も倅で頼りねぇしよぉ……」
「そうかい、オヤジさんも辛いんだな」
モーリアスさんはそこまで言うと、僕にそっと耳打ちをした。
「どうだ、見たか? 日夜こうやって赤裸々な人間模様を学び、情報を集めてるのよ」
そしてすぐに酔っ払いの方へと戻る。愚痴は次第にヒートアップし、叫びを混ぜる程になった。
「もうオレぁ死んじまいてぇ! 生まれてきた事を呪いてぇよチクショウめ!」
「おいおいオヤジさん、酒が足りてねぇな? こんな美味いもん前にして死ぬとか、バカ言ってんじゃねぇよ」
「美味いモンだぁ? そんなモンどこにあんだよ」
「ここにあんだろうよ、ほら口開けろ食わせてやっから」
「んむむ……うんめぇ! 大将、腕あげたな。最高じゃねぇかよ」
「これだもんな! 調子良すぎだぜオヤジさんよう!」
2つの笑い声があがると、やがて店内でいくつも続いた。まるで合唱のようだ。1つに束ねられた想い。それを目の当たりにして、僕は叫ぶ事を止めることが出来なかった。
「いや、アンタのやってる事は単なる飲み友達ですからッ!」
ちなみにエレンさんから預かったお金は、ここでの飲み食いでほとんど消えてしまった。僕が付いていった意味はほとんどない。ただ無闇に、界隈におけるモーリアスさんの株を上げただけだった。
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