第1話 先輩が優しくサポートします

 最寄り駅から私鉄を乗り継ぎ30分、下車した駅でバスに乗って15分、停留所から更に歩いて20分弱のトータルで1時間ほど。それが出勤にかかる大まかな時間だ。


 打ち捨てられた農地と雑木林の間にヒッソリとただずむ小路を行けば、そこにある。ワクワク魔界ワーク有限会社。あから様すぎて逆に怪しくない、直球ど真ん中の社名。もちろん本当に悪魔が居るだなんて誰も考えはしないだろうし、僕も先日までは、ゲームやおとぎ話の存在だと疑いもしなかった。


「ついに来ちゃったんだなぁ……」


 外観は社名さえ除けば至って普通。郊外の工場とか倉庫を思わせる広大な敷地の中心に、社屋だけがポツリとある。四方はコンクリート塀で囲われ、向こう側にも雑木林が乱立。この活気の欠ける場所に、まさか人智を超えた化物がうろついていようとは思うまい。


 正直、何度も逃げようと思った。どこか知らない街へ隠れてしまえば、やり過ごせると信じて。でも残念ながら逃走資金が無い。すぐにでも働く必要があり、悩みに悩んだ挙げ句、僕はここに居る。やはり破格の高時給というのが魅力的だった。


 だから試用期間だけそつなく勤めてみよう。3ヶ月かけて稼いだ金を貯めてから、次の職場を探せば良い。それが思考の着地点だった。


「そもそも僕は優秀じゃないし。仕事ぶりを見てもらえば、たいして執着しないでしょ……」


「あらマジマ君。随分と早いのね」


 社屋の玄関前、横から話しかけられた。鈴の鳴るような声に甘い香り。緊張に膨らんだ胸が跳ね上がるのを感じた。


「お、おはようございます! ええと、アナタは」


「エレンよ。覚えておいてね」


「そうでした、エレンさん。面接の日はお世話になりました!」


「良いの良いの、そんなに堅くならないで」


 彼女は桃色の長い髪を揺らし、長い髪を耳にかけつつ微笑んだ。大きな瞳が慈愛に満ちた弧を描く。先週にも1回会ったけど、改めて見るとめちゃくちゃ美人だと思う。


 透き通るような白い肌もそうだが、何と言っても手足が長く、プロポーションも抜群だ。しかも、やたらピッチリとしたパンツスーツを着ているので、色々な膨らみが目立って仕方ない。そんな女性に優しく微笑みかけられるのだから、全くもって太刀打ちできそうになく、白旗掲げて振り回したい気分になった。


「立ち話もなんだし、中へ入りましょ」


「そうですね。もうすぐ定時ですし」


 それから並んで歩きはしたが、眩しすぎて隣を見られない。視線は自然と正面固定になってしまう。だから彼女の背中でユラユラ揺れる、カラスにも似た黒い翼だって意識的に無視する事にした。


「分からない事ばかりだと思うけど、遠慮なく聞いてね」


 小さなエントランスから仕事場に着くまで、既に色々と素通りしていた。通路の左右のドアからは、何かのうめき声だったり異臭だったり謎の黒煙が漏れ出たりしていた。チラリと中を覗こうにも、すりガラスによる情報防衛力は絶妙だった。


「はい。その時はよろしくお願いします」


 他に答えようは無いし、無闇に尋ねるつもりも無い。余計な詮索をしてしまえば消される可能性がある。そんな直感がよぎったのだ。


 そうして辿り着いたのが僕らのオフィスだ。割と手狭で、数人分の机にくたびれたソファだけで精一杯な様子。壁際のスチール棚には資料やダンボールが積み上がり、他には卓上にノートパソコンが数台見えるくらい。仕事場と呼ぶには少し貧相に思えた。


「まだ誰も来てないわね。ええと、マジマくんの席は……と」


「もしかして一番乗りですか? 9時まであと5分なんですけど」


「みんな好き勝手に来るのよ。全員揃うのは10時過ぎくらいかな」


「はぁ、そうですか」


「そんな感じだからね、マジマ君も遅刻とか気にしなくていいよ。休む時は電話くらい欲しいかな」


「それは……ええ、もちろん」


 なんだか拍子抜けだ。とりあえず出入り口近くの、割り振られた机に座ってみる。用意された物は紙っぺら一枚も無くて、パソコンはもちろん、ペンや付箋といった小物さえも無かった。


 こんな職場で時給2千円はだいぶヤバイんじゃないか。エレンさんは親切だし、業務は暇そうだし、もしかすると当たりの契約かもしれない。これなら試用期間くらいは無難にこなせそうに感じられた。


「ねぇマジマくん。やる事もないし、オルちゃんの餌やりを手伝ってよ」


「はい、分かりました!」


 一旦気を許してしまうと、エレンさんの美貌が尚更まぶしく見えてくる。彼女の残り香に誘われるようにして、背中を追いかけた。翼が生えてるくらい何だ。優しい人じゃないか。


「オルちゃんってのは、ペットか何かですか?」


「そうよ。カワイイんだけど気難しい子でね。慣れるまでは私と一緒にやりましょうか」


「お、お願いします!」


 これはラッキーだ。さっそくエレンさんとの共同作業ができるなんて、幸先が良いなんてもんじゃない。これをキッカケに仲良くなれたら、一緒にランチするくらいの間柄も夢ではない。


 それからやって来たのは備品置き場らしき部屋だ。薄暗い中で整然と並ぶラック。そのうちの1か所にまとまる麻袋が有り、エレンさんはおもむろに袋のヒモを解いた。これがエサなんだろう。ドライフード特有の濃い香りが立ち込めてくる。


「朝はあんまり食べないから、これくらいかな」


 取っ手付きの幅広な桶には、底面が埋まる程度に餌が敷き詰められた。


「エレンさん、僕が持ちますよ」


「ありがとう。じゃあよろしくね」


「まかせてくださ……アウンッ!」


 渡された手桶を握った瞬間、両手が地面に引っ張られた。重いなんてもんじゃない。いったい何キロあるんだ。


「これ中身は何ですか!?」


「魔界ではメジャーなドライフードよ。人間のアナタには重たいかしら?」


「そ、そんなことないです……!」


「あんまり無理しないでね?」


 本当は腰が抜けそうなほど辛い。手のひらの皮もギチギチと不気味な悲鳴をあげ続ける。でも頑張れオレ。ちょっとでもポイント稼ぎをしておくんだ。


「オルちゃんはね、だいたい裏庭のどこかに居るから。呼べば来ると思うわよ」


 ガニ股で桶を持っていった先は、倉庫から裏手に繋がる出口だった。その先には予想外なまでに広々とした裏庭が見えた。


 コンクリート壁に囲まれた会社の敷地は、奥行きも相当に広いらしい。アチコチを雑木林で塞がれている為、ここからでは細部まで一望する事ができなかった。


「オルちゃ〜〜ん。朝ごはんよぉ!」


 エレンさんがそう叫ぶと、突然地鳴りに襲われた。揺れる足元に驚かされていると、それは眼の前に現れた。


「はい、初めましてだね。オルトロスのオルちゃんよ」


「グルルル……」


 これはライオン、いや狼か。それにしちゃ身体は人間よりも遥かに大きいし、そもそも顔が2つ付いた狼なんて、おとぎ話そのものじゃないか。


「あの、首輪とか鎖がついてませんけど!?」


「大丈夫よ。この子は賢いから、勝手に外へ出たりしないの」


「そうじゃなくて危ないでしょ!」


「まぁまぁ、割と大人しい子なのよ。こうして触ってるうちに仲良くなれるわ」


 確かにエレナさんに撫でられる化け物は、眼を細めて嬉しそうにしている。恐ろしい見た目に反して気の良い奴なのかもしれない。


「えっと、よろしくな……」


 首筋に触れようとした瞬間、ガブリ。スナック感覚でお気軽に。


 やがて手首が痛みと熱さを同時に発し、現実味が襲いかかってくる。命の危機に晒されているのだと。


「うわぁ痛い痛い! 食われたぁーーッ!」


「いきなり触ろうとしちゃダメよ。まずは臭いを嗅がせて、安心させてから……」


「言ってる場合じゃないでしょ助けてぇ!」


「こらオルちゃん。口をアーンしなさい」


 ここでようやく解放された。手のひらはある、指先まで全て残っている。だけど手首に刻まれた傷口からは鮮血が止めどなく溢れ出た。


「思いっきり血が出てる! 大丈夫なのかこれぇーー!?」


「ねぇ、ちょっと落ち着いて」


「ムリムリもう嫌だ! こんな所、命がいくつあっても足りないよ!」


「落ち着きなさいってば」


 エレンさんはそう言うと、僕の手の甲を彼女の胸元に押し付けた。そこは2つの膨らみがせめぎ合う、谷間と呼ばれるポイントだ。


 ただし服の上から。いや、違う。人差し指の第一関節だけは確かに、その温かな柔肌に触れた。そう気づいた瞬間には全身の血管は膨張して血流が暴走、凄まじい熱を逃がそうと鼻息が吹き出した。未知なる柔らかさに包まれたせいか、ほんのひとときだけ痛みを忘れてしまった。


「あの、エレンさん!?」


「動かないで、ジッとしてて」


 ジッとしてて良いんですか。そう尋ねる前に、辺りにそよ風が吹いた。それはどこか僕の腕の方に吹き込んでいるようであり、傷口を優しく撫でてくれる。そして彼女の両手が輝き、患部にかざしてみれば、痛みは瞬く間に消えてしまった。


「……今のは?」


「回復魔法のヒーリングよ。もう痛くないかしら?」


「ええ、不思議なもんで」


「シャツの袖が破けちゃったわね。あとで魔王様にお願いして、経費で買ってもらいましょ」


 僕はもう頭が回らなかった。立て続けに起きる非現実的な世界に、脳が理解を拒絶したのかもしれない。


 時給2千円。規律はゆるく、怪我したら美女のおっぱいを触れる仕事。ただし身の危険と隣合わせ。これが当たりの職場かどうかは判断が難しい所だ。


「ほんと、キレイに治ってる……」


 改めて塞がった傷口を見てみる。痛みは無く、傷跡さえも残っていない。それでも右手に宿る熱い何かは、いつまでも消えようとはしなかった。

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