第3話

 セイが、急遽誘った仕事を断った。

「私を、殺す気か?」

 珍しいほどに不機嫌な声だった。

 どうやらこの数十日、ろくに眠れていないらしい。

 何とか宥めて代役を見繕ってもらいながら、蓮は仕事現場の変更先を並べた。

 出来るだけ、周囲に迷惑を掛けない、それでいて少しくらい派手にやらかしても、差し支えない現場を選び出し、場所を告げる。

 鏡月と共にやって来た現場に、代役のエンと雅がやって来た時、何となく予想がついていた蓮は、すぐに作業内容を説明し、動き出した。

 そして、約三十分後、だった。

 静かに立ち尽くしたまま、もう一人の若者と向かい合っていた。

 予想していたが、予想通りの展開は逆に気を重くする。

 頭痛がしている気がするが、精神的なものであることは分かっている為、放置だ。

 溜息を押し隠しながら、蓮は出来るだけ静かに作業内容を確認した。

「この現場の仕事は、ごく簡単だったはずだ」

「ああ」

 のんびりと頷く鏡月も、真面目だ。

 だからこそ、余計にこれは問題だった。

「言ったことは、覚えているんだよな?」

「勿論だ」

 のんびりと答え、薄い色の瞳の若者はその内容を並べる。

「ここの連中は、ナンパで誘って付いて来るような軽い相手を餌にしている、小鬼類の残党だから、更生の余地がある。だから、しかるべき者に引き渡すが、必要以上に抵抗があれば殺戮もやむなし、そう言う事だった」

「ほう、よく覚えてたな、偉い偉い」

 棒読みで褒められ、鏡月はのんびりと憎まれ口をたたく。

「馬鹿にし過ぎじゃないのか?」

「馬鹿にしてると、分かってんのか。それも、偉いな」

 引き攣りそうになる顔に、何とか笑みを浮かべながら、鏡月の背後を指さしながら、未だ小柄な若者はやんわりと問いかけた。

「これが、やり過ぎたというのも、分かってんだよな?」

 指した指の先には、草も生えていない空白の地が広がっていた。

 先程まで、そこには大きめのあばら家があった。

 その建物の破片すら、見受けられない。

 蓮も、やろうと思えばできるが、やるたびに化け物扱いしてくる張本人が、同じことをやらかした上にしれっとしているのは、どういう事だろう。

 僅かに震えている若者の指先を見向きもせず、鏡月は神妙に頷く。

「ああ。少し、やり過ぎてしまったが、抵抗したのは向こうだ。落ち度は向こうにある」

「……少し、だと?」

 剣の籠ったその声に頷き、若者は続けた。

「条件反射で、大きな男を見るとつい、木っ端みじんにしたくなるんだ。ここは小鬼といっても、大きな鬼しかいなかったぞ」

「大きさを指す、名称じゃねえんだよっ。器の話だっ」

「成程、そうだったのか」

 久し振りに、カチンと来そうになる。

 だが蓮は、その衝動を持ち前の理性で押し殺して、鏡月を見つめた。

「なあ、あんた、凌の旦那と、何があったんだ?」

 本当は、セイにこの若者の不安定な状態を見てもらってから訊こうと、そう思っていた。

 だが、こういう絶妙な具合の現場は、そう何個もない。

 あってもこのままでは、すぐに尽きてしまう。

 この際仕方ないと、苦々しい気持ちで真っすぐに訊く若者に、鏡月は目を細めた。

「何か? あるはずがないだろう。あっても、お前には関係ない」

「おい」

「ああ、関係ないとも言えんか。お前は、あの人の甥っ子の孫にあたるからな」

 のんびりとしているが、その気配に剣が籠った。

「教えてやってもいいぞ、ただし……」

 言いながら仕込み杖の柄に手をかける若者の目は、据わっていた。

「十分もったら、な」

 言うなり鏡月が動いたが、それよりも蓮が早かった。

 柄に手をかける若者の手を抑えつつ、仕込み杖をそのまま地面に押し込む。

「……ふざけんな。ここをこれ以上、更地にする気かよ」

「っ、この、体力馬鹿がっ」

「何とでも言えっ。それから……」

 睨んで吐き捨てる鏡月に返しながら、蓮は背後を振り返った。

「お前ら、少しは仕事しろっっ」

 その先には、一組の男女がいる。

 忘れられているとばかり思っていた二人は、仲よく顔を見合わせてからそれぞれ笑い返した。

「友達同士の喧嘩に、口を出すのはどうかと思ったんだけど」

 優しい笑顔を浮かべた女が、首を傾げるのを睨みながら、蓮は鋭く返す。

「これが、ただの喧嘩に見えたのかっ? 完全に殺意があっただろうがっ」

「蓮の方には、なかったじゃないですか。だから、大丈夫だと思ったんですよ」

 穏やかな笑顔の男の言い分に若者は舌打ちし、気を取り直すべく深呼吸する。

「おい、あんた」

「……」

 苦々しい顔でそっぽを向く若者を睨みながら、ゆっくりと尋ねた。

「あんた、あの旦那を、……セイの親父の事を、知ってるんだな?」

 口を閉ざす鏡月の代わりに、少し首を傾げて空を仰いだエンが思い当たって答えた。

「もしかして蓮は、知らないんですか?」

「ん?」

 再び振り返った蓮に、エンは穏やかに言った。

「その人、あの旦那の弟子の一人なんです」

「え?」

 目を見張っただけの蓮の代わりに、雅が驚いて声を出した。

「知らなかった。そうなんだ。私はてっきり……」

「あなたのお父さんの弟子は、律さんだけらしいです」

 穏やかに説明するエンに、女は眉を寄せる。

「どうしてだろう? 血の繋がってる筈の従弟じゃなく、知らないはずの狐の女の子を、弟子にするって……」

 ここでまた、親への不信感が芽生え始めた者が出たが、それに構わずエンが蓮に続けた。

「だから、弟子として怒ってくれてるんですよ。実の子供を差し置いて、少しの間世話をしてただけの子供に、過剰な情を与えたあの人を。……ロンとは、違って」

 また沸々と、怒りが湧いて来るが、エンはそれを抑えながら説明している。

 雲行きが怪しいとはいえ、その話は貴重だった。

 蓮は溜息を吐いた。

「そういういざこざが理由なら、何とでもなるか。あの旦那、結局どうなったんだ?」

「目覚めなくなったという報告の後は、音沙汰ありません。ただ……」

 穏やかな笑顔のままの男は、すぐに答えた後言葉を濁した。

「何だ?」

「いえ。どうやらセイは、毎夜旦那のいる病室に、立ち寄っているようです」

「……」

 鏡月が、あからさまな舌打ちをした。

 その気持ちを察し、頷いたエンは続けた。

「面接時間が過ぎてから、こっそりと行っているようなので、意外に堪えているかもしれません」

「……?」

 意外に正直に怒りを滲ませる若者の傍で、蓮が目を細めた。

 何か引っかかっている小柄な若者に構わず、鏡月が低い声を出す。

「……あの旦那の居場所は、知れているのか?」

「はい」

 それには、雅が優しく答えた。

「オキが、最初の日に教えてくれたんですが、私たちは未だに、行く余裕を与えてもらっていないんです。お教えしましょうか?」

 やんわりとした申し出に、若者は迷いなく頷いた。

 成り行きで同行することにした蓮と、この機会を逃すまいと同行する男女がその場を後にし、病院へと向かったのは昼過ぎの事で、挨拶回りの途中の若者がそれを知ったのは、随分後の夕方だった。


 初めから、気になってはいたと思う。

 だが、その想いを自覚したのは、随分遅かった。

 ある夜、世話になった集落の女の一人が、旦那の寝床に入り込んだと聞いた時、初めて胸が騒いだのを覚えている。

 珍しく難しい顔のカスミと、険しい顔をしているロンの間で、珍しいほどに顔を引き攣らせたシノギがいて、その様子を面白そうな顔のミヅキと、まだ若かった鏡月と姉妹たちは黙って見ていただけだったが、その空気が不穏で恐ろしかった。

「一応訊きますが、叔父上はその女を好ましく思いましたか?」

 真面目な男の問いかけに、大男は激しく首を横に振った。

 そして、絞り出すように言う。

「女とは、恐ろしい生き物なんだな」

「……いかん、変なしこりが出来た。この旦那、一生女が出来んぞ」

「……あの女、今はまだ、出来る物が出来たか分からないから無理だが、絶対に許さん」

「ロン、言葉遣いが戻っているぞ」

 笑いをこらえたミヅキ、怒りを抑え込んでいるロン、何処までも真面目なカスミの順の言葉を聞き流しながら、鏡月は大きな体を縮めながら震える、珍しい様子の師匠をぼんやりと見守っていた。

 幸い、その女が既成事実となる子供を作ることはなく、シノギが休養している間にその集落自体が立ち消えた為に、その後の心配すらもなくなったが、他の土地でも油断すると女が何処からともなく入り込んできたようだった。

 そんな事が続くようになってから、シノギはますます色事に無関心になっていく。

 仕方がないとは思いつつも、安心半分不満半分の、複雑な感情が芽生え始め、それがどうも深い好意のせいだと気づいたのは、鏡月が若者と呼べるほどに成長した頃だった。

 弟子が師匠に感じる筈の深い敬愛を越えた、好意。

 永く師弟の間柄をしていると、そう言う事もあるかもしれないし、そう自覚したところで、何かが変わるわけでもないのだと、若者は己に言い聞かせて、他の弟子や姉妹たちと同じように、師匠と接していた。

 それが唐突に変わるきっかけは、ある小難しい案件をカスミが持って来たことだった。

「目的が、今一はっきりしない話なのだ」

 真面目な男のその説明は、今思い出しても疑わしい。

 だが、そう言わなければ、ミヅキも次の申し出に頷かなかっただろう。

「女が数人、集落から連れ攫われ、それなりに近場で死体で見つかる。腹を裂かれている所を見ると、内腑の何かを取り去る所業と思うのだが、それが流通した気配がない。出来れば、囮を仕掛けたいと思っているのだが……」

 カスミの調べで分かっている、かどわかされた女の人相はまちまちだったが、若い娘が多かった。

「若い娘、か。肝を食らうと不老不死になる云々は、娘じゃなかったはずだな?」

「そんなものを食らうより、健全な生き様をしていた方が、長生きもするだろう」

 ミヅキは、こういう場に呼ばれるはずの二人が、今回いない理由に気付き、小さく笑った。

 同時に、鏡月がこの場に呼ばれた理由も。

 見えないはずの目線に刺されながら、カスミは真面目に言った。

寿ことほぎでは、とうが立ちすぎているだろう? かと言って、他の娘たちはまだ幼い上に、流石に腹を裂かれて中身を傷つけられては、命が危うい」

「……詳しく、計画は立っているのか?」

 静かな問いに、男は真面目に話し出した。

 未だ、その気配がない集落に囮を送り込み、気長に引っかかるのを待つ。

「……どのくらいの間だ? いくらなんでも、十年過ぎたら怪しくなるぞ」

 若い女でも、いずれは年増になる。

 そう指摘すると、カスミも頷く。

「だから、五年おきに集落を抜け、別な集落に落ち着かせる。機会が合えば、どこかで引っ掛かるだろう」

「随分と、気長な話だな」

「その所業をしているのが人間ならば、四、五十年で底が見えるだろう。正体が明るみに出るか、その動きすら無くなるか。だから、長くて四、五十年、それを続ける」

 更に気長な事を言いながら、カスミは男の顔を覗きこんだ。

「その間、お前が張り付いていれば、障りはないだろう?」

 蚊帳の外で話を聞いていた鏡月は、それでも自分がその囮として望まれているのだと、ひしひしと感じていた。

 この群れに身を置いてから、昔ほど人と触れ合うのを毛嫌いしなくはなった。

 だが、平気になった訳ではなく、単に周りが気を使ってくれているからだ。

 それなのに、何も知らない奴らがいる集落に、一人取り残されなければならない事になる。

「……鏡月、嫌なら嫌でいい。その時は、オレが行こう」

「やめろ。似合い過ぎて笑ってしまう。そうすると、私が計画をぶち壊したくなる」

「どう言う言い訳だ」

 真剣に言い含める男の言葉を、真面目な声がぶち壊す。

「恐らく、ここに叔父上がいても、囮ならオレがやると、そう言いそうだから、呼んでいないのだ。それで事情を察して欲しいのだが」

「それは、無理だろうっ。どうやったら、あの旦那が娘になるんだよっ」

 鏡月が思わず目を剝いた。

 あの大男が娘に変装する様を想像しようとして、完全に拒絶してしまった。

「……体を半分に切れば、見れる女になる、か?」

「ならねえよっ。ミズ兄、ふざけてないで、もう少し真面目に考えろっ」

 真剣なミヅキの呟きに、鏡月は慌てて言い切ってしまった。

「分かった、オレがやる。あんたやシノギの旦那を、変な道に向かわせるもんかっ」

 ただの勢いで引き受けた話は瞬く間に進んでいき、数日後には送り込まれるという頃になって、ようやく我に返った。

 我に返った鏡月は、これからの恐ろしい事態を思い、準備のために暫く会っていなかったミヅキに会いに行った。

 ただの仕事の引き込み役という事にして、女の仕草を妹たちに学んでいた従弟を迎えた男は、心底驚いた。

 そして、思った以上の体つきを察し、喜んだ。

「これなら、どんな男でも釣れるぞ」

 妙な太鼓判まで貰ってしまった。

「……そんなもの、釣りたくねえって」

「そうか……」

 床に座り込んだ従弟を伺い、ミヅキは静かに頷いた。

 そのまま黙る鏡月の前で、従兄も黙って座っている。

 その沈黙を破ったのは、ミヅキの方だった。

「もうすぐだな」

 俯いた若者に構わず、気楽な物言いで続ける。

「すぐに食いついてくれれば、すぐに終われるんだが、そればかりは分からんな」

 何せ、カスミですら目的も正体も知らない相手だ。

 どういう動きをしてくるかも、分からない。

「食いついて来たら、すぐにオレが動けるよう手筈を整えている。だから、心配するな」

 万が一、少し遅れてしまったとしても、鏡月の本能は怪我を一時たりとも残さない。

 それが、カスミが囮として選んだ理由だったが、ミヅキは全く別な事を心配していた。

「……鏡月」

 改まった声に顔を上げた若者は、ミヅキの陰った表情を見た。

「無理そうなら、途中でもそう言ってくれ。誰とも知れん奴を捕まえるより、お前が嫌な気分になって集落を落としてしまう方が、オレは心配だ」

「……御免。オレが、あんたみたいに男女ともに遊べるほど、軽ければ良かったのに」

「いや、ちょっと待て。オレは、女としか色めいた遊びはしないぞ。男は物色仲間だ」

 不安で落ち込み気味の若者は、男の慌てた力説を聞き流した。

「そうすれば、情報だって拾えるだろうし、あんたにそう言う心配をされなかったのに。こんな奴、女になったって、使えるか分からないよ」

「何を言ってるんだ? お前、母親に似てるんだろう? カスミの旦那がそう言い切る位だ、本当に似ているはずだ。なら、女になったらどんな男でも、堕ちる美女になっている。なんせあの淡白な旦那が、お前を連れていた叔母上を、それでも奪いたいと思えたほどだぞ」

 今では信じられないが、カスミは一途に一人の女しか見ていなかった。

 その女こそが鏡月の母親であり、その母親に似た若者が女として現れたら、世の男が黙ってはいないだろうと、ミヅキはそう言い切った。

 そう言うミヅキは、幼い頃に見た叔母しか知らない。

 だが、何とか落ち込んだ従弟に自信を持たせたいと、必死だったようだ。

 じゃなければ、ああいう事を思いつかなかっただろう。

「そうだ、一度旦那に会って見ろ」

 そう切り出され、一瞬どの旦那の事かと思った。

「あの人は正直だからな。お前を見た感想を、素直に言ってくれるはずだ」

「……どの旦那の事だよ?」

「そりゃあ……」

 鏡月の力のない問いに答えかけ、ミヅキは一度言葉を切った。

 すぐに答えたが、その顔は久しぶりに見る優しい笑顔になっていた。

「会ってのお楽しみだ。女たちを呼ぼう。とびっきりの美女を、とびっきりの妖艶美女に変えてもらおう。任せろ」

 笑顔とその言葉の妖しさの差が、恐ろしく不安を煽ったが、どこから問い詰めればいいのか分からぬまま、ミヅキが集結させた女たちの手により、衣装から髪型、果てには顔まで施されてしまった。

「くそっ。これほど見えない事が悔しいのは、いつぶりだ?」

 悔し気な男に苦笑しながら、最後の仕上げを手伝ったのは、既に一人前になっていたミヅキのただ一人の弟子、律だった。

 その足元にいる黒猫が、化け物を見るような目で毛を逆立たせ、鏡月のめかし込んだ姿を見上げる様が、何故か腹立たしいほどに鮮明に残っている。

「よし、行くか」

 気楽にいい、綺麗な衣装にあたふたとする鏡月を抱え込むようにして歩き出し、ミヅキが放り込んだ先が……シノギの旦那の、寝間だった。

 突然入り込んで来た二人に、シノギは鋭く身構えたが誰かすぐに気づき、次いで驚いた。

「な? お前、鏡月か?」

 すぐに見分けられ、驚いて固まる若者を背に、ミヅキが笑顔のまま言う。

「もうすぐ、大事な仕事があって、この子は暫く戻れない。だから、挨拶がてらに連れて来た」

「そ、そうか」

「どうだ?」

「どう? 何が?」

 意図が分からずに問い返す大男の言葉に、部屋の中が凍り付いた。

「……旦那、鏡月はな、初めて一人で、引き込みに挑むんだよ」

 恐ろしく、優しい笑顔で詰め寄る自分より小さな男の勢いに、大男のはずのシノギが思わず後ずさりながら相槌を打った。

「そ、そうなのか。だが下女か何かに化けるにしては、色が出過ぎていないか?」

「今日は、あんたを驚かせてやろうと、めかし込ませたんだよ」

「な、成程。うん、驚いた」

 何度も頷きながら、大男は改めてミヅキの後ろの若者を見た。

 顔を曇らせて俯かせる、自分の弟子の一人に呼び掛けた。

「そんなに顔に塗らなくても、お前は綺麗だぞ」

 弾けるように顔を上げた鏡月を見返し、シノギは頷いた。

「だが、正装した盛装したお前を見るのは、悪くない。こんなこと言われても嬉しくないだろうが、ハヅキ殿とよく似ている」

「……本当に?」

 驚いて薄い瞳を見張らせる鏡月に、その目を見つめたまま微笑み、大男はゆっくりと言った。

「本当だ。何に自信がなくて元気がないのかは知らないが、オレでなかったら、真っ先に口説いていそうな程だ」

「……あんたじゃ、なかったら?」

「ああ。どんな堅物でも、お前相手ならすぐに口説きたくなる、きっと」

 呆然と呟く若者にそう言い切った時、部屋の中が更に冷たくなった。

 まだ真夏のはずだがと振り返る凌のすぐ傍に、ミヅキの顔があった。

「……旦那」

「な、何だ?」

「こんな美女を前に口説く気にならんのなら、男に走るしか道は残されていないとオレは思うのだが、どうだ?」

 恐ろしく優しい笑顔でやんわりと問われ、シノギはミヅキの意図に気付いた。

 激しく首を横に振りながら、二人から遠ざかる。

「ま、待て。仮にもこの子は弟子だぞっ。口説く相手にできる筈が、ないだろうっ」

「そこで野獣になれんから、あんたは朴念仁なんだっっ」

 更に遠ざかろうとする大男を、ミヅキはあっさりと捕まえて胸倉を攫む。

「オレは、知ってるんだぞ。あんたが、たまにこの子の寝顔をしみじみと見ながら、切なそうな溜息を吐いているのを」

 それは、鏡月も知っていた。

 単に、ここまでよく育ったという、安堵の溜息だと思っていたのだが、シノギは何故かそこで目を泳がせた。

「女が本当に苦手なのなら、やって来た女を避けて、外に逃げ出せばいいだけだろう? それをしなかったのは、一応の慰めは、欲しかったという事だ」

「……」

「あんたも悲しい男だな。気に入った者が男だったものだから、押し入る女を拒まず、気に入った者を肴にして、何とか己を慰めていたとは」

「……言わせておけばお前、オレの何が分かると……」

 見えていない男の目を睨み、剣の籠った声を絞り出す大男に、ミヅキはゆっくりと言った。

「分かるからこそ、大事な子を一晩預ける」

「……は?」

 間抜けな声は、二つ重なった。

 睨み合う男二人を、オロオロと見ていた鏡月も、ミヅキの切り出しに驚いて思わず声が出てしまったのだ。

「お、意外に息もあっているじゃないか」

「……ちょっと待て、ミヅキ……」

「ああ、勿論、明日は返してもらうぞ。惜しくなって手離したくないと言っても、な」

 先程と打って変わった、悪人のような笑顔だ。

「いや、ちょっと待て。それは、オレだけの気持ちで決める話じゃないだろうっ」

「そう思うなら、直接聞いて見るんだな」

 呆然と振り返る大男の肩を軽く叩き、ミヅキが駄目押しで言い切る。

「鏡月は、褒め言葉に飢えている。精々気の利いた褒め方で、ご機嫌にしてやってくれ。それから……」

 言葉を切り、更に悪い顔で続けた。

「子供は、何人でも構わんぞ。子育てはオレも手伝えるからな」

 思考が固まってしまい座り込む大男から離れ、ミヅキは若者の方へと近づく。

 不安気な鏡月に笑い返し、言った。

「ついでに、初夜も迎えてこい。邪魔は入らんように、見張っててやるから、逃がさず食らえよ」

 あの時、煽ったミヅキも悪いが、その煽りに乗った自分も大概悪かった。

 言い残した男の言葉を受け、シノギがぎくしゃくと誉め言葉を並べてくれ、真面目に口説いてくれたのを、本気と受け取って喜んでしまった。

 たった一晩でも幸せだったと心に秘め、後を考えずに仕事に向かったのが、大いに悔やまれていた。

 後の出来事は、まさに怒涛だった。

 仕事を終え戻った後も、長くシノギと顔を合わせる事はなかった。

 久し振りに顔を合わせたのは、長く姿を見なかったミヅキが戻って来て、旦那を見るたびに殺意をあらわにするようになってからだ。

 従兄が本格的に隠居した後も、今度はシノギの方が群れに寄り付かなくなった。

 二人の師匠が果し合い、ミヅキの死が目の前に訪れる段になって、シノギの死を受け入れたくなくて動いた後で、鏡月はようやくその罪と向き合う覚悟ができた。

 大きな罪と向き合う事で、別な罪も浮き彫りになる。

 だが、それに関しては取り戻せなくなっていた。

 だからこそ、その作ってしまった罪の塊が、シノギの幸せにつながる者になればと、そう願っていたのに。

 再会したその塊は、予想もしない程に怒涛の人生を送っていた。

 しかも、シノギと対面した後も、幸せとは言い切れない毎日だ。

 今回の事件を受け、凌がやらかした話を聞いた鏡月は、腹に決めた。

 あの人に、人並みの幸せは不似合いだ。

 なら、最期くらいは、子供たちの役に立ってもらおうじゃないかと。

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