第2話

セイは凌に、二つの方法を教えた。

「一つは、今回のように精神的な打撃による傷害によく使う方法で、相手の思考に直接語り掛けて起こす、いわば説得型、だ」

 相手次第では、永い間それを繰り返す羽目になる、忍耐がいる作業だ。

 そう無感情に説明する、若者の言葉を聞いている方は、あまり動かない。

 医療関係以外の従業員の控室の一つを借り、松本建設の関係者たちと、セイと凌の関係者たちが集っているのだが、大の大人が大人数でいるにかかわらず、恐ろしく沈黙が重い。

 僅かに相槌を打ったのは今日の側近で、久し振りに近くに立ち寄っていたオキだ。

 黒一式の衣服の中で、色白の肌と緑色の瞳が際立っているが、元が東洋の平凡人の為目立たない容姿の男は、セイの説明を聞いて頷きながらも天井を仰いだ。

 そんな芸当、凌の旦那ができるのかと、疑っているようだ。

 その気持ちは今、凌の眠る病室に入り浸っている大男も、同じだろうと思われる。

 セイの方も、出来るのならばそれに越したことはないと思ったが、出来ないのならば素直に、こちらに盥を回して欲しかったと思っている。

 もう一つの方法を教えたのは、先の方法が妥当だと、そう判断できるだろうと見越しての事だった。

「……もう一つは、脳にも損傷があり、どう考えても自力で治癒できないだろうという相手に使う方法だ。これは、人によっては諸刃の剣になるし、そこまでやっても効果がない事もある」

 場合によっては、相手を起こせないどころか、その方法を用いた者すらも同じ症状になってしまうか、今回のように相手を起こせても代わりに倒れてしまう事もある。

 悪い部分をそのまま、自分に移し替えてかき消す、そんな方法だった。

「体力や精神力に自信があったから、あの人もそちらを使ってしまったのかもしれない」

「まあ、体力も精神力も、化け物が裸足で逃げだすだろう程には強いからな」

 そっちをやったのならば、納得できると頷くオキを一瞥し、大沢忍の担当医が口を開いた。

「大沢忍君の方は、問題ありません。元々、脳波にも異常はなく、通院で済むはずだったので。ただ、動かなかった時期が長かったので、大事を取って年内は入院してもらう事になっています」

 その間に、少しずつ鈍った筋肉を元に戻してもらうと、金田医師が告げた。

 それに頷いて、隣にいた夜勤明けの野田医師が続ける。

「代わりに倒れてしまった方の方は、一目につかないように個別の病室に移しました。付き添いが、オキとは思っていなかったもので、少し気を回し過ぎました」

 仲間内ではゼツと名乗る大男は、そう言って軽く頭を下げたが、その懸念は当然だった。

 クリスマスイブと言う、日本国内に根付いたお祭り騒ぎを避け、挨拶回りの付き添いと言う言い訳で、セイの住処に入り浸っている女と、今は何もする事がなくて家事にいそしんでおり、時々仕事の付き添いと称して若者と共に動く男が、この騒動を聞いてどんな状態になったか、オキは知っていた。

「エンには留守番を、ミヤには仕事を代わりに行ってもらってる」

 ゼツの懸念の意を察し、セイは無感情に短く説明する。

「少しずつ、黒幕の逮捕に近づいている所で、日を掛けたくなくてな。葵さんにもその旨を伝えて、地図を書いてミヤに現場に連れて行ってもらった」

 日本語がおかしくないかと、一瞬松本が首を傾げたが、市原の話だと思い当たり、すぐに納得する。

 ミヤという呼び名の、みやびと言う名の女はそれで済むが、男の方はどう留守番を納得させたのかと、ゼツが首を傾げていると、オキが苦笑して答えた。

「一日眠りにつくのと、大人しく留守番するのと、どちらかを選んだ結果、留守番しておくことにしたらしい」

 連絡を貰って山の住処を訪れたオキは、これ以上ないほどに穏やかに微笑んだ優男のエンと、これ以上ないほどに優しい笑顔を浮かべる女、雅に迎え入れられた。

 凌の状況と、眠っている場所を訊き出せと、半ば脅しのように頼まれたが、まあ、場所を教えるくらいはいいかと思っている。

 どうも、あの旦那の傍にエンの苦手な大男が、入り浸りそうだ。

 雅がどう出るのかは、判断できないが。

 そんな短いオキの言葉の中に詰まった本意を、付き合いの永いゼツはすぐに察したらしい。

 小さく頷いてから、躊躇うようにセイに尋ねた。

「あの、会って行かれますか?」

「……先に、その忍君って子に、一目会っておきたいな」

 セイと大沢忍は、未だにしっかりと顔を合わせた事がない。

 初対面は薄暗い中で、挨拶すら難しい事態だった。

 それ以降は、双方存在は知っているという、曖昧な状態だった。

 だが、ここまで深く関わってしまったのなら、正式に挨拶位は必要だろうと、セイが無感情に言うと、動きにくい大男の眉が、僅かに動いた。

 若者の心境を誤解しての事ではなく、戸惑っての動きだと察し、セイは首を傾げる。

 無言で問われ、ゼツはゆっくりと首を振った。

「何でもありません」

 全ての言葉を飲み込み、大男が担当医に目配せする。

 その意を知る金田医師も、力なく笑ってから若者を促して控室を出た。

 その後に続いて出たオキは、ゼツが振り返って松本氏を一瞥したのに気付いた。

 一睨み、そう感じてもよさそうな目線に、中肉より少し肉のついた男は、明らかに顔を引き攣らせた。

「……?」

 その奇妙な空気に不審を持ちながら、セイが案内された病室に続いたオキは、ぎくりとして立ち止まってしまった。

 個室の中は、最愛の家族たちの喜びで溢れていた。

 涙ぐむ母親と姉、喜んで抱き着く甥っ子を笑って宥める、今回一月振りに目覚めた少年。

 その光景を見つめ、セイが立ち尽くしていた。

 病室に入り、扉を閉めた金田医師が患者に声をかける前に、若者はその医師の肩に手を置いた。

 言葉が消える程に、意志を持った無言の制止だ。

 振り返った金田氏は、無感情な黒い目を間近で見た。

 固まる男に、形だけ微笑みながら、セイは首を振る。

 それだけで、意図が分かった。

「……あ、あの……」

 低い呼びかけにも首を振り、若者は無言で踵を返した。

 静かに扉を開いて、廊下に出る。

 そうして、一緒に出てきたオキに呼び掛けた。

「松本さんを、呼んできてくれ」

 言ってから、恐る恐る続いた金田医師には、微笑んだまま切り出した。

「あの小父さんは、何処にいるんだ?」

「せ、セイ……」

「大丈夫だ、見るだけだ、今は」

 ゆっくりと言い切ると、こくこくと首を頷かせて男は早歩きで歩き出した。

 待合室を抜け、医師たちの仮眠室も通り過ぎた所にある、普段は使われない治療室の一つの扉を開けると、大男が背を向けて丸椅子に腰かけていた。

 背中だけでも完全に落ち込んでいるのが分かるが、セイが背後からベットの上を覗きこんでも気づかない程だと、重症すぎる。

 溜息を押し殺し、金田医師に頷いてから、セイはすぐに病室を出た。

 そこに、呼び出された松本氏と呼んできたオキ、展開を予想していたゼツが落ち合った。

「……その仮眠室が開いています。どうぞ、使って下さい」

 控えめな金田医師の申し出に頷き、若者は無言のままその仮眠室に招き入れられる。

 簡素なテーブルとベットのあるその部屋に、全員が入り扉が閉められたのを確認してから、セイはようやく口を開いた。

「……言い訳位は、聞いておこうかな」

 微笑んだままなのに、声も目と同じような無感情だった。

 目を向けられた松本氏は、逃げ場もなくただ床に膝をついた。

「も、申し訳ありませんっっ。ただの出来心で、つい口車に乗ってしまいましたっっ」

 完全な土下座をして声を張り上げた男に、その場の全員が一斉に溜息を吐いた。

 これからの後始末の方が、今迄の後始末の数倍厄介になると、そう悟っての諦念の溜息だった。


 クリスマスイブ。

「……苦しみます、イブ。に変名したらいいのにね」

「何で、そこまで卑屈にイベントを嫌うのかが、オレには不明なんですが」

 一見、清楚な美女が待ち合わせ場所につくまでの喧騒に疲れ果て、ついた途端に吐いた言葉に、市原葵は呆れ果てて返してしまった。

「お祭りだったら、異国のお祭りでさえ言い訳にして、騒いで楽しめる日本人が、一番意味不明だよ」

 一応は日本生まれの日本育ちなのだが、山育ちのためかその辺りが理解不能だ。

 意外に人が群れていた集団にいたはずだから、喧騒にも慣れたかと言えばそうではない。

 稼業が稼業だったからか、騒がしい人間は余りいなかったのだ。

「人付き合いは、うまくなった自信はあるけど、ああも大勢だと人酔いも激しいし、変に視線が痛いんだよ。姿が消せるマントとか、誰か発明してくれないかな」

 周囲の見目の良さのせいで、感覚がマヒしてしまっている女はその自覚が薄く、何で見られているのかは分かっていないが、兎に角嫌らしい。

 麻痺程度なら問題ないよなと、市原はその嘆きも聞き流している。

 麻痺よりも、自覚なしの方が問題だ。

 これまでのセイとの行動を思い起こしながら、雅の嘆きに相槌を打っていたが、待ち合わせ場所にやってきた同僚を見て、目を丸くした。

 同行者が、二人いた。

 セイの元に一緒に行った高野信之は、市原家に顔を出して緊急の出来事を伝えて、現場で落ち合う事になっていた。

 そこに、年末年始は身を寄せていたから、少し小柄な若者がいるのは何となく納得できたのだが……。

「暇だったから、体ほぐしに行こうとしてたら、この人が来たんだ」

 小柄な若者は、短く説明した。

 腰までの長い黒髪をきっちりと後ろに束ねた、見慣れたその若者を見て、雅も目を丸くする。

れん、君また、背が伸びた?」

「ああ。……もうすぐ、追いつくな」

 蓮は答えて、不敵に笑って見せた。

 確かに、長身の類の雅との目線が、もう少しで同じになる。

 だが、女は残念そうに溜息を吐いた。

「その可愛い声も、もう少しで聞き納めなんだね。今迄聞き慣れていたから、悲しいな」

 そんなしんみりとした声に無言で頷いているのは、もう一人の同行者だった。

 ざっくりと切った黒髪を、今は鬱陶しい時期なのかしっかりと後ろで束ねている。

 不思議そうに見た市原に、蓮が説明した。

「体ほぐしに行く先に、行けなくなった旨を伝えたら、速攻で来た」

「……例の、工事現場の襲撃の関係だろう?」

 薄い色の目を細め、若者が真っすぐに尋ねた。

 雅が目を丸くする。

きょうさんも、ご存じだったんですね。そうなんです。だから、先延ばしはしたくないって、セイが私を代理に」

 この事件に関する事態が、セイ自身をここに来れなくさせていたから、尚更だろうという女に、鏡と呼ばれた若者は首を傾げた。

「何か、最悪な事態があったのか? 確か、一人被害者が目を覚ましていないと、聞いているんだが?」

 本当に、よく知っていると雅の横で市原が首を傾げ、鏡月きょうげつと言う仰々しい名を持つ若者の横に立つ蓮は、無言で目を細めた。

 そんな中、雅は笑いながら首を振った。

「そうじゃありません。むしろ、いいことが起こったんですよ」

「という事は、まさか……」

「ええ、只一人意識不明だった子が、目を覚ましたと報告がありまして。セイはそちらに向かっています」

 鏡月の顔が、正直に安堵に変わった。

「そうか。そう言う話ならば、仕事をお前に押し付けたのも分かる。エンはあいつについて行ったのか?」

「いいえ、留守番です」

 続く問いに、雅は優しい笑顔のまま答えた。

 その笑顔に若干の曇りもなくなり、逆に蓮が眉を寄せる。

「今日は、オキが付き添いで行ってるんですよ。珍しく立ち寄ったんで」

「そう、か」

 雅の変化に、鏡月も気づき目を細めた。

「どうした? オレは何か、嫌な事を言ったか?」

「いいえ。大丈夫です。さ、早く済ませちゃいましょう」

 わざとらしいほどに優しい笑顔で手を打ち、雅は話を終わらせようとしたのだが、鋭い若者たちは納得しない。

 こちらと目を合わせないようにしながら、準備を始める市原を一瞥し、蓮が雅に呼び掛ける。

「ミヤ、何で、エンが留守番なんだ?」

「万全じゃない彼は、こんな複雑な現場を、単独ではこなせないんだ。知ってるだろ? だから、私が来ることになったんだ」

「そうじゃねえよ。その位なら想像つく」

 蓮が言いたいことは、その場の全員が分かっている。

 あの山の住処は、誰かを留守番にして出かける程、貴重品は置いていない。

 何を気にして、留守番を任されたのか。

 エンの性格からすると、複雑な仕事の代理をする事になった雅に付き添ってくるか、病院に向かうセイに、一人でも多い方がと考えてついて行くか、どちらかの動きをしていると思うのだが、大人しく留守番しているという。

 鏡月も目を細めたまま、気になった事を尋ねた。

「お前にしてもそうだ。複雑な仕事だというなら、代理に向かわせるのはオキのはずだ。あいつは、細々した仕事をこなすのは得意だからな。何故、お前に振ったんだ、セイは?」

「……」

 市原が諦めたように、溜息を吐いた。

 先程まで、喧騒の疲れで忘れていた怒りを、雅は沸々と思い出してしまっている。

「何で、余計な事を訊くんだよう、二人とも」

 強面の大男が小声で嘆いていたが、二人の若者は構わない。

 優しい笑顔のままの雅が、そんな二人の問いに答えたが、優しい声音のはずなのに、何故か寒気が走る言葉だった。

「ちょっと、腹立たしい事も伝えられたから、病院で暴れかねないと余計な心配をしたんでしょう」

 物騒な言葉だ。

「……暴れる気だったのか?」

「失礼ですよね。暴れるはずないじゃないですか。暴れる必要もないですよ」

 鏡月のきょとんとした問いに、雅は吐き捨てるように答えた。

「そう、なのか?」

「ええ。何せ相手は……」

 きょとんとしたままの相手に、女は我に返って笑顔を戻し、続けた。

「大きくて強いとはいえ、眠ったまま動かなくなった巨人ですから。静かに土に返すことも可能でしょうから」

 少年の覚醒の知らせで、何故巨人の話が出て来るのか。

 蓮は眉を寄せたまま市原を見た。

 見返す大男に、静かに尋ねる。

「高野さんは、病院で緊急事態が起きたとしか、朱里に伝えてなかったが、他に何か起きたのか?」

 随分、曖昧な説明だ。

 市原が高野を見ると、同僚はすっと視線を逸らした。

 後は任せると、無言で押し付けられ、市原は再度溜息を吐く。

「オレたちがセイの所に行った時、既に知らせがあったらしく、出かける準備は整ってた。その知らせは松本からで、只一人目覚めなかった被害者が目を覚ましたが、そこで付き添っていた男が、代わりに目を覚まさなくなったと言う事だったそうだ」

「……付き添っていた、男?」

 鏡月が、呆然と訊き返す。

「それは、まさか、銀髪のでかい男か?」

「ええ、そいつです」

 雅が優しく頷く。

 優しい声音だが、人称が格下げされている。

 高野が顔を引き攣らせ、市原がはらはらと見守る中、鏡月は何故か呆然としたまま、再び尋ねた。

「目を覚まさなくなったというのは、どういう事だ?」

「それが分からないので、セイが行く羽目になってるんです。大方、世話していた子供に情を与えすぎて、感傷的になった挙句の事でしょう」

「……情を? 血の繋がりのない、数年世話しただけの子供に?」

 呆然としていた若者の声音が、のんびりとしたしかし、剣を帯びた物になった。

「おい?」

 思わず声をかけた蓮に構わず、鏡月はのんびりとした笑顔を浮かべた。

「……大した優しさを持った男だな」

「か、カガミさんっっ?」

「そうでしょう? もう、本当に、慈悲の心のある男性ですよね。だから、こちらも、最大の慈悲を掛けようと、そう考えたのに。セイは連れて行ってくれなかったんです」

「それは、酷い話だな」

 一見、見目のいい男女が、優しくのんびりと意見を交わす風景だが、二人を知る者は微笑ましく見れない。

 何でこうなってる?

 市原と高野が完全におののく中で、蓮だけが冷静に事態を見極めようとしていた。

 が、そうしようとするだけでは、解決できなかった。

 現場は、地獄絵図と化した。

 これは人材が不味かったと、そう言い訳して諦めて貰おう。

 その一人を連れて来たのは自分だから、市原達だけ責められるという事はないだろうが一緒に弁明しに行くかと、蓮は仕事の後一気に老け込んだような刑事二人にそう告げた。


 その日の夕刊に、それはでかでかと見出しで載った。

『某暴力団系の羽田組の事務所、突然消える』

 あり得ない事を、さも当たり前に書かれた記事は、違和感なく一般人に読まれた、らしかった。


 書き方がおかしい記事だったと、森口律もりぐちりつは思ったそうだが、事実を聞いて顔を顰めた。

「本当に、消えたんですか? 爆撃を受けたとか、そう言う消え方ではなく?」

 答えた男は、力なく頷く。

「ったく、そういう不安があるから、オレが代わりに行きたかったんだ。なのに、ロンの旦那はセイをほっぽって、先に病院に行ってしまうわ、ゼツは勤務中だわで、雅を行かせるしかなかったんだ」

「……その場に、鏡月までいたとは。どこまでついてないんですか、その連中は」

 もういないその連中に同情する白狐の横で、社会人になった男が黒づくめの男に酒瓶を傾けた。

「大変だったんだな、ほれ、一杯飲んでけ」

「ん? あんた、もうそんな年齢になったか?」

「いや。オレは我慢するから、一人で飲め」

 今年十九の森口水月みづきは笑顔で言い切って、オキのグラスに酒を注ぐ。

「……」

 飲みにくいとは思ったが、飲まないとやっていられない状況だ。

「雅という娘が、あの狐とあなたの子供らしい、ハチャメチャな娘だというのは分かりましたが……」

 大柄な男が、その向かいでグラスを傾けながら、そんな三人に目を向けた。

「まさか、鏡月がそんな暴挙に出るとは。よほど腹を立てたんでしょうね」

「八つ当たりは、本当に困るんだがな」

 幸い、あの現場の連中は、重刑になりそうな奴らだったから、姿かたちが残らないのはやりすぎだがまあいいと、セイは言っていた。

「というより、自分が行けないと判断した時、もしもの時を考えて、比較的命の保証はしなくてもいい現場に変更したらしい」

 高野と市原も、その意を汲んで予定変更した。

 不安通りの結果を受けた市原が鎮魂の意を込めて、血の海と化した事務所を含むビルを、丸ごと焼き尽くした。

 市原の酔った時の自慢は、本当に大袈裟じゃなかったのかと、律が軽く驚くのを見ながら、オキがぼやいた。

「雅の方は、あれで少しは気が済んだらしく落ち着いたが、エンがなあ……あの後、隙を見ては病院に行こうとするんで、適度な仕事を押し付けてる」

 今日も、蓮が持って来た仕事を、代わりに雅とエンに押し付けて来た。

 その為、あの騒動から三日たつ今のように、挨拶回りの行先で食事をご馳走になるという時間まで、セイは確保できるようになった。

「……」

 勧められた食事を頬張る若者が、半分目を閉じているのを見ると、空腹よりも睡眠不足に耐えているように感じるが。

「今年は、ゆっくりと年末年始を迎えるのは、無理だろうな」

「そうか」

 水月も、何やら感慨深い気持ちで頷いた。

「仕事と挨拶回りの合間に、凌の旦那の様子を見に行っているのか。やはり、親子なんだな」

 そう言う感情には無縁だと思っていた若者が、こういう事態で素を出すのはいいことだと思う。

 しんみりと呟いた男を見たオキが、何とも言えない表情になった。

「……何だ?」

「いや。それにしても、律」

「はい?」

 急に呼びかけられ、律は思わず間抜けな返事をしてしまった。

 そんな白狐に、わざとらしく黒猫が尋ねる。

「お前が、こんなに早くこの地に入っているのは、知らなかったんだが」

「すみません。急に予定が数個キャンセルになったもので、それならばこちらで羽を伸ばそうと思い立ちまして」

 気心の知れていた男の主が、数日早い旅行の宿泊先を整えてくれた。

 だから、石川家に二人して厄介になっているのだと、律は慌て気味に言い訳している。

「心配するな、私の力づくが通用する女じゃないのは、知っているだろう?」

「ほう、力づくで通用する女なら、手籠めにしているような言い分だな?」

「ああ?」

 真面目な誉の冗談に、オキが珍しく突っかかっているのを、律も戸惑いながら制するのに夢中で、その不自然さに疑問を抱く余裕がない様だ。

「……」

 話を逸らそうとしているのが明白な、オキらしい不器用な絡み方だ。

 それに引っかかる二人も二人だが。

 水月は、じゃれ合いがひとしきり続き、収まるのを待ちながら、物足りないままオレンジジュースを啜っていたが、不意に声を掛けられた。

「病院で、オキに聞いて驚いたんですけど……」

 先程まで、石川家の主人と挨拶を交わしながら、おにぎりを頬張っていたセイが、すぐ傍に座っていた。

「……お前、ただ者じゃないな」

 匂いが辿れないのは体質上仕方がないが、まさか、水月が気づかぬほど気配なく動けるとは、どう考えてもただ者ではない。

 不思議そうにする若者は、おにぎりが山盛りに盛られた皿と、緑茶を注がれた湯飲みを持って、こちらに移動して来たらしい。

「? そこまで言われるほどの、人間じゃないです」

「まあ、そう言う事にしておく。何だ? 何を聞いて驚いたんだ?」

 今こちらの方が、驚いているのだが、それをおくびにも出さずに男が気楽に尋ねると、セイは無感情に答えた。

「鏡月が、あの人の弟子だったと」

「ああ、知らなかったのか。そうだ、鏡月は、あの旦那の愛弟子ともいえる存在だった」

「そうですか」

 頷きながら、若者はおにぎりに手を伸ばす。

 意外に口を大きく開きながらそれにかぶりつき、もごもごと口の中で何かを呟いている。

「……ああ、ランとユウも、弟子だ。ロンの旦那やヒスイの旦那もあの旦那の弟子なんだが、どうやら、あの三人の母親を、気に入ってくれていたようでな」

 怪訝な目を向けるセイに、水月は笑いかけた。

「その三人を気にかけてくれていたが、特に鏡月を可愛がってくれていた。オレとしても、嬉しい話だった」

 その理由は、矢張り三人の内、鏡月が一番母親に似てしまったせいだろう。

 馴れ初めの理由としては、そのくらいが丁度いいと、水月は今でも思っている。

 実際に見る事が叶った従弟は、これが女なら確かに美しいだろうと思える若者だ。

 アルコールが入っていないのに、水月はしんみりと頷いている。

 そんな男に、一つおにぎりを食べ終わった若者が、再び尋ねた。

「小耳に挟んだ話で、ずっと気になっていたんですけど……」

「何だ?」

「鏡月が女の人になってめかし込んで、夜這いをかけた男の人とは、もしかしてあの人だったんですか?」

 目を細め、思わずセイを見直した水月の背後で、オキが酒を気管に詰まらせて咽た。

 激しく咳込む男を、慌てて介抱する律を尻目に、水月が聞き返した。

「どこで聞いたんだ? そんな話、何処から洩れる話でもないだろうに」

「それは、企業秘密という事で」

「そうか」

 無感情に疑問を一蹴され、話の出所は気になったものの、水月は頷いて答えた。

「ああ。仕事とはいえ、色々と不安がったものでな。それなら、気心知れた人に初夜はくれてやれと、煽った」

「……ショヤ」

 片言で呟く若者に気付き、言い直す。

「夜這いしろと、煽ったんだ」

「夜這いを、ショヤとも言うんですか?」

「いや、所帯を持つ二人が、初めて夜に閨を共にする事を、大体初夜と呼ぶ。初めての夜という意味だ」

 背後で咳込んでいた男が、頭を抱え込んでいる。

 祈るようにぶつぶつとやめてくれと呟いているが、聞こえないふりをする。

 接客していた石川家の面々も、水を打ったように静まり返り、会話の成り行きを見守る中、セイは無感情に頷いた。

「確か、昔は夜這いをかけて、所帯を持つ風習を持つ地方もあったと聞いています」

「色々と、知識が偏っているな。よし、この機会に、腰を据えてその辺りを教えてやろうか」

「やめてくれっっ」

 耐えきれなくなったオキが、慌てて二人の間に入った。

「セイ、そろそろ次行くぞっ」

 言いながら持って来ていたタッパに、手際よくおにぎりを詰めてくところを見ると、ご馳走がてんこ盛りになる事態には、既に慣れているようだ。

 セイが茶を全て飲み終えるまでにその作業を終え、男は若者を促す。

「何のお構いも出来ずに、申し訳ない」

「これ以上、何処まで構う気だっ」

 ありきたりな挨拶にもそう返し、石川一樹を苦笑させながら、二人は慌ただしく石川家を辞して行った。

 騒々しく去った二人を、客間に残った森口家の二人はそのまま見送る。

「……え? 帰ったんですか、何で?」

 珍しく、我に返るのが遅れた律が、呆然と呟いた。

「そうだな。お前に挨拶をする余裕もないとは、オキも疲れ果てているのかも知れんな」

 水月は小さく笑いながら答え、唖然とした顔で座っていた誉に声をかける。

「お前、鏡月とは連絡を取っているのか?」

「え? ああ、勿論。ちゃんと、あんたがこちらに来ている旨も、昨日伝えました」

 我に返り答えた男は、その意図を察し顔を曇らせる。

「あの記事が、そう繋がる話と知っていれば、強く誘ったんですが」

 仕事が入ったと、断られたという。

「仕事?」

「蓮という仕事仲間が、簡単で暴れられる仕事を持って来てくれたそうです。そちらを片付けてから、あんたと会いたいと」

「……」

 水月は無言だったが、律が眉を寄せて言った。

「過剰に暴れても、大丈夫な現場なんですか?」

「そこまでは、知らない。だが……」

 首を振った誉は少し考え、大きく唸った。

「大丈夫でも、限度があるよな……」

「……」

 不安気な二人が、黙ったまま考え込んでいる水月を見た。

 黙り込んでいる時間が長いのが、やけに不自然だ。

「水月?」

「ん?」

「どうしました?」

「いや」

 小さく笑い、男は答えた。

「あの面白カップルが増えただけで、何か変化があるのかと思ってな」

「?」

 先程オキは、雅とエンが、セイの代わりに蓮に誘われた仕事に行ったと言っていた。

 そこには、鏡月もいるという。

 蓮が、何の為にセイを引き入れようとしていたのか、何となく想像がつくだけに、あの二人では役不足ではと思う。

「まあ、これからの動きが想像つく分、気は楽か」

 気は楽だが、少しだけ惜しい事をしたと思っていた。

 ついつい、面白いセイとの会話に夢中になって、聞きそびれていた。

 凌の眠る病室が、何処なのか。

 それさえ分かれば、その面白い事態が特等席で見られた筈だった。

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