私情まみれのお仕事 思慕編
赤川ココ
第1話
いくつもの建物の建設作業に加え、下水道の工事と配管の交換作業、そしてそれに伴う補装工事やライン引きなど、依頼の種類は多岐にわたり、その為の従業員の確保や、交通誘導の警備員の手配も大量に行う事で、求職者の救いになっている。
この地の裏元締めとして名をはせていた松本組は、今では縁の下の力持ちとして重宝がられていた。
病院や企業にも信用されて建築や改装を任され、最近では別な分野の制作業にも目を向け始めた。
その試みも軌道に乗るかに見えたその年の十一月、全てをひっくり返しそうな事件が、前触れもなく起こった。
いや、前触れはじわじわと押し寄せていたのだろうと、松本
「一応セキュリティに障る話でしたが、まだ漠然としたもので厳しく秘守していたわけではありません」
原因となったと思われる話の数々は夢のような話で、じわじわと希望として噂になっていたにすぎない位、まだ準備段階だった。
「つまり、軌道に乗せる掛け声をかける前だったんだ」
そんな状態での怪文書は、只のいたずらとして片付けるしかない代物で、まさか本当にやらかされるとは、思っていなかった。
そう言ったのは、松本社長とは反対に、何の感情も浮かべずにいた男だ。
銀髪で色白の大男は、警察の事情聴取の間もこんな感じだったらしく、事情を訊きに行った
「どっちも、口数がすげえ少ねえんだ。絶対、落ち着かせねえと、やばい。何とかしろっ」
同年であるはずの松本氏の抑えきれない怒りと、その側近である
「……」
まるっきりの部外者ではないのだが、これは事件と判断されたのだから、関わるのは得策ではないはずだ。
セイはそう思いながらも、短い説明をした二人に頷いて見せた。
「その怪文書と言うのは、今回の事件を予告していたんですか?」
薄色の金髪の小柄な若者は、今回集合した中では一番小さいが、一番落ち着いていた。
背後に、内心冷や冷やしている二人の刑事を従え、手術室の扉を見上げた。
三つある手術室のどれも、今は手術中のランプが光っている。
この日の昼休憩の時、ある工事現場の待機場が襲撃を受けた。
日本では完全に形を潜めたはずの、どこかの組織の下っ端らしき者による、銃撃だった。
突然、広く開けた空き地の待機場にやって来た五人の若い男は、奇声を上げながら銃を撃ちまくった。
混乱したその場でのけが人は、殆どが逃げ回る時にできた擦り傷や打撲だったが、三人だけ銃弾を受けてしまったのだ。
「……治療室での治療で済んでいる子らは、もう安定してるんだが。重傷の子は、意識もなく輸血が必要だった」
「もしこのまま、命の危険が過ぎなかったら、いや、後に障りがあるような怪我があったら……」
松本氏が、珍しく弱い口調で俯いた。
今は落ち着いてきて、怒りよりも従業員の心配の方が強くなっているようだ。
「充分な保証は、出来るんだよな?」
「勿論です。本人や家族の要望には、出来るだけ答える所存でいます」
無感情に事務的な事を言った若者に、松本氏はすぐに答えた。
様々な批判も、真っ向から受ける覚悟がある。
セイは頷いて、無感情に言った。
「もし、金銭的に足りないようなら、遠慮しないで言ってくれ。くれぐれも他の、被害に遭っていない従業員たちに、しわ寄せがいかないように」
「はい。心遣い感謝します」
事務的ながらもさらりと援助を申し出る若者に、松本はぐっと来て頭を下げた。
その様子も静かに見守り、凌はゆっくりとセイの背後を見た。
紫色の瞳に射抜かれ、二人の刑事が姿勢を伸ばす。
「で、吐いたのか? あいつらは?」
死人が出ていないのは、偶々だった。
夜勤明けで休んでいたものの、昼間何となく起きてしまった凌が、近くの現場に差し入れに行こうと気まぐれに思ったついでに、そこにいる筈の可愛がっていた少年にも顔を見せるかと、当のその現場に足を運んだ時に、銃声を聞いたのだ。
五人の内の三人は、決死の覚悟で飛びついた警備員と従業員に取り押さえられていたが、後の二人は楽しそうに、逃げ回る若い従業員たちに銃口を向けていた。
「オレが、現行犯逮捕に携われる日が来るとは、この世も捨てたもんじゃないな」
そう軽口を吐きつつも、凌は二人の気違いじみた男たちを黙らせ、拘束した。
他の三人も拘束した後、救急車両を呼んだのだが、今は心底後悔しているようだ。
「あんな奴ら瞬殺して、さっさとうちの奴ら全員、病院に運び込めばよかった」
「瞬殺するのはいいですが、後を考えて下さい」
「勿論考えているとも。そいつらの後の欠片もないのなら、その奇襲すらなかった事にできるだろう?」
怒りを抑えたまま、静かに言う大男に無感情な声が平然と返している。
「なかった事にはできません。既に、従業員の子たちは、恐怖を植えられてるんですから」
「悪夢を見たんだと、誤魔化せないか?」
「そんな単純な子たちなんですか、その子たちは?」
親子のはずなのに、全然そんな雰囲気のない二人の会話に、松本が溜息を吐いた。
「若……あの子たちと言いましても、皆殆ど成人しています」
ついでに、妻子持ちもいるし、技術的な資格を幾つも持った者も多数いる。
どう見ても幼い若者が、あの子扱いするのは違和感しかない。
「……あれは、所謂鉄砲玉と言う奴だったんだろう? なら、それを指示した奴もいる筈だ。誰だったんだ?」
静かに訊く凌に、同じくらいの大柄な刑事は咳払いして答えた。
「どうも、どこかのネット掲示板でつのられた、寄せ集めだったようです」
「……その掲示をした奴は?」
「今、捜査中です」
銀髪の男は、無言で微笑んだ。
笑みを浮かべる事がない男の、珍しくもわざとらしい笑顔に驚く松本と、美形の笑顔に見慣れている筈なのに、思わず見惚れた二人の刑事の前で、セイが僅かに口調を変えて呼びかけた。
「小父さん、お怒りは最もですが今はまだ、落ち着いて下さい。被害に遭った子たちの安否がはっきりした後、いくらでもお手伝いしますから」
「それでは、遅い。証拠も何もかも、そいつらが隠滅してしまう」
「させませんよ。目と鼻の先でこんな事をされて、私が黙っていないといけない謂れは、ないんですから」
目だけ鋭く見返した男に、若者は微笑んだ。
これまた珍しい表情に目を剝いた松本と、眼福と内心見惚れている高野の前で、その笑顔を見て先の呆然とした気持ちから我に返った市原が、前から差し出された物を無意識に受け取った。
「ん? これは……おい、まさかっ」
小指ほどの大きさの、薄いカードを手に乗せられた大男に頷き、セイは言った。
「そのサイトはすでになくなってたから、無理やり情報を引き出して置いた。大丈夫とは思うけど、もし管理会社に不具合が起こったら、知らせてくれ」
本当は、こんな無茶はしない主義なのだが、この事件を知ったのが夕方だったのだ。
目で見える証拠があるのなら、目で見える犯罪として罰するのが先だと考え、その糸口であるそのサイトのお情報を、いささか無理やり手に入れてしまった。
そのせいで、一般の人の個人情報が漏れてしまっては、大変だからと付け加えた若者に頷き、市原が言う。
「助かる。管理会社の方を当たっているのは別な奴だが、うまく言っておく」
実行犯達と、指示をした者がいる大掛かりな事件だが、皮肉な話があった。
「こちらとしては複雑ですが、逮捕しても極刑にはできない」
せいぜい、執行猶予なしの実刑だろうと、高野は苦い顔だ。
一般の仕事の従業員が銃で襲撃されたことは衝撃的だが、幸いな事に死者は出ていない。
その代わり、精神的な影響を受けるだろう被害者たちに、それを植え付けた者達とそれを指示した者は、その幸いが災いして重刑にはできない。
「程々の捜査でやめてもらっても、構わないぞ」
松本が、暗く笑いながら言った。
「刑事告発だけが、罰を受けさせることができる訳じゃないからな」
「気持ちは分かるが、お前らが罪に問われる方法はやめとけよ。折角、ここまで信頼を勝ち得たってのに、無にすんじゃねえ」
強く窘めながらも、市原は困り顔でセイを見た。
無感情の若者は、大男の言に頷いてから言う。
「あんた達が、直接手を下すまでもない」
「ほう」
凌が、静かに相槌を打った。
「そう言うという事は、それなりに調べはついてるんだな? この件を知ったのは、夕方じゃないのか?」
やんわりとした、しかし威圧のある言葉を受け、セイは紫の瞳を見返す。
「この件を知ったのは、夕方です」
それは、間違いないと言い切る。
だが、続きがあった。
「ただ、物事を具現化するにあたって、警戒しなければならない事を、前もって警戒していただけです」
その警戒していた先が、偶々この事件に関わっているようだと、セイは言い切った。
「それは、あの怪文書の『例の夢話』が何かも、明確にしているのでしょうか?」
問いかけた松本に頷くと、男は目を剝いて黙り込んだ。
代わりに、矢張り静かに凌が問う。
「動機は、何だったんだ?」
「臓器の生成、です」
「げ」
市原が、小さく声を出した。
同時に、手にしていたカードを握りしめる。
「い、市原さん」
小声で窘められ、慌てて力を抜いたが、苦い顔のままだ。
その様子を見た松本も、苦い顔になった。
「……完全に、裏稼業じゃないですか」
「まあ、犯人どもが持ってた銃が、簡単に手に入る種類のものじゃなかったんで、予想はついてたんですが、そっちでしたか」
松本建設が、秘かに手を広げようとしている分野は、様々だ。
工具や日用品、それを使用した加工品を作成している企業たちや、医療機関や一般の薬品製作をしている企業とも手を組み、この地により良い平穏をもたらそうと、頭をひねらせていた。
その内の一つが、臓器の生成、だった。
ある医者の女房の連れ子に、医者の卵ではあるが、どちらかと言うと研究者になりたいと考えている男がいる。
偶然、その男と知り合い、意気投合した松本の次男坊が、ぼやくように尋ねたのがきっかけだった。
「そう言う他人からの移植じゃなく、自分自身の体のどこかで、その悪くなった部分を作り直せないの?」
松本
体を動かす仕事ではなく、設計などを手掛ける職に就きたいと、高等部ではその種の科目を選択する予定だと聞いていた。
年の離れた
何故、そんな移植云々の話が出たのかも不明だったが、そんな素朴な疑問に興味を持った男は、独自に研究を始めたのだった。
母親の再婚相手の金田
「……」
そこまでの経緯も知っているセイは、無言で再び手術室を振り返った。
忙しい身ではあるが、義理の息子である男の事を長く放置してしまっていた金田医師は、その事実を知って衝撃を受けた。
自身の作った薬で年上の友人を死なせてしまったショックで、ただの仕事人間になりかかっていた時だっただけに、衝撃は半端ではなかった。
立て続けの衝撃は逆に幸いしたらしく、完全に落ち着きを取り戻したようだ。
でなければ、今この場で手術の掛け持ちなど、危なくてさせられたものではない。
「成人した息子を、多少放置したくらいで、責任感じなくてもいいんだけどな」
膝を折って衝撃を表現した義理の父親に、あっけらかんとした口調で言った朔也も、その助手として手術に臨んでいるはずだから、最悪な話にはならないはずだ。
「手術を終えた子らの、経過次第だな。あの子が元に戻らないようなら、少しは大目に見て欲しいんだが」
静かに、凌が切り出した。
気心知れた従業員たちの事とは言え、この大男がここまで怒るのには訳があった。
今手術を受けている被害者の中に一人だけ、中卒の少年が混じっていたのだ。
凌が、唯一気にしていた少年
怯むことなく一人の男を抑え続けた少年は、凌が男を引き離した時には意識がなかった。
「裏の奴らだというのなら、遠慮はしなくてもいいだろう?」
「……ええ」
静かに、セイも頷いた。
無感情な横顔を思わず見直した市原を一瞥し、続ける。
「こちらが落ち着くまでは、大人しくしていてください。上澄みの所は、浚っておきますので」
「それは助かる。出来れば、黒幕の特定もやって欲しいんだが」
「分かりました」
少し席を外し、刑事たちを見送るべく病院のロビーに向かったセイは、歩きながら言った。
「黒幕も、それを見れば分かる。出来れば、正攻法での罪での裁きを、考えてくれ」
「正攻法なら、多少の不自然さも、構わねえか?」
どすの利いた市原の声が、僅かに変わった。
見上げると真面目な強面の、険しい目が見下ろしている。
その険しい目に伺う色が見え、セイは頷いた。
つい緩みそうになる顔を顰めながら、答える。
「その不自然さの人員確保の費用は、こちらで用意するよ」
「頼む。これから、正攻法で責める所を、慎重に吟味する。決まったら連絡する」
真剣に返した市原が、表情を緩めた。
「悪かったな、強引に引っ張り出しちまって」
「逆に助かったよ。事件を早めに知れた。だからこそ、大事にしないで済ませられそうだ」
無感情に言う若者の頭を叩きながら、大男は気楽に言った。
「これからまた、忙しくしなきゃならねえかもしれないから、こっちの安否がはっきりするまで休んでろ。……命の危険は、ねえんだろ?」
気遣う言葉の後に付け加えられ、セイは天井を仰いだ。
「……」
一瞬、不安を空気に纏わせた若者に、市原が笑いながら言う。
「あの人も、松本も気づいちゃいねえだろ。気づいてたら、あの場にはいなかったはずだ」
手術の経過を知っていたら既に、報復のために動き出していたはずだと、大男は予想していた。
未だ手術は続いているが、今患者に施しているのは命を繋ぐ作業ではない。
その作業はすでに終えたという報告を、セイは病院の医師の一人に聞いていた。
切羽詰まった施行を終えた、若者と最も近い大柄な医師は、病院にやって来たセイに真っ先に近づき、経過を説明してくれた。
「今は、銃創の処置を主にしている最中だそうだ。それも、そう長くはかからない」
命の危機は、三人とも脱した。
無事に意識を取り戻すのも、主治医となる者の腕が一流ゆえに、そう長くはかからない。
「だから、そう長くのんびりとは出来そうにないな」
その間に、刑事事件として処理できる部分を、出来るだけ多く調べ上げて片付ける必要があった。
刑事の二人が意を決して病院を後にし、見送ったセイは一休みしながらも、事態が動くのを待つことにしたのだが……。
その動きが、別な方向に向かい始め、更に予想もしていない展開になってしまったのは、一月後だった。
結果を告げると三人共手術は成功し、後遺症も残らないだろうと言うくらいまでには、回復する見込みとなった。
だがそれは、表面の問題だ。
「……精神的な面は、また別問題なんだよ」
金田朔也が、真面目な顔を作って松本兄弟に説明している。
「交通誘導の子たちですら、今は普通に家族と接してるが、いざ仕事に戻る時に支障がないか、心配な位だ。何の免疫もなかった忍君が、ああなったのも仕方がないかもしれない」
大沢忍は、一週間たった今日も、意識が戻っていなかった。
「……だから、事務仕事させとけって、言ったんじゃないか。何で、土方に行ったんだっ」
「いや、普通の土方で、ああいう場面に遭遇すること、ないだろ?」
「それに忍さんって、電話対応とか苦手って言ってたし」
透も頷いて、随分年上の友人を見上げた。
英国の刑事の父親と、今や世界を股にかけた有名女優となった日本出身の女優を母親に持つ研究脳の医師の男は、顔立ちこそは西洋の彫りの濃さだが、東洋系の目立たない色合いだ。
小さい頃父親を亡くし、その上母親まで癌に侵されてしまってから、医者を目指して今日まで来た真面目な男だが、口調が甘いせいで患者からも軽い男に見られている。
「何か、問題があって起きない訳じゃ、ないんだよね?」
恐る恐る尋ねる少年に頷き、朔也が言う。
「脳波やその他の検査も全て、異常はなかった。だから、何かの拍子に回復して意識を取り戻す可能性の方が、高い」
「自然に目覚めるのを待てばいいって、叔父貴も言ってた」
「どれだけ時が経つかは分からないが、目覚めてリハビリし社会復帰するまで、責任もって保証すると、望むならば復職も保証すると被害に遭った全員に、親父は言ってる」
朔也の太鼓判を裏付けした健一も、大きく頷いて会社の意向を伝える豪も、希望のある言葉を発したにしては、苦い顔だった。
静かにその説明を聞いていた少年少女が、黙ってそちらに目を向けた。
個別病室の一つの扉の前の長椅子に、固い顔で座っている大男がいた。
そこで眠っている少年の、見舞いに来た親族と入れ違いに、病室から出ている銀髪の男だ。
「……大沢の、父方の親族が来てるんだ。お袋さんと姉母子と一緒に」
大沢忍が中卒を選び就職した理由は、単に松本建設への恩義だけが理由ではなかった。
この年、未だ残っている父親の借金の返済に加え、もう一つの負荷が加わった。
それが、出戻って来た姉だった。
学生結婚し、早くに家を出ていた姉は、ついこの間離婚が成立した。
理由は、旦那の失踪。
前触れもなくいなくなった旦那を待って三年、貯金とパートで何とかやり過ごし、今年になって離婚が成立した後に、住んでいたアパートを引き払って戻って来たのだった。
幼い子供は母親に任せ、パート勤めしていた職場のフルタイム勤務に変えたが、増えた家族の生活はままならず、そんな状態でこれ以上学費を出してもらうのは困難と、忍は判断してしまったのだった。
「何だか、話の流れが手に取るように分かるんですが」
嫌そうに、
事件の事を知ったのは、師匠である若者経由だった。
最近、余程の事がない限りあの辺りには近づかないのに、その情報力は半端ではない。
見舞いに行ってやれとのんびりと、しかし何故か緊張気味に言われて、静は不思議に思いながらもやって来たら、偶々弟子仲間の一人も、友人や同級生たちとやって来たのだった。
顔見知りの医師に、簡単な説明も受け、今のその患者の周囲の状況も聞けた上に、何となくその後の話も分かってしまった。
分かってしまったが、喜べる内容ではない。
「確か、その大沢さんと言う人は、お父さんの借金を返そうと働いていたんですよね? それを、今見舞いに来ている親戚の方々は、傍観していた」
「ああ」
豪が苦い顔のまま頷く。
「今更、心配顔で見舞いに来ているという事は、親御さんたちに良からぬ話を持ち掛けているんですね?」
今日が初めての見舞いならば、わざわざどうもで済む話だが、松本兄弟のうんざりとした顔を見ると、何度かの見舞いの時にも、彼らの邪魔が入っていたことが伺えた。
「ご夫人も、お姉さんも聞く耳を持っていないのが救いなんだが、いつその流れに乗る程疲弊するか、分からないんだよな」
朔也も嫌そうに言う所を見ると、嫌な想像は当たっているようだ。
保証を受けながら、目覚めるか分からない子供を介護し、目を覚まして動けるようになっても、社会復帰できるか分からないままにするより、いっそのこと一思いに……。
そんな内容の事を、さも家族の事を心配していますという体で、そっと提示する。
「はっきり言えば、角が立つからな。入院やリハビリにかかる金が、勿体ないなんて言ってら、大顰蹙だ」
「負担するのは、うちの会社なんだけどな」
脳への異常はなく、精神的な衝撃による意識喪失状態で、眠っている状態では食事も出来ないので、栄養剤を投与しているが、呼吸もしているし悲観する状態ではない。
だが気が早い事に、死亡した時の保証の方が、多く親戚にも回って来ると、何故か考えているようだ。
「……親戚が全員、父親の借金の時に助けてくれなかったからこそ、大沢は働く決意をしたってのに。お袋さんが諦めて奴らの意見を聞くようになったら、会社側としては反対するわけにはいかないんだよ」
「まあ、病院側から言わせると、脳死じゃないのに何、寝言言ってるんだって話なんだけどな」
「何がきっかけになったのかは知らないですけど、自力で目覚めてくれればいいですね」
嘆く豪と軽く笑いながら付け加える朔也に頷く静も、未だ黙ったままの
静かに、本当に静かに座って俯いているだけ、なのだが……。
「……あの人、確か、松本建設の……」
「凌さんだ。大沢の世話係だったんだ」
「へえ……」
思わず声を潜めながら切り出すと、豪も声を潜めて答える。
「この間、中にいる親戚の一人が、安楽死を提示した時から、殆ど病室から離れないんだよ」
「……」
朔也が困ったように言うと、全員が息を呑んだ。
「何とか、連れて帰ってくれないかな? 空気読まない看護士が、時々色目使ってるんで、冷や冷やしてるんだよ」
「その看護師を管理した方が、絶対早いです」
思わず、伸が本音を力説すると、全員が力強く頷いた。
「やっぱりか? そうだよな」
凌自身は、静かに座っているのだが、空気が半端なく固い。
少し勘がいい者ならば、半径一メートル先で回れ右をして走り去りたくなりそうな、威圧感があった。
故に、少し離れたこの場所で、そっと覗き見しているのだった。
面会時間終了までに、親戚一同が帰ってくれても、見舞いのためにあそこに近づくのは勇気がいる。
最悪、朔也に見舞いの品を押し付けて帰ろうと、そう判断している少年少女たちは、その怖い男に近づく若者に気付いた。
別な入口から入院病棟に入って来たらしい若者は、珍しく一人だ。
顔を上げた大男に挨拶する様を、少年少女はついつい感嘆してみてしまっていたが、後ろからかけられた声で、飛び上がった。
「こそこそと隠れて、何をやってるんですか?」
固い男の呆れを滲ませた声に振り返った朔也が、大袈裟に溜息を吐く。
「の、
「君まで一緒になって、出羽ガメですか」
「ち、違いますよ」
一同の後ろに、いつの間にか大きな男が立っていた。
凌より大柄で美男子の類だが、目つきの鋭さと日本名が白々しくなる程に似合わない、全体的に薄い色合いのせいで、妙に威圧感がある男だ。
この病院の外科医なのだが、今日は非番らしく白衣を着ていない。
遅ればせながら挨拶をして来る面々に返しながら、野田と言われた男は灰色がかった瞳を若者と男の方に向けた。
「見舞客が来ているんですね。丁度良かった」
廊下ならば、まだ物騒な話もしやすいと、野田
どうやら非番にもかかわらず、若者の側近として動いていた純一郎の言葉で、豪が息を呑んだ。
声を潜めて、尋ねる。
「事件に、進展があったんですか?」
「ええ。ただ、その過程で予想外の事があったもので、断りを入れに来たんですよ」
その言葉に緊張する面々の様子に構わず、純一郎は気配のみで珍しい親子水入らずを見守っていた。
予想外の進展があり、そのことで断りに来たとセイは言った。
「上澄みが、少なすぎたのか?」
ベンチの隣を空けて座るように促しながら、凌は気楽な口調を作った。
心境は穏やかではないが、実の子供相手では後ろめたすぎて、それを表には出せない。
この間、事件に係る連中を洗い出し、黒幕以外の上澄みを浚っておくと、そんな話だったが、その上澄みを浚うにしても、今日までですませるのは早すぎた。
だから、思ったよりも雑魚が少なく、黒幕が多数いたのだと思ったのだが、若者は首を振った。
無感情に言う。
「上澄みを少し掬ったら、すぐに底が見えてしまいまして」
「……」
「ああいう単純な事件なんだから、もう少し大きな黒幕もいるのではと、用心していたんですが……。料理の煮物の灰汁を掬いすぎて、煮汁が残らなくなったような感覚です」
真面目な言い分に唸り、凌も真面目に返す。
「生憎、料理は全て火あぶりと決めてるオレには、その例えは分からない」
獣も魚も、昔から内臓諸々を含んで、ばらした後は串刺しにして火であぶるのが、凌流の料理だった。
「全部の内臓を、ですか?」
「ああ。河豚の時は、大顰蹙だったな。子供たちが毒に当たって、死にかかった」
お蔭で、弟子たちに警戒され、捌くのは弟子が行うようになった。
その前に水月が料理を買って出、完全に役立たずだと判明した事が、弟子たちの協力関係を強化することに繋がったらしい。
ついつい昔の思い出に浸る男の横で、セイは少し考えこんだ。
料理を教えてもらい始めの頃、やらかした失敗を例えに上げたのだが、通じなかったようだ。
エンもその師匠の老翁も、灰汁は勿体ないから掬わない派だったのだが、ひと手間加えれば美味しくなることは知っていたから、セイに灰汁取りを教えてくれた。
お蔭で、妹にも自分の食事は美味しいと好評だった。
「……沼で例えましょうか。底なしだと思って用心して浚ったら、下がコンクリートで、意外に浅かったんです」
感覚では、只の水たまりだ。
「……無理に例える必要はないが、分かりやすいな。成程。つまり、お前さん」
何とか例えを絞り出した若者に頷き、凌はやんわりと指摘した。
「黒幕まで刑事事件にできるくらいの、証拠を攫んだんだな?」
「はい」
短く答えるセイの様子では、どの位の苦労があったのか分からない。
そこまで時間が経っていないから、本当に浅瀬だったのかもしれないが、自分が若者を甘く見ているだけかもしれないとも思う。
何故なら、カスミの後を立派に勤め上げた、あの群れの頭領だった若者だ。
上澄みを浚う道具が、大きすぎたのかもしれない。
確かめるすべがないのが、口惜しい。
「ですから、あなた方が出てくる必要が、本当に無くなってしまいました」
ぺこりと頭を下げる若者を、何とも言えない気分で見つめ、凌は溜息を吐いた。
「表沙汰にして、重罪に問えるのならば、それに越したことはない。どういう理由で捜査状をもぎ取るのか、お手並み拝見しておくよ」
どうせ、こちらもそれどころではなくなったと心の中で付け加えた男を見つめ、病室の方を一瞥したセイは、軽く尋ねた。
「まだ、目を覚ましませんか?」
「ああ」
短く答える凌の思いを知ってか知らずか、若者は軽く続ける。
「余りに遅いようでしたら、目覚めさせる方法を考えないといけないですね」
「何でだ?」
妙な意見に目を剝き、思わず若者を見直してしまった。
そんな男を見返しながら、セイは首を傾げる。
「だって、何処も悪くないのに眠り続けるのは、ご家族にも負担でしょう? 精神的なものというのは厄介ですが、逆に原因を突き止めれば簡単に解決できます。まあ、その後の治療は必要でしょうが、目覚めないでいるよりは対処もしやすくなります」
寝たきりで入院しているよりは、通院するまでに回復させた方が、費用も抑えられるだろう。
「その上で、まだご親族が何か言うようだったら、あなた方の出番でしょう」
その前の段階の話は、自分が何とかしてみようと、あっさりと請け負うセイに、凌は慌てて返した。
「そこまで、一人の子供に目をかける必要は、ないだろう。お前さん、忍の事はあまり知らないんだろう?」
不思議そうに見る若者に、必死で続ける。
「大体、加害者連中を全て、お前さんに任せる事になるのに、そこまでさせるわけには……」
「余り知らない子ではありますけど、関係ない子でもないでしょう。あなたの、大切な子なんですから」
慌てたまま言葉を並べていた凌は、遮った若者の言葉で詰まった。
思わず見返したセイは、無感情のまま首を傾げていた。
「一応、あなたと血の繋がっている私としては、大事にしてもいい子なんじゃないかと思ったんですけど、可笑しいですか?」
「……」
素直な言葉には、激しい後ろめたさしか浮かばない。
何とかその感情をやり過ごしている間、セイは全く別な方向に目を向けていた。
本日の側近のゼツだけかと思ったら、他に子供数人と医師一人が息をひそめて隠れていた。
そこまで、ここでのやり取りが気になるのだろうか。
病院側からすると、どうにかして欲しい男のようだが、セイ側からするとここにいて貰った方がありがたい。
だから今は、連れ帰る事も何とか気を楽にさせる事も、する気はなかった。
ただ、あらかた片付いた後ならば、それを実行しようと考えた為の提案だったのだが。
凌は、ゆっくりと首を振った。
「お前さんが、そこまでする事はない。やるとしたら、世話係だった俺がやるべきことだ」
「……」
「だが、やるに当たって、問題もある。オレは、人を無理やり叩き起こすことは出来ても、叩き起こしても起きない相手を、精神的な部分をついて起こすことをやった事がない」
首を傾げたままのセイに、男は慎重に尋ねた。
「余りに乱暴に突いたら、逆にまずいだろう? どこまで細かい作業にすればいいのか、教えてくれるか?」
「はい。そこまで細かくはないと思いますけど……」
凌の頼みに答え、若者は首を傾げたままその作業を教えた。
「……」
しばし黙り込んだ大男は、意を決したように頷き、礼を言う。
「分かった。何とかやってみよう。だが、まだ自力で目覚める可能性もあるから、暫くはこのまま様子を見る。そろそろと思ったらお前さんに連絡してから、実行してみる。もし、不具合が起こったら、その時は申し訳ないが……」
「分かりました。その時は、慣れてる私が引き受けます」
親子は穏やかに頷き合い、その日は別れた。
その三週間後、凌からの連絡で実行に移すと言って来た。
意外に早い決断だと内心驚いたのだが、さらに驚く事態になったのは、その数時間後だった。
知り合いへの年末の挨拶の合間に、仕事を軽く収めるいつもの年末行事の中、その事は松本氏より伝えられた。
意識不明だった大沢忍が、意識を取り戻した。
成功したのかと思うセイに、続けて言った勝の声は、完全に取り乱していた。
代わりに、凌が倒れて目覚めなくなった。
その報告は、まさに寝耳に水、だった。
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