第三十五話 呪いの子⑥
ヘンリエッタ・ミケルセンの部屋は、いつも必ず一人の男が見張っている。
彼でなければならない理由は無かったが、彼は進んで監視の任務を申し出て、常に彼女を見ていた。時折ぎらぎらとした視線を混ぜながら、ではあったが。
彼はヘンリエッタを欲していた。その心を、その
ヘンリエッタに近付き、全てが終わった後であわよくば彼女を自分のものにする。それが彼の抱いていた、
しかし彼の妄想は、ユークリッドが
「……お呼びでしょうか、ヘンリエッタ様」
緊張しながら、男がひそかに素早くヘンリエッタの部屋の扉をノックする。
その日の昼、彼はヘンリエッタから夜ここへ一人で来る様に言われていた。その日彼女に会ったのは自分一人だけなのだから、彼だけが呼ばれている事は間違いない。
女が男ひとりを部屋へと呼ぶ用事など、そう多くは無い。
これから起こる出来事を想像するだけで、彼の心は野卑に
「ヘンリエッタ様、言いつけの通り参上
「……ええ、どうぞ入って頂戴」
来た、と彼の口元は歪む。
ゆっくりとノブを捻り、静かに扉を開く。石と夜の匂い、薄暗い景色、ノブに触れた時の金属の冷たさ、扉の軋む音さえも、天上の饗宴が如く心地良く晴れ晴れと彼の五感をくすぐった。
この部屋に踏み入れば、自分の望みは全て叶う。
うきうきとした気持ちで、彼は薄暗い部屋の中へと踏み入った。
「失礼します……え?」
きょとんとした顔で、男が部屋の中を見回す。
ヘンリエッタはどこにもいなかった。返事は聞こえた筈なのに、彼女の姿はどこにも無い。
――まさか、
怪訝に思った男の隣、扉の陰から、一つの陰が躍り出る。
何だ、と思う間もなく、男のこめかみに硬い何かが素早く叩きつけられた。ぐるんと男の目が回り、意識が混濁する。
「は、ぁ…………?」
「
もう一度、ヘンリエッタの声が部屋へと響く。廊下の灯りに照らされたその姿は、紛れもなくヘンリエッタ・ミケルセンのそれだった。
その左手には一本の短剣が握られている。下心を抱いてやってきた一匹の獣のこめかみへと、彼女は短剣の柄尻を
昏倒した男へと
足音が一つ、こちらへと近づいてくる。倒れた時の音が近くの者に聞かれたのだろうが、それは彼女にとって予想の範囲内である。
「…………」
扉が再び、ゆっくりと開く。
「おい、どうした?」
問いかける声が聞こえる。先に入った男の姿も、この部屋に本来いる筈のヘンリエッタの姿もそこには無いのだ。
当然、侵入者はこの状況を
「おいどうした、一体何が……」
灯りをつけようと、侵入者が部屋へと踏み入る。
一歩、二歩、三歩……四歩、五歩。
駆けだしても一歩では出られない五歩目を踏んだところで、ヘンリエッタはゆっくりと扉を閉めた。
「な――」
暗闇の中で振り返った侵入者に飛びつき、ヘンリエッタが首筋へと短剣の刃を当てる。その刃は正確に頸動脈の位置へと当てられており、後は力を込めて刃を引けば侵入してきた男はたちまち絶命するだろう。
どう見ても、それは素人の動きではなかった。ややぎこちないとは言え、左に持った短剣の動きは、どう見ても戦士の
「動くと殺す。余計なことを喋ったら殺す。質問にだけ速やかに応えなさい。返事は?」
「……!」
侵入者が頷き、ヘンリエッタが僅かに短剣を押し付ける力を弱める。
捕らえたその人物を彼女がすぐに気絶させなかったのは、聞きたいことがあったからだった。即ち、マージェリーの居所である。
「マリーは。マージェリー・ミケルセンはどこにいるの?」
「それは……」
「応えなさい」
ヘンリエッタが再び短剣を押し付け、僅かに引く。皮が切れて血が滲み、その刃が脅しではないことを彼は漸く理解した。
「ち、地下だ……それ以上は知らない……!」
「そ、感謝するわ」
そう言い残して、ヘンリエッタが柄尻で後頭部を叩く。侵入してきた男が気絶したのを確認して、緊張の糸が切れたヘンリエッタが大きく息を吐き出した。
――はぁ……慣れないことはするもんじゃないわね……。
手慣れた風を装っていたが、ヘンリエッタが刃引きされていない刃物を人に向けたのはこれが初めての出来事である。
抵抗される可能性を考えれば殺しておくのが一番だと言う事は頭では分かっていたが、
本来はこうした使い方をする技術ではないが、本来護りは攻めより
「地下……勿忘草ね。ここが
ヘンリエッタはミケルセン家の人間である。ほんの少しのヒントさえあれば、どこのことを指しているのかはすぐに分かる。
――よし、後は急いでマリーのところへ行かないと……!
棚から隠し持っていたグローム鉱石を取り出し、短剣で発光の術式を表面へ刻む。
グローム鉱石はそれ自体が魔力を含んでいる為、術者の意思と術式を刻めば簡単な術式を発動できる。つまり魔術回路の代替として、この鉱石は機能する。
ヘンリエッタに魔術師の素質はなく、魔術回路も備わっていない。術式や魔法陣の知識はあるが、幾ら頑張ったところで低級術式一つ出せはしない。
だがグローム鉱石があれば、術式の知識さえあれば誰でも術式を行使できる。このままこの鉱石が人界へと広まれば、術者と非術者の境界は必ず溶けて失せる。
だから何百万人の犠牲が出ようとも、人類は……正確には
「……よし、準備できた。これで……」
刹那、ヘンリエッタの背中を厭な寒気が走った。
準備は滞りなく進んでいた。全てが彼女の思惑通りに進んでいた。
故に、彼女は小さな小さなある可能性を見落とした。見落としてしまった。
意中の女に誘われた男が、浮かれて周囲へと言いふらす可能性。そして面白半分にその様子を覗きに来るものがいるという可能性。
どちらも野卑で余りに馬鹿馬鹿しくて、ヘンリエッタではとても思い至らない。
はっと息を呑んで、ヘンリエッタが振り返る。少し開いた扉の隙間から、驚いた顔でこちらを覗いている一人の男の顔が見えた。
「なっ――!」
「……っ、逃げるぞぉぉおおおおおおおおおおッッッ!!!!」
「ぁぁああっ!」
短剣を構えて、ヘンリエッタが突撃する。
蟻の穴から、堤は確かに崩れつつあった。
それから無我夢中で、這う這うの体で、ヘンリエッタは勿忘草へと辿り着き、マージェリーを牢から救い出した。そして現在、二人はミケルセン邸の大広間にいる。
玄関はすぐそこにある。屋敷を抜ける為には、ここが最後の正念場だった。
「そうだ、マリー。これを!」
ヘンリエッタが懐から手袋を取り出して、マージェリーへ手袋を渡す。全体へ小粒の宝石が散りばめられたその手袋に、マージェリーは確かに見覚えがあった。
「これは……
「来る途中で取っておいたの! これがあれば戦えるでしょう!?」
「……ええ。戦えるわ」
マージェリーが素早く手袋をはめて、その場で足を止める。同時にヘンリエッタも足を止めて、上の方を見た。
既に誰かが、この大広間にいる。二人は同時に、それを感じ取っていた。
暗かった大広間にぱっと一斉に灯りが燈り、いきなりの眩しさに二人の目が眩みそうになった。
眩い視界の中で、鈴の様な澄んだ声が響く。
「おや、おや、おや。これはいけませんね、実にいけませんよヘンリエッタ様」
かつん。かつん。かつん。
靴底から硬い音を立てながら、修道服を着た女が降りてくる。
その所作や声、雰囲気に、ヘンリエッタとマージェリーは確かに見覚えがあった。
「シャロン・アビゲイル・バロウズ……!」
修道服のフードを外し、黒髪をばらりと開き、糸の様に細い目をかっと見開いて、シャロンは二人へと近づいていく。
「私、申し上げましたよね。外へ出るなと、主はいつも、あなたを見ていると!」
彼女が天井を指すと、広間全体で魔力が漲り、どくんと音を立てて拍動した。
彼女自身に大きな魔力の変化は見られない。だがしかし……この大広間全体から伝わって来る魔力の予測総量は、全力で放出したマージェリーの
――敵もまた、怪物なのね。
「……はぁ、とことんしくじったわね。私一人じゃここで死んでるわ」
「かもね。けれど姉さまは一人じゃないわ、アタシがいるもの」
「ヘンリエッタ・ミケルセン。貴女は
否、既に最大の障害となっているに違いない! その目に真実を映した事を、計画の全容をその手に掴んだ事を、貴女の佇まいが何より雄弁に物語っている!」
さっと
燦然と煌めくその宝珠はシャロンの遥か頭上で静止し、さながら太陽の如く煌々と大広間を照らし始めた。
宝珠の煌めきに合わせ歌うように、辺りの魔力は激しく上下し蠢動し、加速度的に爆発的に膨れ上がっていく。
「ここで死んで貰うぞ、新しい世界のために!」
び、と両の人差し指で鋭く二人を指して、シャロンは高らかにそう叫んだ。
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