第三十四話 呪いの子⑤
無論、監視がついた状態である。修道院の外では『緑の歌うたい』の聖歌隊の隊員二十余名が巡回を行っており、蟻の這い出る隙間も無い。
自発的にここへ来たくて来た、というのはヘンリエッタにとって半分正解であり半分不正解である。
今日は土曜日、太陽教の信徒は必ず午前のうちに礼拝を行うべしと戒律で定められている。彼女が行きたかろうと行きたくなかろうと、土曜日になれば必ず
だが、ここへやって来たのは彼女の意思でもある。勇者ユークリッドとマージェリーに何があったかを知る為の足掛かりとして、彼女はここへやってきた。故に、半分正解。
「……ようこそ、ヘンリエッタ様。今日も
祭壇の方からヘンリエッタを見ながら、一人の女性が微笑みかける。その微笑みに合わせる様にして、ヘンリエッタは膝を着いて諸手を組んだ。
修道服から覗くのは、黒い髪と細い糸目。少し垂れて常に笑んでいる様に見える表情は、なるほど聖職者に相応しい面差しだと言えよう。
「ええ、祈りましょう。シャロン」
彼女の名はシャロン・アビゲイル・バロウズ。『緑の歌うたい』第一席に君臨する、神殿術式の
そして組織の中でも随一の信仰の篤さで知られており、一日の大半を祈りに捧げている。マージェリーが彼女を「引き篭もり」と呼ぶ理由はこれが大きい。
「…………」
瞼を閉じると、ヘンリエッタの顔を朝の陽ざしが優しく撫ぜる。
礼拝の際、礼拝者の身を陽光が包み込むように、礼拝堂は東方に祭壇とステンドグラスを設けるのが習わしとなっている。
そして逆光に照る聖職者の姿は、礼拝者からは肉の身体を捨てたかの様に映り――さながら神の代弁者のように感じられる。
シャロン・アビゲイル・バロウズ。彼女は神託の巫女。御言葉を預かる者として、たった今この場に立っている。
「大いなる恵みの
これより汝に
「教えを継ぎし陽の
「視ることは
悦びと祝福を。全能なる主は万物の父なり。全能なる陽は万物の母なり。我ら父なるものと母なるものを悦び、崇め、祀るもの。
重ねて我らは祈りて願う。
「祈りましょう。賛美を以ちて御言葉を受け入れ、栄光を掲げて御言葉を示し、知恵を頼りて御言葉を悟り、感謝の下に御言葉を刻み、誉れを謳いて御言葉を伝え、力を振るいて御言葉を世々に打ち鳴らしましょう。我らの歌と主の教えが、
「祈りなさい」
「祈りましょう」
「「世々に、
祈りは謡う様に、連ねる様に、音から音へと紡いでいく。
それは一種の音楽であり、また一つの楽器の様でもあった。
礼拝が済むと、シャロンはほうと一つ息を吐き出し……かつかつと靴音を鳴らしながらヘンリエッタの方へと歩み寄った。その表情は柔和で、それ故に心の機微は伝わりづらい。
「お疲れ様でした。主はいつも、あなたのことを見ておいでですよ」
「……はい」
「あの、差し出がましいことを伺いますが……ヘンリエッタ様、もしかしてお加減が良くないのではありませんか?」
「あら、どうしてそうお思いに?」
ぴくりと、ヘンリエッタの眉根が動く。
「祈りの言葉の最後、ほんの少しだけ語気が弱まっておりました。最後まできっちりと言い切ることを心がけていらっしゃるヘンリエッタ様にしては珍しいな、と思いまして」
「……神様の前では隠し事はできないわね。実は昨日から、少し具合が良くないわ」
無論、嘘である。ヘンリエッタの体調に何ら問題は無い。
だが祈りの
取り敢えずは誤魔化しながら、迅速に用を済ませることにヘンリエッタは予定を切り替えた。
「左様でしたか。それでは邸宅へ戻り次第、ゆっくりとお休みください」
「ええ。ああそうだ、シャロン」
「はい、何でしょうか」
「医者の手配をして欲しいの。その間に私は、その……ちょっとご不浄を借りていいかしら。実はちょっと前から、お腹が痛くて」
少しきょとんとした様な顔をした後……シャロンは得心いった様に一つ頷いた。どうやら体調が悪いという言い訳が通ったらしいという事を悟って、ヘンリエッタは内心ほっと胸を撫でおろす心地でいた。
「……分かりました。分かってはいると思いますが、外に出てはいけませんよ」
「ええ、重々承知してますよ。……あ、もう一つだけ」
じっと、ヘンリエッタがシャロンの方を見つめる。
「マリーの、マージェリーの護衛だった方は、今も息災ですか?」
「護衛? そんな方がいるという事は存じませんが……」
「……そうでしたか。変なことを伺って済みません」
軽く一礼して、ヘンリエッタが礼拝堂を出る。シャロンの視界から外れたところで、彼女は階段の方へと駆け出して、一目散に階段を上り始めた。
向かう先はただ一つ。修道院の中にある書写室である。
礼拝堂と同じくどの修道院にも必ず在る設備の一つに、書写室と呼ばれるものがある。単純至極、ひたすらに書写を行う。この部屋で行うのはただそれだけである。
――あいつらでも、書写室には大して注意を払っていないでしょう。教会から見れば写しの紙なんて、ただの暇潰しの残り
宗派にもよるが、太陽教において忌むべきものの一つに「空白」がある。
空いた時間があるから罪に誘われ、空いた心があるから罪に堕ちる。
故に敬虔な信徒ほど、一日に使える全ての時間を何かで埋めたがる。一般的なのは祈りと労働、それも適わない事情がある際に時間を埋めるのが書写である。
書写するものは聖典である『太陽の書』や、聖女の使徒達が記した『言行録』、法皇や聖人の遺した手記等が多い。しかし実情としては文字を書き写せるものであれば何でもひたすらに写すことが多く、貴賤を問わず様々な文献を当たることができる。
図書館の司書が行う主な業務は、資料の探索と管理。取り分け探索において、修道院の書写室はまず当たるべき宝の山である。
「ここは緑の歌うたいの教会。何か記録の写しが必ずある筈……」
書写室へ着くや否や、ヘンリエッタは真っ先に白紙本を片端から捲り始める。
教会が特注した白紙本に、信徒はひたすら何かの本を書き写す。記録が混じらないように、移すのは原本一冊につき白紙本一冊と決まっている。
故に資料を探すことは、腕利きの司書であればさほど難しくもない。
「やはり歌に関するものが多いわね。聖歌隊らしいと言えば聖歌隊らしいけど……
ぴたりと、ページをめくるヘンリエッタの指が止まる。
書写台の上に在った、書きかけの白紙本。そこからとある単語を見つけたその時に、彼女の全身を稲妻の様な何かが駆け巡った。
「聖者の……遺体……?」
視界に入ったその単語を、うわ言の様にヘンリエッタが呟く。
聖者の遺体。信仰篤くその身に奇蹟を宿した聖人の亡骸は、死後も腐ることなくその一部が遺ることがある。一般的に
ここで述べられているのは、原初の聖人の一人であるメトジウスの遺体についてであった。神罰と祝福の体現者、癒しと罰を併せた奇蹟の体現者。彼の遺体は死後に四つの不朽体となり、世界にとっての至宝となっている。
――聖者の遺体についての記録がここに残っているということは、聖者の遺体に関する何かを緑の歌うたいは握っていたということ……? 原本はどこ?
白紙本を閉じ、今度は書架へとヘンリエッタが目を移す。
本には鎖が付けられており、持ち出すことは適わない。直に本へと触れながら、迅速かつ正確に、ヘンリエッタは目を走らせて写しの元になった本を探し始めた。
「伝記、物語、思想書、論文……違う。私が知りたいのは……」
程なくして、ヘンリエッタの指は一冊の本の前で止まった。
彼女が見つけたのは、太陽教会の中央管財課の記録の写本。
八年前から今年までの、教会が認識或るいは保有する聖遺物についての記録が揃えられていた。表紙には白陽金十字の印が捺してあり、認可を受けた正式な写本であることを示している。
「……
素早く読み込み、絶えずページを捲りながら、ヘンリエッタがその記録を読み込んでいく。
ただの聖歌隊がこのような記録を欲しがる自然な理由は見当たらない。気づいてしまえば誰が見ても怪しいほどに、その蔵書は不審だった。
何よりヘンリエッタが不審に感じたのは、それが八年前から今までの記録という点だった。
「聖者の遺体は左が罰を、右が祝福を示しているのね。
右足は聖帝国のイル・ソレイユ大聖堂が不朽体として祭壇に祀っていて、左足は王国の
ある一文を目にしたところで、ヘンリエッタはページを捲る指を止めてきゅっと目を細める。読むスピードは殆ど捲っているだけに見える様に早いが、その実ただの一語たりとも見逃さないほどに正確に文章を把握していた。
彼女の目に留まったのは、聖メトジウスの左腕にあたる不朽体の記述だった。
聖帝国には既に無い右腕や左足に関してすら詳細に記述があるにも関わらず、左腕に関する描写だけがごっそりと抜け落ちている。
中には説明ではなくほんの一語だけ登場している文章であっても、左腕の下りだけは全て抜け落ちているものもあった。通常写本であっても、こうした妙な脱字は行わないものである。
――……
意識的欠字とは、古い物語や歴史書などに見られる、書き漏らしではなく意図的に筆者がその箇所を書いていない部分のことである。
実在する貴族などの沽券に関わるため具体的な名前が出せない場合や、単純に作者が名前や地名を忘れてしまい後で書こうと空けたままになった場合などが見られる。
これが古典の物語作品であれば大して気にも留めないのだが、これは写しとはいえ正式な教会本部の資料である。そんな意識的欠字など許される筈も無い。
そして聖メトジウスの記録も抜けていることがマージェリーの護衛に関係していることは、ここまで知ればヘンリエッタの中で容易に結びつけられた。
「……なるほど。想像の域は出ないけれど、聖者の遺体をマリーの護衛は持っていたのね。それほどの奇蹟を有した聖者なら、なるほどお兄様たちを屠ることも難しくないわ。お父様が護衛に頼んだくらいなのだから、相当な手練れだった筈……」
ぱたん、とヘンリエッタが本を閉じて元に戻す。ここで調べることは既に全て調べ終えた、と彼女は確信していた。
――教会の暴力装置と言えば、ほぼ間違いなく
既に三十分は経っている。早く戻らねば流石にシャロンにも怪しまれるだろう。早足で階段を下りながら、ヘンリエッタはシャロンの元へと急ぎ向かった。
――でも解せない。ユークリッドは魔女の末裔、魔女狩りの異端審問官を招くのはどうにも繋がらないわ。護衛本人はマリーについて行きたがるでしょうけど、ユークリッド本人が気に入る筈も無し……となれば何か思惑があって、敢えて腹の中へと受け入れた……?
「……なるほど、目当ては左腕の方だったのね。その奇蹟を秘匿する為か、はたまた護衛諸共消してしまっただけか……とにかくユークリッドは聖者の左腕と護衛を人の記憶から隠してしまった。押えていたモノに手出しできないよう手を加えたって事は、企みはもう大詰めと見ていいのかしら」
階段を降り切り、ヘンリエッタが天井を見上げる。
彼女が考えた可能性は二つ。
記憶ではなくこちらの認識が阻害されており、特定の情報だけを認めることができなくなっていること。
もう一つは、何らかの手段によって「マージェリー・ミケルセンの護衛」と「聖メトジウスの左腕」にまつわる全てがこの世界から丸ごと消失している。
どちらにせよ一人の魔術師ができる規模ではないのだが、
――認識阻害にせよ意味消失にせよ、わざわざ隠して置くという事は、大詰めでありながら手出しをされると非常に危うくなる
〈――よく聞け、女ども。おれはユークリッド・【ヴェール】・ビリティス、新たな世界を創る者だ〉
――新たな世界を、創る……?
ぱちんと音を立てる様にして、ヘンリエッタの頭脳で何かが弾ける。
「……成程。だからマリーと婚約したのね魔法使い……!」
見えない程に遠くに在るユークリッドを睨み、ヘンリエッタは呟いた。
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