祈りの伏魔殿(vs.シャロン・アビゲイル・バロウズ)

第三十話 呪いの子①

 ヒアキントゥスの祝祭の日のために、

 あの人が私にくれたのは、パンの笛。

 上手に削った葦で出来ていて

 白蠟で筒々が結び付けられ、

 唇に当てれば、蜜のように甘い。


 あの人は吹き方を教えてくれる

 彼の膝に座りながら、

 私はすこしふるえている。

 私が吹いたあと、あの人がそっと吹く、

 聴き取れないほどに。


 私たちはほとんど喋らない、

 お互いに寄り添っているから。

 だけど、私たちの歌は交わしあいたがっている。

 そして交互に、私たちの口は

 笛の上でむすばれる。

(『ビリティスの唄』第一部より――)



「ぐぅ……ぅ……!」


 クリフ達の敗北から一両日後。黄の聖帝国、ミケルセン邸の一室。


 頭を抱えてのたうち回りながら、ユークリッドが悶える。


 脳が砕けそうな頭痛の中で、彼の頭の中では様々な思い出が絶えずフラッシュバックしていた。彼の記憶の大半は、母親との日々によって占められている。


「違う……違う……! かあさんは、おれの母さんは魔女で、あの日魔女狩り部隊イノケンティウスに……!」


〈――?〉


 ノエルの言葉が脳に響く度に、記憶の母にはノイズが混じる。


 幼い時に、麦畑で自分へ微笑んでくれた母の顔。


 魔術師学院へ合格した際に、誰よりも喜んでくれた母の顔。


 そして魔女狩り達に囚われ、首をねられる寸前に見せた……哀しい筈の母の顔。


 そんな最期の表情さえも、もやがかった様に思い出す事が出来ない。


〈――?〉


 言葉には呪いが宿る。どんな言葉も聞き手の心をむしばめば、それはたちまち呪いと成る。それは魔術よりももっと原始的な、誰もが持ち得る言葉の力。


 ユークリッドに倒される寸前、ノエルは彼へと意図的に呪いを掛けた。


 魔王の呪いによって顕在化した、ユークリッドの異変。


 しかしそれは、ノエルの言葉だけで起こったものでは無い。彼女の言葉はあくまでも、異変を後押しして加速させているだけである。


 異変の端緒は、他ならぬ聖女の炎である。


 聖女の炎は、あらゆる邪悪を否定する。


 魔にまつわる力、呪い、憎悪、殺意、異教、罪科。


 魔王や教会への憎悪を絶えず抱えているユークリッドには、力を使えば必ず反動リバウンドが来るようになっている。少なくとも彼はそう理解していた。


 ましてユークリッド・【ヴェール】・ビリティスは偽典の魔女ビリティスの末裔。例え憎悪が無くとも、本来ユークリッドとは致命的に相性が悪い。


 先の大戦で聖女の権能を行使できるようになった時から、戦う時にはいつもこの発作にユークリッドは悩まされていた。


〈――?〉


「塗り潰せ、塗り潰せ、塗り潰せ、頭の中を、母さんで塗り潰さないと……!」


 激痛の中でユークリッドがふらふらと立ち上がり、べたべたとあちこちに触れながら手探りで何かを探す。


 やがて彼の手が何かの瓶に当たり、倒れた瓶から丸いものがざっと零れる。それは白い色をした、幾つもの小さな丸薬だった。溢れた丸薬をユークリッドが乱雑に掴み取り、口いっぱいに放り込んで咀嚼し、ひと息に飲み下す。


「ふぅーーーーーーー…………」


 暫くすると血管の中に氷をぶち込んだ様な刺激が脳内を駆け巡り、ユークリッドを蝕んでいた激痛は嘘のようにすっと引いた。


 一瞬強い酩酊感が身体を突き刺し、遠い音楽の様な響きが意識を巡り気分を高揚させていく。


 苦痛に歪んでいたユークリッドの顔が穏やかになり、机に突っ伏して浅く乱れた呼吸を繰り返し始めた。


「ふぅっ、ふぅっ、ふぅー……はっ、はっ、は……」


 戦時中に典薬司くすりのつかさが開発した精神刺激剤。


 脳内の分泌物の取り込みを阻害することで、脳を刺激して強い覚醒効果を発揮する。気分の高揚などをもたらし、戦時中は兵士の恐怖心を消す為に大量に出回った。


 しかし強い依存性があり、大量に服用することで心臓に甚大な負担をかける。薬ではあるがそれ以上に強い毒であることから、この薬は現在教会によって規制が掛けられている。


 痛みとフラッシュバックが収まると、穏やかになった頭の中で次々に思考が駆け巡り始めた。


 兎にも角にも、魔王はすぐにころさなければならない。


 ――さて、気は進まないが勝つためには仕方が無い……。


 息が整ったユークリッドが額の汗を拭い、机の隅に設置してある水晶へと手を翳して魔力を通した。魔力のかよった水晶は淡く発光し、細かく震えた。


 暫くすると水晶にこの屋敷ではないどこかの部屋の風景が映り、一拍置いて誰かが水晶を覗き込むのが見えた。


「……貴様からの報せは良くない兆しだな、魔法使い」


「おやおや、随分と手厳しいじゃないか。は」


 水晶に映ったのは、右目に黒い革製の眼帯を当てた細身の女だった。


 女は軍用の無骨な深紅のコートを羽織り、背には身の丈ほどもある長大なマスケット銃を背負っている。


 右手から首元にかけて幾つもの刺青が彫られ、胸元には大きな傷跡があった。ナイフで切れ込みを入れた様な切れ長の左目には光の淡い灰色の瞳がまっており、数多の命を奪った者だけが持つ冷たい輝きを確かに放っている。


 イシュタリア・バックアロウ・ノクチルカ。


 ユークリッドと同じく魔王を倒した勇者の一角であり、赤の大公領における現在の最大戦力の一つである。


「それで? 魔王を討ち、悲劇の根源を断ち、今や教会の最大戦力と成った貴様が、私程度に如何なる用向きなのかな」


「……いいや、


「……何だと?」


 すう、とイシュタリアの目が糸の様に細められる。それは見つめるものを決して逃がさない、殺人者というよりも狩人と呼ぶ方が正しい様な目だった。


 魔王ノエルは討たれた。ユークリッドによって城の結界を破られ、イースとクラリスによって手勢を討たれ、イシュタリアによって不可侵領域アイギスを破られ、アルフレッドによって心臓を貫かれた。


 あの時確かに、魔王ノエルの身体は千々に千切れて蕩けた筈である。


 イシュタリアからすれば、ユークリッドの言葉は到底信じられないものだった。

 

「黄の聖帝国東方の礼拝堂、フリーデ・カレンベルクの向かった先に奴はいた。随分と、あれは間違いなく魔王……ノエル・【ノワール】・アストライアだった。直に見たから間違いない」


「それで、首尾は」


「土壇場で邪魔が入ってね、お供のイヌ共々取り逃がしてしまった」


「ふん、無様だな。大方おおかたハイネ辺りが横槍を入れたんだろう。だから貴様では手綱を取れんと言ったのだ、私でなければあいつは飼えん」


「…………」


「それで、イヌは誰のことだ。魔族か」


「……まずはおれの話を聞けよ。おれは何も、女神様のありがたい厭味を賜る為に水晶を繋げた訳じゃないんだからな」


「そうか、なら本題へ移れ。私とて、それほど暇な訳では無いのだからな」


「――聖女の血を、ありたけ持ってこい。ノエルはここで討つ」


「…………」


 勇者であれば当然の言葉。イシュタリアとて、それが理解できない筈は無い。


 しかしその時、ほんの一拍ほどではあるが、彼女の言葉は止まった。


「……貴様には十分な量のがあった筈だが」


「血は残っていない。先に戦った時に使い切ってしまった。聖女の血が最低でも後一リットルは必要だ、早く持って来させろ」


「ククッ、クハハハハッ! この私に、貴様の尻を拭えと言うのか! お嬢様の骨身を削って、貴様の恥を雪げと!?」


「……何だと?」


可笑おかしい可笑しい、ちゃんちゃら可笑しな話だな魔法使い! いつからそんなに無様になったんだ? ?」


「……口を慎めよ。今おれは


「ならばお前が直々に取りに来ればいいだろう。


 ユークリッドとイシュタリア、二人にそれぞれ殺気が走る。


 勇者とは、あくまでも魔王を打倒したに過ぎない。強い絆で結託した仲間でも無ければ、一蓮托生の家族でもない。まして友達ですら無い。


 理由があれば互いに殺し合うことも、全く躊躇なく行うことができる。


 それでもユークリッドがわざわざ同じ勇者……それも最も血気盛んなイシュタリアへと連絡を取ったのには理由があった。


 魔王を斃す為には、どうあっても聖女の権能ちからが必要である。


「兎に角、だ。聖女の血が尽きた今、貴様ではもう魔王を殺せまい。どれだけ優れた魔術や魔法でも、あの無限に近い命を殺し切ることは出来ないからな。


 貴様の魔法であっても、奴をすことはできなかったことだし」


「【存在ウーシア】は未だ万能のすべじゃない。存在の輪郭を掴み切れないものは完全には御せないんだ。ハイネやノエルの様なイレギュラーは、精々少しの間消しておくのが限界さ。悔しいけどね」


「ふん、随分と素直じゃないか。謙虚は美徳だぞ?」


 イシュタリアが水晶をとんとんと突き、ユークリッドが僅かに唇を噛む。


 彼女の言葉の通り、聖女の炎が無ければユークリッドは魔王を滅ぼすことは出来ない。今の交渉の流れでは、ユークリッドは圧倒的に不利だった。如何なる要求も、彼はイシュタリアに吞ませられない。呑ませるだけの材料が無い。


「仕留めることは期待していない、魔王を大公領まで釣り出せ。


 ――ハッタリや出まかせじゃない、というところが恐ろしいね。


 ユークリッドの背中に、冷たい汗がひと筋伝う。


 聖女の炎を用いても、不可侵領域アイギスを破ることは容易くない。


アルフレッドやユークリッドであっても、不可侵領域アイギスの前では魔王に触れることさえ適わなかった。その不可侵領域アイギスのが、イシュタリアである。


 例えアルフレッドでなくとも、イシュタリアであれば言葉の通り一撃で魔王を殺すことができるのだろう。彼女の言葉に嘘は無い。


「いや、恐ろしい恐ろしい。流石は鉄血の女神様だ。さながら怪物、といったところだね」


 でも、とユークリッドが言葉を継ぐ。ここからが本題、彼の用意した本当の交渉材料の提示だった。


「どこまで行ってもお前は、イシュタリア・バックアロウ・ノクチルカ。今や魔道に落ちて彷徨う、可愛い


「……弟分、と言ったか。私に弟と呼べる相手はもういない……いなくなってしまった。?」


、赤の大公領筆頭戦士にして、『太陽の聖女』コーネリア・ザカリアヴナ・ベアトリーチェが護衛、イシュタリア。

 魔王の前では、死人も目を醒ます。今の彼を君に見せるのは……とてもとても、哀れでならないねぇ」


「…………まさか」


「赤の大公領『緋色の戦斧』元隊長、三国連合トライデント極光山脈征伐隊『竜胆ジャンシアヌ』総隊長、第一次魔界征伐戦における英雄が一人……そして君の義理の弟にあたる人物で、聖女様の想い人でもあったかな、彼は」


 にやりと、ユークリッドが口元だけで嗤う。


「クリフォード・フォン・ノクチルカ。それがノエル・【ノワール】・アストライアが飼う、ただ一頭の狗さ」


「――そうか。そうか。そうだったか!

 亡骸が無いと思えば、そう云うことだったのか……! 魔王め……!」


 びき、とイシュタリアの水晶にひと筋ヒビが入る。牙を剥いて激昂するイシュタリアの顔はさながら悪鬼の様で、拳を握って怒りに震える姿は夜叉の様であった。


 やがて湧き上がる怒りを内側へと収めたイシュタリアが、ゆっくりと唇を開く。


「――事情が変わった、血は私の分を分けてやる。ニケに運ばせるから、二日もあればそちらへ着くだろう。その代わり……」


 ぎろりと、イシュタリアが水晶を睨む。水晶には幾つものヒビが走り、亀裂によって硝子が崩壊し始めた。


「クリフだけは、弟だけは生きたまま私のところへ連れて来い」


 その言葉を最後に、水晶は完全に砕けた。同時にユークリッドの水晶も砕け、思わず彼は一歩後ろへ退いた。


「……っと、危ない危ない……。相変わらず世界一怖い女だよ」


 ――だが、最優先事項プライオリティは取り敢えず抑えた。後は細かく手を詰めていくだけ……。


 ローブを正して、ユークリッドが部屋を出る。部屋の外には痩せた一人の男が控えていた。


 彼の名はバンコー・アウグスティヌス。『緑の歌うたい』第八席にして、ユークリッドの侍従を務める者である。


 彼の控える廊下の石壁には、何やら古代文字の様なものがびっしりと刻み込まれていた。それはミケルセン家本邸を抑えた後で、ユークリッドが第一席のシャロンに彫らせた神聖文字ヒエロス。今やこの邸宅は、一つの神殿として完成しつつある。


おれの小鳥マージェリーは」


肉体うつわの方は大事ありません。ただ少し、反抗的に過ぎるところがありまして」


「今はどこに」


「五回ほど脱走を企てましたので、地下のお部屋に」


「他の家族は」


「奥方は三階に、娘二人は一階の客間へ、それぞれ軟禁してございます。彼女らに魔術は殆ど使えませんので、脅威にはなり得ないと思いますが」


「……念の為、見張りは増やしておけ。今が大事な時期なんだ」


 ユークリッドが廊下の石壁に手を付けると、辺りにさっと魔力が走り、一瞬だけ青空の様なものが見えた。走った魔力が途絶えると、そこは再びただの石壁に戻る。


 新しい世界を、魔女ははの赦される世界を生み出すという彼の願望は、今や九分九厘のところまで成就しつつあった。


「――戦の支度を進めるぞ。二日後、魔王を迎え撃つ」


 クリフとノエルは、必ず邸宅ここへ現れる。


 その予感とも確信ともつかない何かが、今のユークリッドを動かしていた。

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