第二十九話 不死(しなず)の獣

「……いけないねぇ。人の獲物に手を出すたァ、死にたい悩みでもあるのかい?」


「…………ハイネェ……!」


 びき、とユークリッドのこめかみに青筋が走る。


 噴き出した血で素早く首の肌へ何かを書き込むと、緑の魔力が走って瞬く間に破れた喉が塞がった。


 神聖文字ヒエロス。マージェリーがフリーデとの戦いの中で披露した、刻印魔術の祖。


 本来ユークリッドの専門は、現代魔術ではなく古典魔術にある。世界の生まれた神代を探求する学徒として、彼は創世にまつわるあらゆるものを集め続けていた。


 魂を物質へと通すテッサリーニ家の秘奥。世界を開闢する聖者の左腕セファ・ガズラ。そして神代から続く妖精種エルフの魂を継ぐ少女も、彼の集めたの一つである。


 神聖文字ヒエロス程度、世界最高の魔術師たるユークリッドが扱えない筈もない。


「このが……! あと一歩のところでおれを邪魔する罪深さ、知らない筈があるまい!」


 ユークリッドが両手を合わせると、彼の姿が無数に増殖を始める。


 数は一つの力である。非力な奴隷も五人集まれば屈強な戦士を倒す。


 そして数の有利を占めるのは、非力な奴隷ではなく世界最高の魔術師にして魔法使い、そして勇者である。


 最高の一が百となる。シンプルではあるが、これほど恐ろしくも圧倒的な状況は中々無いだろう。


 しかしユークリッドは一つだけ、あることを見落としていた。


「ふぅーーーーーーー…………」


 ハイネが瞼を閉じ、深く息を吐き出す。


 じっと動かないハイネへと、ユークリッド達の手が伸びる。


 彼の魔法は【存在】。条件が揃えばハイネを無防備な中空へと放り出す事も、問答無用で存在そのものを消してしまうことも意のままとなる。


 そして己の存在を個体から群体へと定義し直して増殖を続けるユークリッドならば、その条件を満たすのは容易い。


 ――さあ、立ちどころに消してみせるぞ。ケダモノ!


「……【末那識マナシキ】」


 その時ユークリッド達の捉えた感覚は、僅かに聞こえたひと言だけ。


 声のした次の瞬間には、真後ろにいたユークリッドの顎が下から伸びた裏拳によって粉々に打ち砕かれた。


 殆ど同時にしか見えない時間差で大上段への回し蹴りが別のユークリッドの首をへし折り、跳び上がっての鉄槌の様な肘打ちが三体目のユークリッドの頭蓋を砕いた。


「ヤーングレイブル!」


 ハイネの叫びと共に鋼鉄の腕は六本に増え、溢れた魔力が雷を帯びる。


 着地と同時に水平に突き出された両腕から雷が迸り、近くにいたユークリッド達の身体を残らず焼き尽くした。


 、認識不可能の連撃。


 末那識マナシキ。張り詰め尽くした集中と磨き上げた洞察力によって、相手の視線と動きを全て読み取って死角から防御不可能の連撃を叩き込む技。


 喰らえばさながら無意識の中で眠りこむ様に、攻撃されたことすら認識できないまま地を舐めることになる。


 クリフの様な近接戦闘の達人から不意を突くことは相当に難しくなるが、相手は幾ら増えても魔術師。不意を突くことは難しくない。


 そして何より重要なことだが……。彼が何をしでかすつもりなのか、何をされれば困るのか、彼女は十全に理解していた。


 ――チッ、敵に回ると厄介この上ない!


 瞬く間に群体となった自らを退けたハイネに、ユークリッドが歯嚙みして舌打ちする。


 死んでいた筈の彼女が蘇生する、という事自体は彼も知っていた。それは彼女が戦場を這いずる肉食獣である理由と大きく関係している。


 だが彼の魔法は【存在】。どれだけ戦闘に長けた相手であっても関係なく強制的に消滅させられる。


 また、自らの存在そのものを希薄にしてしまえばハイネの最強の技である【雷霆】であっても無傷で乗り切ることが可能である。十全に魔法が働けば、ハイネであってもまるで相手にならない。


 ……十全に魔法が働けば、だが。


「……知らない訳じゃないだろう?


 クリフとノエルを担いでユークリッドから離れたところへと放り、ハイネがユークリッドの方へと振り返る。


 背を見せていても、勇者ですら手を迂闊に出せない殺気。指一本でも動かせば即座に殺すと、ハイネの全身は語っている。


 伊達や酔狂で邪魔立てした訳ではないということを、その時ユークリッドは理解した。


 彼が見落としていた、たった一つの綻び。


 それは、だった。


「それに、死に損ないとはご挨拶じゃないか。アタシがどうして死に損なっているのか、どうしてそこの男に執着するのか……知らない訳じゃないだろう?」


彷徨者カルタフィリスめ……!」


 ユークリッドの言葉にハイネが大きく目を剥いて牙を見せ、肩口から血が噴き出す。


 彷徨者カルタフィリス。平原歩き、ほむら宿やどりなどとも呼ばれるごく希少なである。


 ノエルなどの不死者ノスフェラトゥとは異なり、彷徨者カルタフィリスは傷の即時再生はできない。ハイネとてクリフに斬られれば普通に死ぬ。……が、


 死んだ瞬間に聖女の祝福が働き、消えた命を冥界から強制的に連れ戻す。致命傷であっても数日で元に戻り、毒物や現代の呪いに対しても耐性がある。そして寿命も存在しないので老化で死ぬこともない。


 ざっと二百年。それがハイネの生きてきた、否、歳月である。


 望むと望まざるに関わらず、自分が死に切ることは永劫叶わない。


 ……クリフと出会った今日この日まで、彼女はそう思っていた。


「【存在ウーシア】。自分や相手の存在の力を操る力。人やものを自在に移動させ、自在に消すこともできるんだったな」


 一歩、二歩、三歩。


 揺ぎなく歩いているように見えるハイネの口元から、三歩目で血が伝った。


 ハイネは不死者ノスフェラトゥに非ず。クリフとの戦いで負った致命傷はまだ残っている。


 末那識マナシキの様な激しい動きを行えば、無理を通すツケは必ず身体へ支払われる。一見優勢に見えるが、ハイネが戦える時間はそう残っていなかった。


 ……だがそれでも、ハイネの目に敗北の二字は見えない。


「アンタとは一度手合わせしているし、何度か戦う姿も見ている。疲れ切ったクリフと同じにするなよ」


「ほざけ――」


 互いに一瞬で手が届く至近距離。


 素早く伸ばされたユークリッドの手をかいくぐって、ハイネの手が彼の側頭を捕らえた。


「――【山紫水明さんしすいめい】」


 とん、と優しく乗せられた手。一拍置いてぐるりとハイネの腰が捻られ、遅れてやって来た衝撃がユークリッドの脳を揺さぶった。


「か……!」


 糸の切れた人形の様に、ユークリッドの手足から力が抜けてかくかくと揺れる。


 脳が揺さぶられることにより、身体は一時的な機能障害エラーを起こす。拳や手刀で顎を揺らすことによる方法が有名だが、古武術の中には身体ののエネルギーを活用して衝撃だけを脳に伝える技術がある。


 赤の体術、やわらが四【山紫水明さんしすいめい】。


 赤の大公領の人間が用いる、である。ハイネはこの技を、イシュタリアから受けたことにより習得していた。


 力の抜けたユークリッドの身体をハイネが地面へと叩き付け、素早く両手を膝や左手で押さえ付けた。


 ユークリッドの魔法【存在ウーシア】。発動すれば無敵になる能力も、発動しなければ大した意味は無い。


「他人の存在を操るための条件は、五感のうち四つ以上で相手を認識すること。

 見て、聞いて、嗅いで、触って、味わう。その中で最も大切なのは。触れて相手の存在を自分の中で確定させなきゃ、操るなんて出来はしない。

 、あるか無いか分からないものは好きにできないもんなぁ?」


「ぐっ――!」


「……悪いが、アタシも深手を負っていてね。指が震えて手加減ができないんだ」


 ハイネがユークリッドの頭へと右手を掛け、ゆっくりと力を込めていく。


 万力の様な締め付けに頭蓋がみしみしと悲鳴を上げ、ユークリッドが歯を食いしばる。


「予備動作無しで存在を操れるのは自分の肉体とモノだけだろう。操るためには直に触れる必要がある。早く脱出しないと頭が潰れるぞ」


「……手を引けと言うのか、この俺に」


「クリフと魔族のお嬢ちゃんは置いて行って貰うぜ。マージェリーは好きにしなよ」


「…………厭だと言ったら?」


「頭を潰す。できなければマージェリーの腹から下を潰す。


「…………」


 絶えず続く鈍痛の中で、ユークリッドは思考を巡らせる。


 非常に癪ではあるが、今の距離レンジではハイネを仕留めることはできない。


 脱出自体は容易いが、一度脱出してしまえばもうユークリッドには逃走以外の選択肢が残されていない。手に入れたもの全てをかなぐり捨てて、脱兎のごとく拠点へと駆け戻らねばならない。そうしなければ今度こそ、命を獲られかねない。


 だが、ユークリッドが失うのは現在全てではない。ハイネの譲歩によって、マージェリーだけは持っていくことができる。


 当初の目的は達成できる。だがこの場で見つけた大きな獲得物トロフィーであるクリフとノエルは諦めなければならない。


 余分な欲をかかずに立ち去れ。ハイネの交渉の内容は、概ねこの様な意味を含んだものだった。


 ……ただし、立ち去らなければ待っているのは獣による蹂躙と死だけだが。


「分かった、今は下がろう。だが二度と教会の庇護は受けられぬと知れよ、肉食獣」


「あははっ、獣は野にあってこそだろう! それに教会では、アタシを殺すことができそうにないからねぇ。お前の魔法だって、アタシを消していられるのは数か月程度だろうしな」


「……恋は盲目だな」


「お前にゃ、言われたくないね」


 ひと際悔しそうな顔を見せて、ユークリッドがハイネの下から消える。


 出現した気配を感じ取ってハイネがそちらへと視線を向けると、ユークリッドがマージェリーを抱えて彼女の方を睨みつけていた。


「いいだろう。業腹ではあるけれど、この場は退いてやる。

 シャロンと共に神殿を作成しなければならないし、おれの小鳥にも準備がある。それまでに魔王と英雄の傷を癒し、戦えるようにしておけばいいさ」


 本気で殺すという目で、ユークリッドがハイネへと氷の様な視線を向ける。


 ハイネに邪魔された怒り、ノエルを殺せない屈辱、逃走を強いられる痛み。


 その全てが彼の怒りの沸点を遥かに越えさせ、却って冷静に思考を運ばせていた。


 怒りや焦りは彼の最大の欠点。感情が激しく乱れることにより見落とすものが次々に出てしまう。


 もしもあと一歩怒りの程度が低ければ、なりふり構わずノエルも奪いにかかっただろう。そうなればクリフ達が相手をするでもなく、ハイネがユークリッドを下していたかもしれない。……ハイネがあの傷で、次手も問題なく動けていればの話だが。


「心しろよ。クリフとノエルがおれに敗れ、新しい世界が産まれた暁には……誰よりも先にお前から殺してやる。魔女狩り共よりも、教会の信徒ブタ共よりも、他の勇者や有象無象共よりも先に、おれと母さんの世界の礎にしてやる」


「……で最初にやることが憂さ晴らしたぁ、実に小さい男だねぇ。神には程遠いぜユークリッド。

 まあ、アタシをしっかり殺せるならお前でもいいんだけどさ」


「ほざけ、ケダモノ」


 マージェリーを抱えたままきびすを返し、ユークリッドが姿を消す。


 十秒、二十秒……どれだけ待っても、彼の気配は現れない。


 彼が退いたことを確認して、大きく息を吐き出して……ハイネはどうと地面へ仰向けに倒れた。


 肩口から腿に掛けて泉の様に血が噴き出し、赤い湖は広がっていく。


 倒れたままの姿勢で首だけを動かして、ハイネはちらりとノエルの方を見た。


「はぁーー……これで一つ貸しだぜ、魔王様」


「うむ、大儀であったぞハイネ。マザコンのオモチャは御免こうむるからの」


「あははっ、そいつは違いないねぇ。でも勘違いすんなよ、お前の為じゃなくてそこの英雄、クリフの為なんだからな」


「分かっておるわい。……妾とて不死者ノスフェラトゥ、ぬしの気持ちも少しは分かろうぞ」


「それは嬉しいねぇ。アタシにとっての至上の幸せってのは、このうんざりするくらい長い命を終わらせることにあるからね」


 天に向かって、ハイネが静かに手を伸ばす。


 見上げた先に見えた太陽がちりと目を刺して、彼女は僅かに目を細めた。


「アタシは、戦って死にたい。戦いの中で、アタシより強い相手の前で死にたい。命のやり取りの快感を骨の髄まで刻んで、倒れる前に息絶えたい。そういう最期を迎えられたら、きっとアタシは幸せさ」


 視線をノエルからクリフの方へと移し、ハイネが微笑む。


 あの時感じた、クリフの一撃。


 ハイネであっても耐えきれない様な太古の呪いと、相手の肉体を確実に死へと至らしめる研ぎ澄まされた技術。


 あの時確かに、自分の命へと手が掛けられたのを彼女は感じた。彼はきっといつか……


「お前には期待しているよ、クリフ。その為に、今はアタシが助けてやるよ」


 懐をまさぐって刻印の刻まれた符を取り出して幾つも貼り付け、ハイネが自分の血を止める。


 よろよろと立ち上がると、ノエルを抱えてクリフを担ぎ上げ、ハイネは森の中へと向かって歩き始めた。


「やれやれ……本当に、世話が、焼けるねぇ……!」


 獣の消えた後には、ただ沈黙が残るだけ。


 何事も無かったかの様な静寂は、しかし何よりも雄弁にその場で起こった全てを物語っている。


 勇者ユークリッドと、ノエル達による戦いの前哨戦。


 前半となる戦いにおいて、三人の行く手は勇者によって阻まれた。

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