第二十八話 聖女の炎②

「さて、あの日の続きといこうか魔王様」


「チッ、口ほどにもない男じゃ。後で絶対に蹴とばす」


「責めちゃいけないよ。この力がどういうものなのか、君だって身を以て知っているだろう?」


 びたりと、ユークリッドがノエルを指さす。


 指先に緑の魔力が集まり、橙の炎を纏う。集まった魔力は急速に増幅されて圧縮され、その場に静止した。


 その過程には魔術には不可欠のもの、詠唱が全く介在しない。つまりこの球体は魔術によって為されたものでは無いということになる。


 ――ハイネの出しておった、【雷霆】に近いものじゃの。


 純粋な、それでいて精緻極まる魔力操作。それを体内ではなく体外で行っている。


 体内で練り上げた魔力を一方向へ全て撃ち出すハイネとの違いはそこにある。体外へ放出した魔力を一所へ静止させるなど、マージェリーであっても未だ出来ない領域である。


 世界最高の魔術師。家系の一代目にして魔術協会一位に君臨する男の才覚を以てすれば、奇蹟の様な芸当も容易くこなせる。


「さて、ではこちらから行かせて貰うよ」


 ぴたりと静止した光と炎の球体を、ぴんとユークリッドが弾く。


「――『陽光ソル


 放たれるのは、一条の陽光。


 限界まで圧縮された魔力と炎の束は、文字通りの一瞬でノエルの許へと届く。


 ぷつんとノエルの頬が切れ、つうと血が伝った。


 傷は塞がらない。あらゆる魔を祓う聖女の権能は、魔にまつわる


 魔力による治癒は阻害され、術式は和らげられる。普段であれば立ちどころに塞がるクリフやノエルの傷は撃ち込まれた相手の魔力が抜けるまで治らず、魔力や魔術による障壁は容易く破られる。


 太陽の聖女コーネリアの血に刻まれたこの権能が、血を摂取することによって他人へと譲渡できると判明したこと。それが魔界征伐の大きな転換点となった。


「全く、いつもいつも癪な権能じゃの。クリフが奪還したら一回くらいはってもいいじゃろ」


「……うん?」


 ノエルの頬から滴る血を見て、ユークリッドの口角がさらに上がる。


「……おや? おやおやおや?」


 ユークリッドの姿が消え、ノエルの眼前へと出現する。


 いつでも手をかけて触れられる様な距離。しかし猶も、ノエルは動こうとはしなかった。


 ちらりとどこかへ一瞬だけ目を向けて、ノエルがほうをため息を吐く。その一瞬の動きをユークリッドは見逃さなかったが、彼がその動きに何かすることは無かった。


 魔王の命に、今度こそ手が届く。今この状況で、それ以外には何も頭に入りはしないのだから。


「【不可侵領域アイギス】はどうしたんだい? 君の最大の盾は、勇者であっても破ることは難かったあの領域をどうしてしまったんだい?」


「…………」


 不可侵領域アイギス


 魔王ノエル・【ノワール】・アストライアが持つ最大の防御手段。自分を中心とした半径三キュビット(※約一メートル)に立ち入ろうとするあらゆるものを拒絶する不可視の領域。


 入ることを許されないものは、人であれ魔族であれ、魔力であれ物質であれ、絶えず自分へ降り注ぐ雨粒の一つ一つに至るまで……全てが静止し拒絶される。


 世界最高の魔術師にして魔法使いであるユークリッドであっても、この領域は創り出せない。


 不可侵領域アイギスは魔術に非ず。魔王だけが持つ【支配】の魔法があればこそ為せる芸当である。


 ユークリッドが最も警戒していた能力の一つであったが、今のノエルはその領域を展開していない。


 ……否、という事実を、その時ユークリッドは悟っていた。


「……ふぅん。つまり今の君は本当にという訳だ」


 ユークリッドの手が伸び、ノエルの小さな喉を掴む。


 小さく軽いノエルの身体は容易く持ち上がり、二人の視線は対等に重なった。


 目線は同じ。しかしその状況は絶望的に……ユークリッドの方へと傾いている様に見える。


「盾は出せない、矛も出せない、とどめに頼みの猟犬がこのザマでは打つ手もないだろう」


 ユークリッドの手から、橙色の炎が立ち上る。


 聖女コーネリアの権能は、今や完全にノエルの身体を捉えていた。


「チェックメイト、ようやくお前の命に届いたぞ」


「……妾に触れるその不敬、一度ひとたびまでなら許してやろう。今すぐ手を離せ、偽典」


「お前がおれを蔑むか……! おれの刻んだ家名の意を、魔王のお前が知らぬ筈はあるまい!」


 ぎり、と歯を食いしばり、ユークリッドがノエルを睨みつける。


 それまでただ表情の真似事だけを浮かべていたユークリッドの顔に、始めて素の表情が浮かべられたのをノエルは見た。


 純然たる怨み。魔女を生み、自らを呪いの只中に突き落とし、今なお蔑みの目を向ける魔王へのどす黒い怨みだけが顔に浮かべられていた。


「魔王、ノエル・【ノワール】・アストライア。殺す前に聞きたい言葉がある」


「ぬしに掛けて遣る言葉など無い、穢らしい手を離せ。三度は言わぬぞ」


「魔女を生んだこと、魔女を穢したこと、……その全てを認めて謝罪しろ。ひたいを地面にこすり付け、有らん限りの詫びの言葉を並べて、その首落として償うんだ」


「…………魔女、か。レヴ、ビリティス、カンパネラ。実に懐かしい名よ」


 目を細め、ノエルがくつくつと嗤う。


 この世の全てを見下し、蔑み、嘲笑う様な、腹の底から相手の神経を逆撫でする嗤いが、彼女の口の端から漏れ出ていた。


 後悔や償いなどというものは、ノエルの心のどこにも見当たらない。


「ユークリッド・【ヴェール】・。生憎じゃが、妾はぬしらへ詫びる言葉に持ち合わせが無くての」


「……何?」


「哀れじゃの、ビリティスの子。これほどまでに母を想うても、ぬしに母の愛が届くことは永劫叶わぬ」


「……言葉を慎めよ、搾りかす」


 心の揺らぎを表す様に、ユークリッドの手で聖女の炎がちらつく。そんな彼の心を見透かしたように、益々愉しくノエルは謡う。


「そもそもぬし、魔女狩りとは何ぞや心得ておるのかえ?

 魔女狩りとは魔女を摘む者に非ず、じゃ。ぬしは魔女が何か、実のところ何も知らんじゃろう。

 魔女とは何か、偽典とは何か、ビリティスが何か……子であるぬしは何も知らぬ」


「……黙れよ」


「哀れよなぁ。妾を殺せども母は戻って来ず、魔女狩り共を滅せども母の思い出は返って来ぬ。底の開いた器で水を汲むが如き虚しさよ」


 ユークリッドの胸を、ノエルがとんとんと爪で叩く。


「ほれ、自分の胸へと問うてみよ。己の戦う理由を、人を捨てて獣となった日のことを、新たなる世界の創世などという日のことを」


 糸の様に目を細め、目いっぱい口角を上げ、ノエルがユークリッドを嗤う。


 それはこの世の全てを下に見て嘲る様な、相手を底の底まで憐れむ様な、傲岸不遜極まりない魔王の嘲笑だった。


 律動を刻みながら勇者の心臓を叩き、魔王が問いかける。


?」


「黙れぇええええええッッッッッ!」


 絶叫と共に、魔力と炎の束がノエルの喉を射貫く。


「がっ……!」


 ユークリッドの手を離れたノエルが、口と喉から赤い血を噴き出してのけぞる。


 次いで彼の顔に浮かんだのは、煮え滾る様な怒り。己の全てを嗤われた屈辱と、何が何でも必ず魔王を殺すという殺意に満ちた怒り。


「黙れっ! 黙れっ! 黙れっ! 黙れぇぇっっっ!」


 もはや整えられてすらいない、横殴りに叩きつけられる聖女の炎。


 ノエルの身体に次々と穴が開けられ、原型を留めていられなくなった腕や足が千切られていく。


 やがてユークリッドの全身から聖女の炎が消え、どれだけ手を翳しても炎は出なくなった。


 ――くそっ、よりによってこんなタイミングで弾切れかよ……!


 血が滲むまで拳を握りしめて、ユークリッドが舌打ちする。


「……おや? おやおやおや? まだ妾を滅しておらぬというのに、手を休めていいのかえ? 随分とんじゃのぅ」


「うるさい……! 畜生、あの聖女がもっと協力的ならば……!」


「かかか。聖女の血が尽きれば、ぬしとてただの蟲じゃのぅ。女に縋らねば母の仇一つ討てぬ、無力な虫けらじゃ」


「ほざけッッ!」


 自分のものではない、聖女から齎された借り物。身体に入れた血が尽きれば、権能を振るうことはできなくなる。


 今の状態では、ノエルを殺し切ることはできない。


 それまで精緻な魔力操作で無駄ロスを極限まで減らしていたユークリッドから怒りを引き出し、無駄に魔力を消費させることにより、ノエルは今この場限りで。聖女の魔力が身体から抜ければ、瞬く間に傷は完治してしまうことだろう。


 勝負の優劣だけを見れば、ユークリッドの圧勝と呼べるだろう。しかしノエルが不死者ノスフェラトゥであることを加味すれば、ノエルを殺せなくなったユークリッドの敗北であるとも言える。


 いずれにせよ、この場で魔王を完全に滅することができないという事実は、ユークリッドにとってこの上ない屈辱であった。


「ふーっ、ふーっ……嘗めた真似をしやがって……! だが忘れるなよ糞餓鬼。お前はおれが、必ず殺す」


 手足が千切れ、随分とノエルの髪を掴んで引きずりながら、ユークリッドがクリフの方へと歩く。


 クリフの上へと乱雑にノエルの身体を放り投げると、ユークリッドはひときわ大きな深呼吸を何度か繰り返し、自分の唇をしきりに触り始めた。


 暫く唇を弄っていると、やがてユークリッドの表情が元に戻っていき、少しむっとしている程度にまで表情は落ち着きを見せた。


 冷静さを取り戻しつつあっても、しかしユークリッドの中からノエルへの怨みが消えたわけではない。


「お前はまだ死なせない。おれの魔術拠点へ連れて行き、頭の先から足の先までゆっくりゆっくり時間を掛けて微塵に磨り潰してやる。

 お前の命が消えるまで、不死しなずの呪いが潰えるまで、お前が生まれてきたことを悔いて悔いて詫びるその日まで、たっぷりじっくり虐め抜いてやる。、必ずお前を地獄へ引きずり落とす」


「ぐ……」


 血の泡を口の端に浮かべながら、ノエルが目だけで何かを追う。彼女の瞳には何かが静かに動き始めるのが映っていた。


「クリフはおれの手駒にしよう。多少、この戦闘力は実に興味深い。調べてくれたバンコーには感謝しないとだな」


 ちらりと扉の方へと目を向け、ユークリッドがぱんと手を叩く。瞬時に彼の姿は消え、先程までの出来事が全て嘘だったかの様に静寂が訪れた。


 魔術とは異なり、知覚さえできれば世界のどこにでも魔法はその効力を発揮する。


 ユークリッドが自己の同一性を認識し続けていられる限り、ユークリッドは自分の存在する位置や数、強度を自由自在に操ることができる。そして一定の条件はあるが、他人や物体に対してもこの魔法は有効である。


 自分の存在を淡いものにすれば相手は触れたり捉えたりすることはできなくなり、位置を操れば知覚可能範囲なら動作無しでどこにでも出現する事ができる。


 世界を庭の様に捉えるユークリッドの鋭い感覚を以てすれば、壁一枚程度の隔たりなどまるで障害にならない。


 暫くすると扉が開き、耳をつんざく様なマージェリーの絶叫が辺りに響いた。


 マージェリーの許へと現れたユークリッドと、クリフ達の許へと現れたユークリッドは、同時に行動を起こしている。マージェリーがユークリッドと話している間に、クリフとノエルは別のユークリッド達によって倒されていた。


 ただ一人、されど大群。どこにもいない曖昧さと、どこにでもいる恐怖。誰が相手でも、何人が相手でも、ユークリッドの行く手は阻み難い。


 無敵であり、無敗。故に最強。


 マージェリーを抱えて聖堂から出てきたユークリッドの全身からは、揺らぐことの無い絶対的な自信が満ち溢れている。


「さあ、帰ろうかマージェリー。君の鳥籠へ、新たな世界を育むおれたちのしとねへ」


「…………」


「……おや、ちょっと刺激が強過ぎたかな」


 マージェリーの顔を覗き込んで、ユークリッドが微笑みらしきものを浮かべる。


 彼女の顔は憔悴し切り、虚ろになった目は死人の様に光を失って濁っている。


 フリーデを殺してしまったショックと、クリフ達を倒された絶望。彼女の心は既に限界以上に疲弊し傷ついていた。


 折れた心と濁った目では、これ以上何も反応は返ってこない。今やマージェリー・ミケルセンは、人と呼ぶより人形と呼ぶ方が相応しい姿となっていた。


 つまり、これ以上反抗しようとする心を彼女は完膚なきまでに叩き潰されたことになる。


 ノエル、クリフ、そしてマージェリー。三人の戦いは、今ここに終わろうとしている。


 ……ただし、この場にいるのは三人とユークリッドだけではない。


「多少のアクシデントはあったけど、全ては概ね計画通り。小鳥は鳥籠へ帰り、魔王はおれが磨り潰す。後は時間を掛けて新しい世界を育めば――」


「――【紫電しでん】」


 静かな声と共に、一条の閃光が走る。


 雷を帯びた紫色の魔力がユークリッドの喉を貫き、赤い花がぱっと咲いた。


「…………あ?」


 力の抜けたユークリッドの腕からマージェリーの身体が滑り落ち、地面に倒れ込む。


 喉元から鮮血を迸らせながら、ユークリッドが顔を上げて前方を見る。


 初めに見えたのは、魔力を走らせながらこちらを指す鋼鉄の指先。そしてこちらを睨む獣の双眸。


 紫電。帯電させた魔力を圧縮・加速させて撃ち出す技。術式ではなく魔力操作だけで放つという点では、奇しくもユークリッドの陽光ソルに酷似している。そしてその様な技を振るう者など、人界広しと言えどただ一人しか存在しない。


 其は、鏖殺おうさつする肉食獣。鉄槌の青嵐。そしてこの戦場に舞い戻った


「……いけないねぇ。人の獲物に手を出すたァ、死にたい悩みでもあるのかい?」


 ぞろりと牙を剥きだして、獣が嗤う。


 全てを手に入れようとしていた勇者の元に、ハイネは立ち塞がった。

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