偽典の末裔(vs.ユークリッド 前哨戦)
第二十七話 聖女の炎①
マージェリーとフリーデの決闘が決着したのと、時を同じくした頃。
「…………」
ハイネが倒れたことを確認して、クリフがその場に座り込む。
ダーインスレイヴとイフリート。どちらの力も身体に相当の負荷をかける。鍛え抜かれた身体を持つクリフであっても、今回のように重ね掛けしての全力稼働はそう長く持たない。
とはいえ、クリフの身体がまだ全く動かなくなった訳ではない。そのことをノエルの目は見抜いていた。
つまり、ハイネに対してまだ完璧な
「何じゃクリフ。その者、首を断たんのかえ?」
「断ったところで死ぬ様な奴でもないって事は、お前も十分分かっている筈だが」
「かかっ、左様か。さてはぬし、この獣が気に入ったの?」
「……まあ、否定はしないでおく。こいつは戦いにしか興味はないんだ、ネルには関わりあるまい」
ハイネの背で、何か青いものが揺らめく。それは炎の様に二人の目には映った。
その身体には生気があり、とても死んでいるようには見えない。
クリフに斬られて倒れた瞬間、ハイネの命は確かに消えた。
命を獲ったという感触は確かにあった。しかし今のハイネには、死人の虚ろさが見られない。
ただ動けない、ただ倒れているだけという状態にクリフには見えた。生きている人間より死人の方を多く見てきた英雄に、その違いが分からない筈も無い。
〈ああ……いつかまた、
最後に彼女の放った言葉が、クリフの脳裏を過る。
原理までは分からなかったが、ハイネはたった今蘇生してみせた。
そんな彼女をもう一度確実に殺す、つまり首を断ってしまわないのには、クリフが彼女を戦いの中で理解したことが大きい。
ハイネという一匹の肉食獣は、戦いの中でしか呼吸ができない。自分との戦いこそ望めども、コーネリア奪還への障害には恐らくなり得ない。
このまま見逃してしまっても問題ないだろう、とクリフは判断した。
「さて、後は小娘の帰還を待つだけじゃが……妾の無聊は何で慰めるつもりかえ?」
「中に入って応援でもしてやればどうだ。焚き付けたのはお前だろうに」
「何じゃそりゃ阿呆らしい。頑張れと言われなければ頑張れない時点で落伍者じゃろうが。妾の治世ならば即刻打ち首じゃ」
「なら頑張って暇を潰すんだな。ほら、頑張れ頑張れ」
「妾が今すぐ心臓を握り潰せると分かっておるんじゃろうなぁ貴様!?」
「いえいえ、寛大なるノエル・【ノワール】・アストライア女王殿下が、どうして斯様なつまらない真似を致しましょうか」
「妾の器に甘えるな、気色悪い。全く、妾に力が戻っておれば斯様な屈辱は許さぬものを……」
今のノエルには、クリフを罰するだけの力は無い。
心臓を握り潰そうと思っても、その気配を見せた瞬間に手を切り落とされてしまうだろう。後はノエルの命が尽きるまで、クリフの刃が振るわれ続けるだけとなる。
王としての器があっても中身が伴わない。それが力を使い果たして搾りかすとなった、ノエル・【ノワール】・アストライアの今の姿である。
ハイネとの戦闘を終え、後は決闘の決着を待つだけ。
しかし変化とは、常に突然やってくるものである。
「……なぁ、ノエル。ユークリッドのことで、少し聞きたいことがあるんだが――」
「――おれの名を呼んだかい、英雄」
「「――――――ッッ!」」
突然降って湧いた、男にも女にもとれる中性的で胡散臭い声色。
二人が反射的に立ち上がり、声の聞こえた方を睨む。聖堂の屋根の上に一人の痩せた男が立って、口元だけで微笑んでいた。
翡翠の双眸は無機質に二人を見下ろし、銀の髪は陽光に煌めいている。瞳以外の全てを漂白した様な出で立ちは、まるで世界がそこだけを塗り忘れたかの様な違和感がある。
ユークリッド・【ヴェール】・ビリティス。ノエルの殺すと決めた勇者が一角にして、マージェリーの殺すと定めた許嫁でもある。
「初めまして、英雄クリフ。おれは『緑の魔法使い』、ユークリッド・【ヴェール】・ビリティス。『緑の歌うたい』総代にして勇者の一角。君には一度逢いたいと思っていてね、急ではあるがこうしてやってきた次第さ」
恭しく、しかしわざとらしく、ユークリッドがクリフへと一礼する。
そこには敬意と呼ばれるものは一厘たりとも見られない。否、そもそもこれといった心の動きが一切感じ取れない。
ただ「礼をする」という情報だけをなぞっているような、漂白され切った辞書的な「動作」だけがそこにあった。
ぎり、と歯を見せ、ノエルが苦々しい表情を見せる。
「ユークリッド……!」
「……久しぶり、と言った方がいいかな、魔王ノエル。こんなところで逢うとは思っていなかったけど、逢えて嬉しいよ」
瞼を閉じ、ゆるりとユークリッドが両腕を開く。抱擁する様に、慈しむ様に、優しくゆっくりと手を開く。
およそ戦闘行為とは見て取れない、穏やかで力の見えない動作。隙だらけな筈の姿勢に、しかし二人は一歩も踏み込めずにいた。
「何と言っても、勇者は魔王を殺すためにいるのだから」
ぱちりと、ユークリッドの瞼が開く。
次の瞬間、ぞわりと二人の背に、氷の様な怖気と殺気が捻じ込まれた。辺りに彼の魔力が重力の様に満ち、びりびりと肌を刺す。
――これが……勇者か!
人界における最高戦力。魔王討伐の要。そして最高の魔術師にして世界を意のままに操れる魔法使い。
クリフと言えど、勇者級の戦士と刃を合わせることはそう多くない。絶対に勝てる、という確信はどこにも無かった。
「……クリフ」
「ああ、分かっている」
静かに、クリフが長剣の柄に手をかける。
勇者とは言え、相手は人間。動く時には必ず何かしらの合図を身体が放つ。
それは呼吸の僅かな変化や視線の動き、筋肉の微妙な緊張など、通常の人間であれば見逃してしまう様なごく些細なものである。
しかしクリフであれば、人体の起こすものは必ず見逃さない。そして
ユークリッドがぴくりとでも動けば、その先何をするつもりなのかを完璧に読み取れる。動きが分かれば、どんな相手でも対応は可能である。
――さあ、どう動く……?
「でも、今は君が先だよ英雄」
「…………っ!」
クリフの眼前、互いの肌が触れ合いそうな程の至近距離に、ユークリッドは突如出現した。
――何だ? こいつ今、何をした?
つう、とクリフの額を汗が滑る。
動きは全く見えなかった。否、全く動いていなかった。屋根のところにいた筈のユークリッドが消えて、目の前にいなかった筈のユークリッドが出現した。
まるで最初からユークリッドは屋根のところにおらず、初めからずっと目の前にいた様に、一瞬クリフは錯覚した。
長剣の間合いの、更に内側へと肉薄されている。びたりと縫い付けられた様に、クリフはその場から動かない。
まるで宝石の様な、無機質で血の通わない瞳が、クリフをじっと見つめている。
「……うん、近くで見ると中々ぞくぞくさせるじゃないか。血の匂いと鉄の匂い、他にも色々香るね」
ユークリッドの手が、そっとクリフの頬へと当てられる。白くて、冷たくて、陶器の様に滑らかな肌の感触が頬へと伝わった。
ゆっくりと、クリフへとユークリッドの顔が近付いていく。左手がゆっくりと肩を這い、右手が後頭部をさっと素早く支えた。
「君のこと、もっと教えて欲しいな」
クリフの顔へとユークリッドの顔がぐっと近付き、唇が押し当てられる。
割り入れられた舌がにちゃにちゃと動き回り、湿った感応的な音を立てる。肩を伝っていた手は背中や腰へと回され、ユークリッドは目を閉じて一心にクリフという男を味わっていた。
「…………」
ゆっくりと、クリフの右手がユークリッドの背へと回される。丁度抱き合った形で、二人は向き合った。
手ぶらとなったもう一方の左手が、ぴくりと動き出す。
同時にユークリッドの唇と手が離れたが、既にクリフからは逃れられない。
「――――」
抜き放たれた短剣が、ユークリッドの背中へと一瞬で突き立てられた。
その刃は正確に、ユークリッドの心臓の場所へと届いている。どれだけユークリッドが速く動けても、捕らえてからの一撃は躱せない。
奇行の中にも絶えずあった警戒心が一瞬揺らいだのを、クリフは見逃さなかった。
「……ぁ」
ユークリッドの喉から、小さく声が漏れる。
命を獲った。この一瞬の出来事を目撃した人間であれば、恐らく誰しもがそう確信するだろう。
しかし当のクリフの全身は、今までに感じたことの無い違和感で僅かに冷えていた。
――何だ、手ごたえが全く無い……!
短剣の先は自分の鎧に当たるまで、確実に貫通させている。剣が弾かれた訳でもなく、避けられた訳でもない。
しかしクリフの剣には、およそ手ごたえと呼べるものは全く感じられなかった。まるで空気を切ったように、振るわれた刃はユークリッドの身体を素通りしている。
「……今、おれを刺したと思ったかい?」
ずぶりと、ユークリッドの身体がクリフの身体へと沈む。
感触は全く無い。触れていた唇や手、胸や足に至るまで、クリフの身体をユークリッドが通り抜けていく。
短剣が刺さっていた筈の背中には、肉にも服にも傷一つついていなかった。
「何っ……!?」
「君の刃が、おれの命を貫いたと思ったのかい? 刺して、貫いたと、そう思っていたのかい?」
ユークリッドの身体が透けているのが、その時クリフには見えた。
触れようとしてもその身体はクリフの手や剣を容易くすり抜けて、空しく空を切るだけである。およそ実体と呼べるものが、今のユークリッドには無かった。
完全にクリフの身体をすり抜け終わったユークリッドが、口元についた涎をぺろりと舐め取る。
「――君は人体切断においては紛れもなく
「嬉しいね、随分と熱心なファンじゃないか……!」
一歩下がって長剣を抜き、クリフが大きく息を吐いて構える。
戦士の、否、英雄の目となったクリフの表情を見て、ユークリッドが口元だけで微笑む。
「時に英雄、水や空気を切れるかい?」
「何?」
「水、空気、光、闇、そして人の心。おれたちの周りにあるものは、随分存在の曖昧なものばかりだとは思わないかい?」
微笑むユークリッドの後ろから、もう一人のユークリッドが姿を見せる。
殆ど時を同じくして、背後からもう一つの気配が生じる。それは紛れもなく、今眼前にいるユークリッドそのものだった。
三体、四体、五体、まだ増える。ユークリッドの姿は次々と増え、
「幻術か……いつの間に!」
「五十点だよ、英雄。確かにおれたちは幻の様に儚いけれど、確かにここには存在しているんだぜ」
ぱん、と音を立てて、ユークリッドの手が合わせられる。次の瞬間、クリフの身体はその場から消えた。
一拍置いて、ユークリッド達の頭上へとクリフが出現する。突如中空に放り出される形となったクリフが、ぎょっとした顔で息を呑む。
――何だ? 俺は今、何をされたんだ?
感じたのは、手が合わせられる音と僅かに魔力の爆ぜる気配だけ。魔術の様なものを行使されたということだけはクリフにも理解できたが、こんな魔術は見た事が無い。自然魔術とも、刻印魔術とも、降霊魔術とも異なる。
――まさかこれは……これがユークリッドの魔法か!
「おれの魔法は『
無数に湧き出したユークリッド達の手が翳され、一斉にクリフを捉える。
魔力の高まる気配が爆発的に高まり、クリフが防御の姿勢を取る。
ここは中空、回避は間に合わない。
――マズい、防御を……!
丹田を中心としてクリフの全身に魔力が周り、身体の表面へと染み出していく。
回避・制圧が間に合わない場合、魔術を受けるための方法は二つ。一つは結界などの術式で受ける方法。そして単純に魔力で受ける方法。
結界は成功すれば術式を無効化できるが、高速詠唱などの高度な技術がなければ咄嗟に使うことは敵わない。それに僅かではあるが時間が掛かってしまい、即座に出す事はできない。
反対に魔力で受ければ即座にダメージを削ることができるが、完全に無力化することはできない。この時クリフが選んだのは後者であった。
――多少の
――と、思っているだろうね。その選択肢以外は選ばせないんだけど。
「人斬りの英雄程度では、世界に抗えないよ」
放たれるのは、無数の光の矢。しかし緑の矢の
嵐の様に叩きつけられた光の矢は、クリフの張った魔力の防護壁を容易く突き破って身体を貫いた。
びき、と音を立てて、クリフの全身の魔術回路が悲鳴を上げる。
「がっ……!」
クリフが喀血し、身体から力が抜ける。全身に激痛が走り、意識が混濁する。
既にイフリートの力は使おうとしている。しかしどれだけ魔力を回そうとしても魔力は上手く纏まらず、傷も一向に癒えようとはしない。
力なくクリフの身体が地面へ落ち、全身から出た血が静かに血だまりを形作っていく。
「どうして……」
「どうして傷が癒えない、そう言いたげな顔だね」
にっこりと微笑みながら、ユークリッドが自分の手を見せる。
白い手から橙色の炎が立ち上り、辺りに陽気が満ちる。まるで太陽そのものの力の様に、その場にいた人の目には映る事だろう。
そしてその力を……クリフが知らない筈は無い。
「これは太陽の聖女コーネリアが権能。この世のあらゆる魔と不浄を祓う炎さ。おれたち勇者は全員、この力を持っている」
「ユークリッド……貴様……!」
ぎり、と歯を食いしばり、クリフが立ち上がる。
全身から血が噴き出し、激痛が身体を暴れまわりながらも、剣を握ってユークリッドを睨む。
「――――――ッッ!」
「君に触れた時、人では無い何かの匂いを感じたんだ。君の中には魔が混じり込んでいる」
ぴたりと、ユークリッドがクリフの頭を捉える。その五指から炎が立ち上り、瞬く間にクリフの全身を包み込んだ。
本来ならば諸人を祝福するべき、聖女の力。
しかしそれが太陽に仇なす魔の者であったならば……話は別である。
「
「……ユークリッドォォオオオオオオオオオオッッッッッ!!!!」
――なっ……!
咆哮と共に、クリフが短剣を振り抜く。それよりもほんの一瞬先に、ユークリッドの手が反射的にクリフの額を離れた。
その一撃は、大気であっても切断し得る様な鋭く迅い斬撃。しかしクリフの振るった刃は先程と同じようにユークリッドの身体を素通りして空しく空振りに終わった。
「……くそっ」
ぐるりと、クリフの意識が暗転する。
既に身体は限界、全身にはくまなく致命傷級の手傷を負っている。
もはや指一本たりとも、クリフの身体はいう事を聞かない。先の一撃が文字通り、最後の一撃だった。
どうと音を立てて倒れたクリフの姿を見て、ユークリッドがひと筋冷汗を垂らした。
ユークリッドの圧勝。誰が見てもそう見えたが、その実圧勝とは程遠いものであったことをユークリッド自身は誰よりも理解していた。
「あれだけ『聖女の炎』を受けて、まだこれほどの技を振るえるなんて……。当たっていたら流石に、おれも危なかったかな」
クリフの最後の一撃。ユークリッドが手を離して魔法を間に合わせたのはほぼ全くの偶然と呼べる様なものだった。
あの一瞬に手を離すのが間に合わなければ、喉を裂かれて斃れていたのはユークリッドの方だっただろう。
「お見事、英雄。君の刃は勇者へ届きうる。大変な脅威だ」
ぱちぱちと小さく拍手を送り、ユークリッドがノエルの方を向く。
「さて、あの日の続きといこうか魔王様」
勇者は再び、魔王の許へとその手を掛けた。
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