第二十六話 小鳥の鳥籠

「ユー……クリッド……!」


「ああ、そうさ。お前の許嫁、ユークリッド・【ヴェール】・ビリティスだ」


 マージェリーの言葉を受けて、ユークリッドは一歩前へと踏み出す。


「驚く事じゃないだろう? 。そしてそれは――」


 ぱん、とユークリッドが手を叩く。直後、マージェリーの腕からフリーデの身体は消え、殆ど同時にユークリッドの足元へと出現した。


 にやりと、ユークリッドが唇だけで笑う。


「この世界の、誰もがそうなのさ」


「……っ!」


 半ば反射的に、マージェリーがスキールニルを拾おうと手を伸ばす。


 彼我の距離はざっと大股に五歩。ユークリッドが走っても、マージェリーの手がスキールニルへと届く方が早い。


 しかしマージェリーの手が届くよりも先に、ユークリッドの足がスキールニルの刃を踏みつけた。


 ――速い……いや、


 移動する気配も音も、全く彼女には伝わらなかった。


 達人であるクリフやハイネが動く時ですら、移動すれば必ず何かの痕跡は出る。しかしユークリッドの移動には、全くそういったものが見られなかった。


 


「何だか随分と久しぶりに感じるね、可愛い可愛いおれの小鳥。君に逢えない一週間、おれがどんな想いで過ごしていたか……膝を交えて語りたいものだ」


「よく言うわよ、アンタの目当てはアタシの胎盤からだでしょうが」


「…………」


 口元と頬の筋肉だけを吊り上げて、辛うじて笑顔と認識できそうなをユークリッドが貼り付ける。


 それは人間ではない何かが人間の真似事をしている様な、不気味極まりない表情だった。人の心が欠片ほどもあれば、そんな表情は浮かべられない。


妖精種エルフは言葉ではなく魂で語る種族だ。例え歴史が言葉で綴られずとも、受け継がれる血と魂には神代の記憶が明瞭はっきりと刻まれている」


 ユークリッドが自分の唇を、指で挟んで歪ませる。暫し黙り込んだ後に再び手を叩くと、ユークリッドは元いたフリーデの遺体の傍へと瞬時に移動した。


 ――空間転移……? 違う、全く時間差が無い……!


「おれの目当ては君の。創世に関わる最後の鍵を、マージェリー・ミケルセンが握っている。君の器官なかみにはそれだけの価値がある」


 ユークリッドがフリーデの左腕を持ち上げ、と時計回りに捻じる。かちりと硬い音を立ててフリーデの身体は床に倒れ、外れた左腕だけがユークリッドの手中に残る。


「人工物に魂を通すテッサリーニ家の秘伝、世界を区切り開闢かいびゃくする聖者の左腕、そして世界創世の書とも呼べる君の胎盤。これらを集めて、管理するのは実に面倒だった……特にこの、薄汚い魔女狩りは心底鬱陶しかった」


 ユークリッドの足が、フリーデの頭を踏みつける。


「やめなさい……やめろ……!」


 フリーデの頭をなおもぐりぐりと踏みにじるユークリッドへと、マージェリーが歯を剥きだして手を伸ばす。


 しかしマージェリーの身体は、もはや戦うどころか立ち上がる事さえも適わないほどに傷み切っていた。取り分け致命傷をごく短時間で癒したことによる反動リバウンドと、心象結界魔術を全力稼働させたことによる疲労が大きかった。


 大きな外傷こそないものの、今のマージェリーの身体は半死半生に近い状態にあった。ユークリッドを相手に戦う状態ではない。


「いつもいつも、おれの小鳥にくっついて、おれの命を狙っていたな。ここ数日はあれこれ嗅ぎまわっていたけれど、やれやれ死んでしまえば可愛いもんさ」


「ユークリッド……! アンタ、自分が何踏んでるか、分かってんでしょうね……」


 マージェリーの方をちらりと見遣り、顔の肉だけを吊り上げて、ユークリッドが再び笑みらしきものを浮かべる。


「血生臭い教会の猟犬、この女の生涯は野獣に似て憐れみに欠けていた。死んだ今となっては……まあ、涙一滴ほどの慰めが似合いだろう」


「その足どけなさいよ! ッッッ!」


 マージェリーがスキールニルを拾い上げ、ユークリッドへと突き付ける。


 その言葉が聞こえると同時に、ユークリッドの起こしていた全ての動作がぴたりと停止した。まるで空間そのものが凍り付いてしまった様に、或いは時間が停止した様に、彼の周りは静止する。


「…………呼んだな。おれを


 浮薄ふはくで白々しい今までの言葉とは全く違う、真っ黒で重々しい音色。


 伝わるものは、純粋な憎悪。


 ぞわり、とマージェリーの全身が恐怖に凍り付いた。


 ごとりと音を立てて、ユークリッドが聖者の左腕を床に置く。


 次の瞬間には、彼の平手がマージェリーの頬を捉えていた。乾いた音が響き、木の葉の様に飛ばされたマージェリーの身体が床へと倒れる。


「蔑んだな、魔女の末裔と」


 高々と上げられたユークリッドの足が、マージェリーの鳩尾みぞおちへと突き刺さる。


 呼吸が一瞬止まり、激甚たる苦痛にマージェリーは白目を剥いて喘いだ。


「おっ……ぐえっ……!」


 逆流してきた胃の中身をぶちまけながら、マージェリーが悶える。


 よろよろと逃れようとする彼女の背中をなおもユークリッドの足は蹴りつけ、倒れた身体を踏みしだき続ける。


「おれの、ッッ! 穢れている証はどこにある!? ぼくらの穢れを、君らの清らかさを、一体どこの誰が保証しているというんだ!? 証の無い、、君らはぼくから母さんを奪っただろうが!」


「…………」


 もう随分と前からマージェリーの声が聞こえないことを、呪詛をありたけ吐き出してからユークリッドは気付いた。


「ふーっ……ふーっ……ふーっ…………」


 ユークリッドが自分の指を噛み、息を整えていく。目を剥いて青筋を立てていた先程までの悪鬼の様な表情は次第に収まり、元の嘘臭い軽薄な笑みへと戻っていった。

 

「んん……まだ壊れていないよな。悪い悪い、ついカッとなってしまったよ」


 仰向けに転がされたマージェリーが、薄く瞼を開いてユークリッドを見上げる。


 血と涎と汚物に塗れた彼女の顔を、ユークリッドは愛し気に見つめていた。……ただし彼が愛しく思うのは、あくまでも彼女の身体そのものであったが。


「ユークリッド……」


「おれだって、君に痛い思いはさせたくないんだ。君が余計なことをさえずるから、こんな事をしなければならないんだ。そのあたりはよく、理解してもらいたいね」


「……ざけんじゃ、ないわよ。アンタなんか……アタシと、クリフと、ノエルで、絶対にたおしてやるんだから……!」


「…………クリフ? ノエル?」


 ユークリッドの眉が、わずかにひそめられる。


「ええ。二人ともアタシの仲間よ。アタシよりも……アンタよりもずっと強いわよ」


「……ふ」


 ユークリッドの口元が、再び歪む。その笑みにマージェリーは僅かに疑念を抱いた。


 彼の笑みは、基本的にずっと歪な作り笑い。しかし今度の笑みは違う。ただ貼り付けたものではない、心からの笑みをユークリッドは浮かべていた。


 伝わってくるのは、あざけりと愉悦。


「……うふ。うふふふふふっ、ふふふふふふふふふっ! あはははははははははっっっ!」


 腹を抱えて、ユークリッドがげらげらと笑う。心底嘲笑う様に、底の底まで見下げるように、愉快そうに面白そうに、彼は笑う。


 その中で一瞬、僅かな違和感がマージェリーの頭をよぎった。


 ――身体が、透けた?


 自分を嘲笑っている最中、ほんの数秒ではあるが、ユークリッドの身体の向こうにある木製の扉が透けて見えたことにマージェリーは気付いた。


「んん……ああ、済まない。随分とはしたないところを見せたね。いやぁ笑った笑った……君にはコメディの才能があるんじゃないかな」


 まるで踊る様な軽やかさでユークリッドが回ってマージェリーから背を向け、扉の方へと向かって歩いていく。


「おれは君に分かってほしい。新しい世界が生まれるまで、あと一歩なんだ。

 おれは今更引き下がれないし、君も今更逃げられない。なのに君は鳥籠から逃げようとする」


 かつん。かつん。かつん。かつん。かつん。


 靴の音は絶えず一定のリズムを刻みながら、扉へと向かっていく。


「だからね。おれは君に今一度、今の状況を教えてあげようと思うんだ。

 妖精きみたちが言葉ではなく魂で語るように……おれも沢山の言葉より、一つの景色で君に語りかけよう」


「……何を……?」


 かつん。


 音が止み、ユークリッドの動きが止まる。それは彼が既に扉へと到着し、これから彼が行うことの準備が整ったことを示していた。


「マージェリー・ミケルセン。可愛いおれの小鳥。世界を育む妖精の胎盤」


 ユークリッドの手が、聖堂の扉へと掛けられる。


「君がどれだけ空をこいねがおうとも、君がどれだけ翼を羽ばたかせようとも――」


 ゆっくりと扉は開いていき、やがて開き切った時……そこで見た光景にマージェリーは大きく目を見開いた。


 ――……何よ、これ。


 最初に見えたものは、夥しい量の鮮血。次いで見えたものは、倒れ伏して動かない二人の姿。マージェリーの目に飛び込んだのは、クリフとノエルが完膚なきまでに打ち倒された姿であった。

 

 振り返って目の端で彼女を捉えたユークリッドが、口元だけでにやりと笑みを貼り付ける。


「君が俺から逃げ切ることは、未来永劫かなわない」


「――――――」


 二人が負けることなど、マージェリーは毛一本たりとも考えていなかった。


 過信していた訳ではない。ただ、彼ら彼女らは確かに勇者を討てると言えるだけの実力を備えているとマージェリーは確信していた。今まで出会ってきた人間の中で、あの二人よりも強く恐ろしいものを、彼女は知らなかった。


 しかしそれでも、勇者を討つには途方もない開きがある。最早どう足掻いても、マージェリー・ミケルセンがユークリッドの手を逃れるすべは無い。


「ほら、希望というものは、君たちの想いというものは……」


 ふわりと、ユークリッドが自分の両手を胸の前で構える。それは丁度、手を叩く一瞬前の動作に似ていた。


 はっと息を呑み、マージェリーがフリーデの方へと視線を戻す。


 彼女の遺体は既に透け始めており、間もなくこの場から消えようとしていた。仕掛けまでは分からないが、ユークリッドは手を叩くことによって対象をその場から移動できるものだとマージェリーは推量していた。


「この……!」


 床を這いずりながら、マージェリーがフリーデへと近づき、彼女の袖へと触れようとする。しかし触れる筈であった彼女の手は遺体の袖をすり抜け、何度試してもマージェリーがフリーデの遺体を掴むことはできなかった。


 ――違う。移動じゃない……フリーデが消えちゃう……。


「やだ、やめてよユークリッド」


 彼女の言葉は、彼には届かない。にやにやした笑みを浮かべながら、ユークリッドは全ての言葉を黙殺して拒絶していた。


 止まっていた時が動き出す様に、ユークリッドの手が動き始める。


「こんなにも、あやふやで儚いだろう?」


「……っ!」


 ぱん。


 乾いた音が、ひとつ鳴る。次の瞬間、フリーデの遺体はまるで最初からそこに無かったかの様に、マージェリーの眼前から消え失せた。


 後にはただ、虚空だけが彼女の視界に残る。フリーデ・カレンベルクのいた証は、今やどこにも見当たらなかった。


 一瞬、マージェリーの頭の中が真っ白になる。


 今まで彼女をぎりぎりのところで支えていた大切な何かが、その時ぷつりと音を立てて切れた。……否、切れてしまった。


「厭ぁああああああああああああ─────ッッッッッッッ!!!!」


 今や世界に様にさえ感じられる聖堂に、マージェリーの絶叫が木霊する。



 例え狼と魔王に縋ろうとも。例えかつての従者と刃を交えようとも。小鳥が鳥籠から青空へと逃れることは叶わない。


 特に勇者の傍、ユークリッド・【ヴェール】・ビリティスの傍ならば。

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