第二十五話 死して甲斐あるものならば
――『本当の女心は、決して私どもには劣りはいたしません。
確かに我々男は、もっと言葉にも出し、誓いを立てたりもいたしますが、本当は心にも無い見せ掛けだけの場合も多うございます。
私たち男は、口先だけは立派なことも申しましょうが、愛情でそれを立証することは滅多にございません。』(シェイクスピア『十二夜』)
「……何で……」
小刻みに震えるマージェリーの手から、スキールニルが零れ落ちる。地面に落ちた双剣は淡く輝き、元の短刀へと戻った。
結界が解けて辺りは元の聖堂へと変わり、冷え切った床にフリーデの血が静かに広がっていく。
よろよろとマージェリーがフリーデへと歩み寄り、靴の底に濡れた感触が伝わる。びちゃびちゃと音を立ててマージェリーは進み、血だまりの中に膝を着いた。
浅い喘ぎを漏らすフリーデの身体を、マージェリーが抱える。
フリーデの身体は、彼女が思っていたよりもずっと……軽くて冷たかった。
「……何でよ、フリーデ」
ぎり、とマージェリーが歯を食いしばり、目元に涙をにじませる。
「何で撃たなかったのよ、フリーデ! 今の勝負、アンタが先に撃てた筈でしょう!?」
落ちた涙がぱたぱたと頬を打ち、フリーデは僅かに微笑んだ。
極限にまで研ぎ澄まされたマージェリーの感覚によって、彼女の行動は仔細に渡るまで全て伝わっていた。
あの時、お互いに必殺の術式を打ち込むだけだった瞬間……マージェリーの攻撃の直前に、フリーデは己の攻撃を解いた。自分を確実に殺せる攻撃が来ると分かった瞬間に、彼女は己の勝ちを捨てて敢えて攻撃を受けた。
「……それが私の、最後の仕事だからですよ。お嬢様……」
弱弱しく伸ばされたフリーデの指が、マージェリーの涙をぬぐう。すっかり冷たくなってしまった手がマージェリーの頬を撫で、彼女はほうと息を吐いた。
「私の務めは、ここで死ぬこと……お嬢様の全てを引き出して、全ての仕込みを終えるために……」
「そんな……じゃあ、今までアタシを回復させてたのは……」
「お戯れを…………私がお嬢様を、殺すはずなど無いではありませんか……」
マージェリーがはっと息を呑む。
常に自分の喉元へと刃を突き付けられている様な、重く冷たい殺気の中。よもやフリーデが自分へ手心を加えていたなどと想像することはできなかった。
戦士は全てを見せず、全てを語らない。
マージェリーの感応能力を以てすれば大抵の感情は読み取られる。しかしフリーデは、幼少期から教会の刃としてのみ育て上げられた戦士。己の感情を殺意と敵意だけで塗り潰し、魔術師の感応能力を欺くことは可能である。
……己の忠義でさえも抑え込めるほどに、強く殺意を絞り出すことで。
「あ、あ、ああ……」
何かを探るように自分の顔へと指を這わせ、頭を抱えて、マージェリーがぼろぼろと涙を流す。混乱し憔悴した彼女の頭の中では、フリーデと過ごした十年の月日がぶつ切りになって再生され続けていた。
「あ、あ、フリーデ、アタシ、必死で、加減、できなくてっ……」
「…………いいのです。そうでなくては、私がお嬢様に……刃を向けた意味が、ありませんから……」
くしゃりと、フリーデの手がマージェリーの頭を撫でる。マージェリーの身体がびくんと跳ね、何かを嚙み締めるようにぐっと口元を結ぶ。
そこには、先程までの殺気は欠片も見えなかった。彼女の知っているフリーデ・カレンベルクが、今は腕の中にいる。
ただしその命は、もはや幾ばくも無い。
「嗚呼……申し訳、ございません。沢山……痛い思いを、させましたね……」
「喋らないで! すぐに、すぐに治すから……アタシはマージェリー・ミケルセンだもの……このくらい、このくらいの傷……!」
残った魔力を振り絞り、マージェリーが術式を展開しようとする。
魔力がフリーデの全身を伝い、彼女の
今のフリーデはそもそも魔力を練る事ができず、今のマージェリーは魔力が全く足りない。つまりどうあってもフリーデは生かせないという事実だけを、返って来る彼女の魔力は狂いなく正確に伝えていた。
「やだ……やだよ、フリーデ。まだアタシ、フリーデに何もできていない……フリーデに何も、返せてない……!」
「……何を、仰いますか。貰っていたのは、私の方です……たくさん、本当にたくさん、返しきれないほど……」
フリーデが咳き込み、飛び散った血がマージェリーの頬へと付着する。
魔力も、気配も、体温も、今や消え入りそうなほどに心もとない。彼女の命は最早、ちりちりと揺らいで消え入りそうな
「時間がもうありません……話せることは、全てお話ししておかねば……!」
フリーデが顔を歪めながらも身体を起こすと、腹の穴から思い出したように血が噴き出した。何度も咳き込みながらも、虚ろな目で喘ぎながらフリーデがマージェリーの方を見つめる。
「はぁっ……はぁ、あ……」
「フリーデッ! もうやめてよフリーデ! お願いだからじっとしてて!」
「……いいですか、お嬢様。私の務めは、ユークリッドを殺す事でした。彼は穢れた血の末裔、お嬢様へ触れて良い相手ではない……ですがそれは適わなかった……! 彼は強い、私や
「ユークリッド、を……?」
「……この三日間、方々手を尽くしてユークリッドからお嬢様を遠ざける
……嗚呼、本当に、本当に申し訳ありません。私の不甲斐なさを、どうかお許し下さい……! 私には、この方法でしかあなたを救えなかった……!」
「どういう事なの? ねぇ、ちゃんと説明してよフリーデ!」
「……大丈夫です、きっとすぐに分かります。お嬢様ならきっと、あの男に勝てる筈です。私の全ては死合う中で……あなたに捧げて託しました……!」
フリーデが再び、激しく咳き込む。今や咳の中身は吐息よりも血の方が多くなり、流れ出る血は小さな池を形作っている。術式による止血でも全く追いつかないところまで、彼女の命は流れ出していた。
「…………嗚呼。どうやらもう……迎えが来たようです……」
「え……」
フリーデの言葉に、マージェリーが一瞬絶句する。
混乱する頭の中でどれだけ考えても理解できずにいた、たった一つの単純な答え。
フリーデ・カレンベルクは、間もなく死ぬ。
「な、何言ってるのよフリーデ……ダメよ、やだ、行っちゃやだ、フリーデ!」
まるで凍り付いていくように、彼女の命が離れていく様に、フリーデの身体は加速度的に温かさを失っていく。
マージェリーの指は狂った様に激しくフリーデの身体をまさぐり、体温を求めて
しかしどこを触れても、フリーデの命は捕まらない。指を伸ばした先からするりと逃げて、マージェリーの見えない場所へと消えていく。
水を掴むような虚しさだけが、マージェリーの指先に伝わっていた。
「……
消え入りそうな細い声で、うわ言のようにフリーデが呟く。
彼女の目は、既に光を失っている。焦点は定まらず、マージェリーの方も向いていない。マージェリーの指がどこに触れても、もはや大した反応は返ってこなかった。
震える唇が僅かに動き、小さな言葉は続く。
「私は、人、に……あなたの、傍に……」
「フリーデ? ねぇ! こっち向いてよフリーデ!」
「どこ、ですか……? おじょう、さま、いずこに」
フリーデの指が、わずかに動く。
何かを求める様に、何かを願う様に、寂しく弱々しく。
「………………ここよ。アタシはここにいるわ、フリーデ」
そっと、マージェリーがフリーデの手を握る。
ぞっとする程冷たくなった、けれどよく知る感触の。とても近くにいるけれど、やがて遠くへ行ってしまう、愛しい者の手。マージェリーの手に包まれ、フリーデの手はほんの少しだけ、温かくなった。
ほう……と、ひときわ深い吐息が、フリーデの口元から吐き出される。
それは安堵という言葉をそのまま吐息にした様な、優しい音色のものだった。
「……嗚呼。そこに、いたのですね…………」
その言葉を最後に、フリーデの身体からがくんと力が抜けるのを感じて、マージェリーの両目は大きく見開かれた。
フリーデ・カレンベルク。かつてマージェリー・ミケルセンの侍従であり、
一身上の都合により、主に刃を向け、
主の腕の中で、彼女は静かに息を引き取った。
「…………フリーデ……」
しんと静まり返った聖堂に、マージェリーの声がぽつりと響く。
彼女の命は、ただの一滴も残らず流れ出している。まるで眠っている様ではあるが、彼女が二度と目覚めないということをマージェリーは理解しつつあった。
「フリーデ、アタシは――」
しかし変化は常に、突如として降って湧いてくる。
「いや、見事見事。まさかあのフリーデ相手に勝つとはね」
ぱちぱちと拍手をする音と、男にも女にも取れる中性的で無機質な声。
――な……っ!
聞き慣れた、それでいてマージェリーが最も聞きたくない声。
マージェリーの全身に悪寒が走り、ゆっくりと背後を振り返る。
そこに立っていたのは、一人の痩せた男だった。
翡翠の瞳に銀の髪、細く痩せた身体は流麗な銀細工を彷彿とさせる。長く伸ばした髪は三つ編みに纏められ、陽光に煌めいていた。
「……ユー、クリッド……!」
一つ一つ、恐る恐る確認する様に、マージェリーがその名を口にする。
ユークリッド・【
魔王を討ち果たした勇者が一角。『緑の歌うたい』総代。そしてこの世に数人しか存在の確認されていない、本物の魔法使いである。
討ち果たすべき怨敵は、突如として彼女の前に現れた。
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