夢の銀座でアジ刺しを

「今日の夜、何か予定がありますか? 食べに行きたい所があるのですが」

「何を食べるんですか?」

「銀座で日本料理を」

「………………高くないですか?」

 おもわず声が震えた。日本料理で、銀座である。値段を想像しただけで恐ろしい。

「安くはないですが、銀座にしては良心的だと思います。ランチで何度も行った事はあるのですが、夜に食べに行った事がなくて」

 昴さんの前の職場が銀座に近くて、銀座のランチ捜索が、忙しい日々の唯一の潤いだったと。

「ランチが美味しい店なら、夜はもっと美味しいんだろうなと思うんですが……一人で行くのもなと」

「銀座ですからね……」

 特別な街で、特別な料理を食べるなら、誰かと一緒の時に。そういう思い入れがあったという。話を聞いていて、ふと気がついた。

「……ちなみに……そういう店が何軒くらいあるのですか?」

「リストを作成して、お送りしましょうか?」

「DMで結構です」

 リストにするほど、たくさんあるなら、任せたらエクセルの表データで、詳細なレビュー付きのデータが飛んできそうだ。


「僕が前から行ってみたかった店なので、値段は気にしないでください。最近ツケも溜まってますし」

「ツケ……そういえばそうですね」

 互いの仕事の忙しさが合わないと、一緒に外食できない日々が続いて。私が忙しい時は、昴さんが買ってきたり出前を取るけれど、私が料理を作ることも多くて。

 料理を作るのが好きだし、同棲してるなら、作られなれて、ありがたみを感じられなくなる日も来るのかなと思っていたけれど。

 昴さんは私が料理をした回数を「ツケ」としてカウントし、返すべきだと思っているらしい。そういう几帳面な所が、嬉しくて好きだったりする。

 料理を作って貰って、当たり前と思われて、礼の言葉もなくなるのはやっぱり悲しいから。

 何を食べるのかよくわからないけれど、昴さんが勧める店なら、美味しい物に違いない。思わず頬が緩んだ。




 引き戸を引いて、のれんをくぐると、昭和から時が止まったような、古めかしい店内が目に入った。

 傷がつき塗料が剥がれかけた黒い柱、古色で独特な色合いに染まった壁紙、何十年も吹き続けただろう年代物の机は、艶やかだ。

 ここが昔ながらの安居酒屋ですと言われても、違和感がないくらいに飾りっ気の無い風情が、銀座なのにほっと落ち着いた。


 カウンター席の上にある看板に「ふぐ鍋コース12000円」と書かれているのを見ると、立派なお値段に、おおう……と思わず声がでるのだけど、その隣で輝く「イワシ・アジ刺身970円」を見ると、それほど高くない気もして、なんだか不思議な気分だ。

 ここは魚介がメインの店で、夏は冷や汁が美味しいらしい。

「ここなら日本酒ですね」

「はい。とりあえず、お酒とつまみを何か……」

「白子ポン酢!」

 看板の隅っこにかかれたソレを見つけ、思わず声をあげてしまった。

 冬で、ふぐを売りにするくらいの店だ。白子がはずれのはずがない。それにお値段がお手頃なのが心に優しい。

「ではそれを」

 最初に日本酒と白子ポン酢で初めて、それからゆっくりメニューを見る……つもりだった。

 店員のおばちゃんが、カウンターの奥の板前さんに何か声をかけられている。

「すみません。お通しに白子ポン酢入ってるらしいので、注文なしにしておきますね」

 そういって、日本酒と一緒に運ばれてきた『お通し』にまず驚いた。

 年季の入った四角い木の盆の上に載せられた、三つの小鉢の中身はふぐ豆腐、白子ポン酢、ネギトロのごま和え。


 しじみ汁ですと差し出されたお椀は、具が入って無くて、うっすら白いお湯に見えた。

 酒より何より、その汁が気になって、頂きますと頭を下げて口を付けた。

 ……ガツンとしじみの味がした。紛れもなくしじみ汁だ。具が入ってないと疑った自分を叱りたい。塩気がほどよい上品な汁が、食欲をそそる。

 気づけば目の前に日本酒が入った杯が用意されていた。

「乾杯」

 コツンと申し訳程度に挨拶をし、すぐに気持ちはお通しへ。

 ふぐ豆腐と言われたのは、上品なごま豆腐のようなお味で、上に載った山葵の香りと、ねっとりとした濃厚な味わいがお口に優しい。

 日本酒ちびり。

 白子ポン酢は、これが外れるはずがない、脂ののった白子とたっぷりのあさつきを口に含む。とろりと溶けた濃厚な旨みに、思わず日本酒をぐいぐいと飲みきってしまう。

 ネギトロに箸をつけようとして、昴さんに止められた。

「この海苔に乗せて巻いて食べるそうです」

 気づかぬうちに、小さな海苔が用意されていた。ネギトロで海苔は正義だ。よく見るとネギトロの下に、少しのとろろと、ごまだれが。匙で掬って、くるっと海苔で巻いて。

 ぱりっとした海苔の感触、ごまだれの香ばしさ、とろりと溶けるネギトロととろろの旨み。

 ああ、じたばたしたい。


 まだ、飲み物しか頼んでないのに、お通しの時点で、私はだいぶこの店に参ってしまった。

「アジ刺し、いぶりかっこ、鳥と揚げ出し豆腐は注文しておきました。他に何か食べたいものがありますか?」

 そう聞かれて、メニューを開いて見れば見るほど、どれも美味しそうに見えて、かえって悩む。

「ニラのおひたしと、百合根揚げをください」

「その心は?」

「悩んだら、食べたことが無いもの、あまり食べないものを選ぶのが、私流です。ニラのおひたしは、作ろうと思えば簡単に作れそうで、意外に食べたことが無いなと」

「なるほど。そう言われて見ると、ニラのおひたしってあまり見かけませんね」

「それに揚げ物は、自分で作るよりプロの方が上手いです。特に百合根となると、なかなかないので」

 初めて昴さんと食事に行ったのは、銀座の天ぷら屋で、それを思い出したから……というのは口にできなかった。

 メニューをたてて、こっそり昴さんをチラ見すると、嬉しそうなアヒル口になっていて、ああ、これはだいぶ機嫌が良いんだなとわかる。


 そうやって昴さんに目を向けられたのは、僅かの間。アジ刺しが運ばれてくると、目を奪われる。

 丸い皿の中央にポン酢が注がれ、その周りに緑が鮮やかな万能ネギがたっぷり。そしてそのふちを飾るように、アジの刺身が綺麗に並ぶ。まるでふぐ刺しのようだ。

 これは箸でざざっと何枚もとって、豪快に食べるやつなのか、やつなのか!!

「これ一度やってみたかったんです!!」

 ふぐじゃなくて、アジだけど。嬉しくて箸を持つ手が思わず唸る。ざざっと三〜四切れをつまんで、万能ネギと一緒にポン酢につけて、ショウガもちょっとのせて。お口にぱくり。

「美味しい……」

「万能ネギたっぷりなのが、また良いですよね」

「実家ではあまり万能ネギって買わなくて。なんだか高そうな、手に届きにくい高級食材なような」

 そう私が言うと、昴さんの不思議そうな問いかけが帰ってくる。

「高い物ではないですよね」

「……気分の問題です。ネギより量が少ないし、使える料理が限られるので、コストパフォーマンス的に高く感じるような」

「なるほど。他の料理に使い回せるかどうか、そこは家計では重要な点ですね」

 長いこと使い込んできたんだろうなという風情の、青と白のレトロなお皿もアジ刺しの透き通った美しさをよく引き立てていて。

「ここが銀座な理由がわかった気がします」

 味ももちろん。見た目も美しい。そして細かい所でケチらない。

 一品でるたびに、こまこまと取り皿を変えてくれたり、小さい店の中で、きっちり客の食べるペースを把握して、気を利かせてくれてる感がする。

 合間に食べるニラのおひたしも、ニラの香りがしっかりでピリリと辛くて。いぶりがっこのスモーキーな香りと、しゃきしゃきの歯ごたえが、日本酒に合う。


「鳥『と』揚げ出し豆腐だと思ってました」

「鳥『も』揚げ出しですね」

 そう。上品なお出汁の中に入ってるのは、揚げ出し豆腐と、鶏の唐揚げ。ささっと千切りネギも添えられている。熱々のうちに器によそって。ふーふー言いながら食べる。

「豆腐があっつ熱!! でも美味しい。こう、肉々しい感じが新鮮で」

「魚が続いていますからね」

「お出汁が上品だから、よけいに素材の味が引き立つような」

 透き通った出汁は、砂糖も塩分も控えめで、でも旨みたっぷりで。

「あ……なんか、良い出汁って体に染みますね。出汁が上手い店にはずれなしという気がします」

「真理ですね」

 体に染みる味わいに、思わずほうっと溜息がでる。


 百合根揚げは、ごろっと二つでてきた。

 一口かじると、さくっとして、ほろほろと口の中で溶け出す。塩気が利いているから、このまま食べてもとても美味しい。でも、もうちょっと塩気がある方が好みだなと思って気がついた。

 百合根揚げを一口囓って、しじみ汁を啜る。口の中で出汁を染みた百合根が美味しくて、美味しくて。

「これ、しじみ汁と合わせると最高です」

「しじみ汁……もう、飲みきってしまいました」

 最高のパートナーを失った寂しさでしょんぼりしている所で、卓上の塩入れを見つけた。蓋を開けると、ざらざらとした塩の結晶がつまっていた。

 百合根揚げにかけて食べると、ただの塩より、塩気の角がとれてて旨みを感じる。

 これも良いお塩なんだろうな……。



 一通り、食べて飲んで、ほっと一息ついて気がついた。

 しまった。また食べ物以外、何も話をしていない。というか、昴さんの顔すら見ていなかった。

 ふっと目をあげると、とっても楽しそうに店内を見回す昴さんが目に入った。


「昔。ここにランチを食べにきたときは。いつか誰かと一緒に。そういつも思ってました。今、夢が叶ったような気分で、嬉しいです。恋音さんと、ここに来られてよかった」

 ああ……勝手に食べ物に夢中になって、昴さんを置いてけぼりにしていないかと思っていたけれど、昴さんもこの空気を、私と一緒に過ごす時間を、特別だと思ってくれたんだなと伝わってきて。

 思わず、ふふっと笑ってしまった。




 帰ってきて、撮った料理写真をパソコンに取り込みながら、僕の心はまだふわふわと浮かれていた。

 何年も、何度もあの店に、一人で行って、夏の冷や汁定食を食べながら、いつか誰かとと、ずっと思っていた。

 恋人なんてできるはずないし、せめて友人なり、仕事で世話になった人にお礼をしたり、そういう付き合いでも良いから。そう思いつつ、それさえ何年も叶わないと、永遠に訪れない夢のようで。

 店に行くのは数年ぶりだったのに、店員のおばさんは、僕の顔を覚えててくれた。それがとても嬉しくて。

 そして何より、恋音さんが夢中で食べ物を食べる姿が愛らしくて。一人で食べるよりずっと美味しいような、食べ物の味もわからなくなるような。でもとても心地よくて、幸せな時間。

 また、そんな時間を過ごしたい。


 数日後。夕食後の仕事中、深夜0時をすぎる頃、恋音さんの飯テロツイートを楽しみに、仕事の手を止めてTwitterを開く。今日一緒に食べた食事だから、ツイートを見なくてもわかるのだけど。

 恋音さんと一緒の食事は、毎日これは夢じゃないのかって疑うくらいで。飯テロツイートを見ると、これは夢じゃないんだって不思議な安心感があって好きだ。

 流れてくる飯テロツイートにいいねをしつつ、ふと思い出す。

 そういえば、一緒に行きたい店をDMで送ってくれと言われていた。店のURLを送っておこう。

 恋音さんが喜んで食べてくれると良いなと思いながら、クリックした。


 深夜に美味しそうな店のサイトを送られて『飯テロだ!』と恋音が叫ぶ側になったのを彼は知らない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る