外伝

飯テロの罠

 納期に間に合わせるべく、徹夜で仕事を終わらせ、寝て起きた。

 お腹がすいているが、もう少し寝ていたいと、うつらうつら微睡んで、二度寝する。

 そんな今までと変わらない、ごく普通のありふれたある日。

 今日も僕と彼女の戦いが始まる。


 カチャリ。そっと扉が開く音がして、隙間からご飯の炊ける匂いが漂ってくる。思わずごくりと喉を鳴らし、どきりと心臓が跳ねた。

 土鍋で米を炊いたご飯。米粒がふっくらして、お焦げが香ばしくて、ご飯だけでも美味しかった……と思い出すだけで腹が空く。

 これは恋音さんが炊いたご飯で、一緒に暮らしている事実が、夢じゃ無く現実なのだと、改めてうろたえる。

 腹が空きすぎて辛いし、恋音さんの食事なら、食べたくて食べたくて仕方がないが、同時に照れくさくてどんな顔して部屋を出て行けばいいのかわからない。寝たふりを続けながら深呼吸をした。


 僕達の仕事に定時も、定休もなく。寝る時間も不規則で。だから一緒に住んでいても、一緒に食事をするとは限らない。特に仕事が忙しい時は、遠慮して声もかけない。

 でもカレンダーに書かれた日付で、いつ修羅場が終わるかはわかる。一晩寝てそろそろ良い頃合いに、そっと扉を開けて、隙間から匂いを漂わせる。

 それが彼女の戦略だ。美味しい匂いで誘うだけで、静かに待っている。


 一度くらい名前を呼んで起こしてもらいたい。そう、ワガママを言ってみたが、照れくさいのかその願いを叶えてくれたことがない。

 声をかけてくれたら、すぐに起きて出ていくのに、彼女は僕の名前を呼んでくれない。代わりに飯テロをしかけてくる。恋音さんは卑怯だ。

 意地を張って、寝たふりを続けても、いつも食欲に負けてしまう。それが少し悔しい。


 少しして、味噌汁の香しい匂いが漂ってきた。今日の出汁はなんだ、味噌は? 具材は?

 僕はシンプルにわかめと豆腐の味噌汁が好きだ。毎日飲んでも飽きが来ないくらいに。でも恋音さんは、毎日違う味の方が良いらしい。

 この前はピーナッツ味噌を買ってみたと、嬉しそうにはしゃいでたのが可愛かった。ちょっと甘い味のピーナッツ味噌を、普段の麦味噌と混ぜ合わせ、シャキシャキ爽やかな茗荷と、出汁が美味いシジミを入れて……あれは絶品だった。

 

 炊きたてのご飯に、味噌汁の次は……焼き魚の焼ける匂い。脂の乗った匂いは、青魚だろうか? 今の旬は……と考えて、干物なら旬は関係ないかもしれないと悩む。

 料理考察で思考を逸らし、空腹を紛らわせようとするが、無駄な抵抗かもしれない。次々と漂ってくる匂いの数々に、腹の虫はなりっぱなしだ。

 今日こそは我慢してみせるぞと、扉に背を向ける。ふと背後に気配を感じた。


 むにゅ。肉球が僕の足を踏みつける。幸音だ。もぞもぞと毛布の合間にすべり込んできた。そっと手を伸ばすと、柔らかでふわふわした温かさが、思わず頬が緩む。

 これも彼女の罠だ。僕が料理の匂いに釣られないから。痺れをきらして、幸音を部屋に入れたのだ。

 ざらざらと舌で指先を舐められ、がぶりと噛まれる。最近は手加減を覚えてくれたのか、それほど痛くない。

 そのくすぐったさに、だんだん眠気が薄れていく。だんだん料理の匂いが濃くなってくる。

 なんだかおかしい。

 寝返りをうつ振りをして、そっと目を開けて、扉を見てみると、微かに空いた扉の向こうに、見えたのは……おでん。

 白い皿の上に盛られた、味が染みてそうな卵や大根の色に、思わずごくりと喉がなるのと同時に、笑いがこみあげてくる。


 恋音さんも意地を張っているのか、僕の部屋の前に椅子を置いて、その上におでんの入った皿を乗せる。でも起こさない。

 その子供っぽい戦略が、可愛いすぎて負けた。

 大人しく起き上がり、幸音を部屋から追い出して、部屋の前の椅子からおでんを回収し、リビングへ向かった。

 カウンターの向こうで、皿に魚を盛り付けていた彼女が顔をあげ、恥ずかしそうに微笑んでいる。


「おはようございます。恋音さん」

「おはようございます。昴さん。ちょうどご飯ができたところなので、一緒に食べましょう」

「これ、置き忘れてますよ。声をかけてくださってよかったのに」


 慌てたように、ぱたぱたと僕の側にやってきて、おでんを奪われた。視線はうつむいたまま、小さく囁く。


「……昴さんに起こしてもらったことがありません」


 思わずぽかんと間抜けに口を開けてしまった。そんな理由で、回りくどい罠をしかけて待っていたなんて、知らなかった。


「寝ている女性を起こすのは、失礼だと思ってたのですが」

「そこは、男も女も関係ないと思います」


 ちょっとすねたような表情が可愛らしくて、白い頬に触れたいなと思ったら、上目遣いの恋音さんと目があった。


「キスのてん……」


 そう彼女が言いかけたところで、二人の腹が同時に、ぐーとなった。

 やはり僕達の恋心は、胃袋に勝てないらしい。


「食べましょうか」

「そうですね。せっかくの料理が冷めないうちに」


 食べ始めると箸が止まらなくて、すっかり先ほどの甘くなりかけたやりとりを忘れた。

 夜には何かを食べに行こうか、食材を買いに行くのも良いだろうかと、話題は飯の事ばかり。

 それが二人の、ごく普通のありふれた日常。

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