二人でシェアしましょう

 桐谷さんの部屋に家具がなくて、本気で引っ越すつもりだったんだと実感した。間に合わなかったらと考えただけで、ゾッとする。


 全力で走って、間に合ってよかった。

 立ちっぱなしで話すわけにも行かず、椅子もないので、フローリングにじかに座った。

 なぜか二人とも、正座になったのは、真面目な話をするからかもしれない。

 キャリーケースから解き放たれたシオンが、自由気ままに、部屋の中をうろついている。


「桐谷さん。どうしていきなり、この家を出て行こうとしたんですか?」

「……それは……」


 桐谷さんが何度も言いかけてためらって、言いにくそうだった。私はさらに踏み込んだ。


「裕人さんから聞きました。昔捨てられた実のお母様に付きまとわれて、迷惑してると」

「そんな話まで聞いたのですか」


 大きくうなだれて、額に手を当てた。


「私が知ってるのは、それだけです。それでどうして、家を出て行くのですか」


 桐谷さんは、小さく「ほう……」と息を吐き、観念したように口を開く。


「母がしつこく付きまとうのは、僕の金が目当てなんです」

「え?」

「このマンション。購入する時に父の遺産も使って、もうじきローンも完済です。このマンションを売って、一緒に暮らそうと、しきりに言ってきて」


 お母様はお金に困っているらしい。桐谷さんが稼いでいることも調べたようだ。


「ある日突然、僕の元へやってきて。おかしいと思ってました。どうして、今更、笑顔で一緒に生活しよう話せるのか」


 胡散臭いものを感じて、セキュリティの強い、このマンションに逃げた。


「それでもしつこくやってきて。媚びて、泣き落として、情に訴えてる割に、言葉の端々に金の話がちらついて、イライラする」


 桐谷さんが、ぎゅっと眉間にシワを寄せて睨んだ。


「このマンションに逃げても諦めないし、追い返すのもうんざりして。父の遺産をあの人に一円足りとも渡したくない。裕人にマンションを譲って、逃げようと思ったんです」


 そんなに追い詰められてたのに、誰にも何も言わずに抱え込んでいたのか。

 辛そうな顔を見ているだけで、私まで辛い。


「どうして何も言わずにいなくなろうとしたんですか」

「クリスマスの日、あの人が飯テロ女をフォローしていました。僕との関係に気づいて、居場所を特定するのも、時間の問題かもしれない。DMでの付きまといで鈴代さんを苦しめたくなくて。距離を置こうと」


 複数アカウントを使い分け、他人の振りをして情報をかき集めている。桐谷さんならIPアドレスを調べて特定できても、私だと騙されてしまうと心配だったという。


「DM攻撃をされた時、真っ先に駆けつけて助けてくれましたよね。私も桐谷さんを巻き込んだんです。だから桐谷さんが困ったら助けに行くし、喜んで巻き込まれます」

「鈴代さんの気持ちは、とても嬉しいです。ですが、僕の事情に鈴代さんを巻き込んで、傷つけたくないんです」


 目を伏せた桐谷さんの瞳の奥に、諦めと絶望の色を感じて、苦しくなる。


「いくら縁を切っても、血の繋がった親子であることには、変わりません。あの厚かましさなら、死ぬまでまとわりつくでしょう。僕はもういいんです。諦めました」


 桐谷さんは、まっすぐに私の目を見た。

 とても一生懸命で、真剣で、目を反らせないほどの強い眼差し。


「でも僕と結婚する人は、あの人が義理の母になってしまうのです。一生付きまとわれて、金の無心をされて、嫌な思いをし続ける」


 そっと桐谷さんの手が私の手に触れた。掠れた声が耳に響く。


「鈴代さんは優しすぎる。酷いことされても、僕が怒ったから、もういいと許してしまう」

「私は、怒るのが苦手だから……」

「そう。怒るのが苦手だと、おっしゃってましたね。だから、もしあの人に金をせびられ、付きまとわれて、はっきり断れますか?」


 言われて想像してみる。確かに、目的が金目当てなら不愉快だ。でも桐谷さんのお母様を無下にはできない。

 良太をはっきり拒絶できず、桐谷さんに助けてもらった。DM攻撃でショックを受けて、慌てて助けを求めた。

 いつだって桐谷さんに守ってもらうばかりで、一人で何もできずに心配させてしまう。


「僕は大切な人が、嫌な気分をし続ける一生を、送ってほしくないです。だから僕は結婚しないと決めました。だから鈴代さんと、付き合えないのです」


 桐谷さんのいじらしさに、胸がぎゅっと苦しくなる。自分一人が苦しめば良いんだって、どこまで孤独でいるつもりなのか。


「私は桐谷さんが思うほど、弱くも優しくもありません。私に迷惑だと遠慮して、何も言われないほうが辛いです」


 手を振り上げたら、たぶんぶたれると思ったのだろう。大人しく目を閉じた。

 私はそっと桐谷さんの頬を両手で包んで、額にキスをした。


 目を開けた桐谷さんと、目があって驚かれる。桐谷さんの顔が真っ赤だ。

 慌てて離れようとする、桐谷さんの頬を包んで、まっすぐに見つめる。


「私が飯テロツイートを始めたのは、私を傷つけた元婚約者への復讐でした」

「そうなの、ですか?」


 桐谷さんが驚いて、赤い顔が、すっと真面目になった。


「ええ。振った女が、昔よりどんどん料理上手になっていく。それを指をくわえて見てるしかない。あの男を悔しがらせたい。そういう復讐です。けっこう醜い女でしょう?」

「いえ。怒って、当然です」

「飯テロで復讐したように、その場で怒れなくても、私は私のやり方で戦います」


 はっきりきっぱり断言したら、桐谷さんがやっと気を緩めたように、微かに微笑んだ。


「凄いです。鈴代さんのことを、何もわかってなかった。僕よりずっと強いのすね」

「女は案外したたかなんですよ。だから強がってばかりじゃなくて、私には弱音を見せてください。その方が嬉しいです。まだ何かあるのではありませんか?」


 桐谷さんの体がビクッと震えた。図星だったのだろう。

 そっと離れると、桐谷さんは眼鏡を外して、両手で顔を覆った。


「あの人は、何度も言うんです。一緒に暮らしたら、手料理を作ってあげると」


 そう言われて、私の話を思い出しましたらしい。母が亡くなってから、もっと料理を習っておけばよかったと後悔した話を。


「僕も、今は散々あの人を嫌ってても、死んだら、母の味を永遠に失って後悔するのでしょうか?」


 桐谷さんの弱音が、深く心に突き刺さった。人の死はとても残酷だ。

 生きてる間は、私も両親への不満はいっぱいあった。でも今は不満なんて忘れて、もっと親孝行してればよかったと、悔やんでいる。

 好きだった人が亡くなれば、もちろん辛いが、嫌いな人間であっても死んでしまうと、後悔の思いが湧いてくる。死が心を縛るのだ。


「お母様の味は、諦めてください」

「え?」


 思わずという感じに桐谷さんが、顔から手を離した。私を呆然と見つめる。


「その代わりに、私が桐谷さんに料理を作ります。他の人の料理なんて、食べなくても良いってくらい、いっぱい作ります」


 桐谷さんが、目を見開いて固まった後、ポツリと呟いた。


「まるでプロポーズみたいですね」


 無自覚だったけど、完全にプロポーズだ。頬が熱くなる。桐谷さんも、恥ずかしそうに、両手で顔を覆っている。

 でも、ここで恥ずかしがって、逃げてはいけない。大事な事はちゃんと言わないと。

 白くて細くて華奢で、少しだけ筋張った手。私の愛した人の手に、そっと触れた。


「私達、凄く似てると思うんです。だから。一緒に悩みませんか? 後悔しないために、笑って生きるためには、どうしたらいいか。二人とも、幸せになる方法を探しましょう」


 私の言葉に驚いたように、桐谷さんは顔から手を離した。

 今にも泣き出しそうな、子供のように純粋な瞳が見えた。


「確かに、義理の母親に、付きまとわれるのは、私も嫌です。でもそれ以上に、桐谷さんが好きだから。一緒にいたいです」


 いつのまにかシオンも側にやってきて、桐谷さんの膝の上に登りだす。自分の居場所だと、主張するような仕草だ。


「僕は、鈴代さんを、幸せにしたいのです」

「私の幸せは、美味しい料理を大好きな人と一緒に食べることです。もう、一人ぼっちの食事は寂しくて、桐谷さんと一緒じゃなきゃ、嫌なんです」

「僕も。鈴代さんと一緒の食事が、幸せです」


 何よりも食べることが大好きな私達は、本当にそっくりで。一緒に美味しいものが食べられるだけで、幸せなんだ。


「私。桐谷さんに守られるだけじゃなくて、自分の意思で、拒絶できるようになります。だから側にいさせてください。喜びも悲しみも、全部二人でシェアしましょう」


 一本のワインボトルを、二人でシェアするように、これからの時間を、ずっと二人でシェアしていくんだ。


「喜びも悲しみも分け合う。そんなこと、僕は知りません。でも、鈴代さんと一緒なら、できる気がしてきました」


 嬉しくて桐谷さんを、ぎゅっと抱きしめたら、間に挟まれたシオンが、鳴き声をあげて文句を言った。

 思わず二人で笑い出して、緊張の糸が緩む。


「鈴代さんに差し上げたいものがあります」


 そう言われてキッチンについていく。青い江戸切子の皿がずらりと並んでいた。

 大皿、小皿、小鉢にボウル、数えきれない。

 ここまで揃うと圧巻だし、かなりお金もかかったはずだ。


「鈴代さんと会うたびに、江戸切子のグラスが好きだと言ったのを、思い出してしまって、気づけば何度も、ネットでポチッと」

「会うたびに、毎回買ってたのですか?」


 そんなに思ってもらえてたなんて、知らなかったから、頬がカーッと赤くなる。


「本当はもっと早く、見せたかったのですが、なかなか、言い出す勇気が出なくて。増えるほどに、多すぎかもしれない。高価なものは困ると、言われるかもしれないと、迷って」

「そこまで、私を考えてくれたのが、とても嬉しいです。私、いっぱい料理を作ります。この皿に盛り付けて、一緒に食べましょう」

「とても楽しみです」


 そう言った時の、無邪気な子供みたいな笑顔が、たまらなく可愛い。

 この笑顔を私だけのものにできると思ったら、嬉しくてしかたない。


 人は裏切るが、食べ物は裏切らない。

 ……そう思ってた。

 でも桐谷さんは裏切らないと信じられた。

 胃袋で繋がった私達の絆は、実は、けっこう、強いのかもしれない。

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