桐谷昴の謎
「食べたい料理はありません」
そう言われたときに、私はやっと気づいた。
胃袋と契約で繋がった私たちは、契約が切れてしまえば、恋人どころか友人ですらない、赤の他人だ。
「契約」という利害関係は、利害の不一致で、簡単に脆く崩れ去ってしまうのだ。
その残酷な真実に呆然としたまま、私は桐谷さんと別れた。
一生結婚しないと決めている。だから付き合えない。
思い返すたびに、その言葉がズシンと心に響く。
恋愛=結婚ではないと思う。でも三十路になって、結婚しないと言う男と、恋愛だけ楽しんでていいのか? それで時間を浪費して、結婚できなくなってもいいのか?
たぶん、私が良いと言っても、桐谷さんがダメだと言う。真面目で優しい人だから、私のことを思って、他の男となんて言っちゃう。
なんで結婚しないと決めてるの? 聞きたくて仕方がなかったけど、聞けなかった。
何か事情があるんだろう。私に解決できるだろうか? あそこまではっきり断られて食い下がるのは、迷惑だろうか?
一人でぐるぐる悶々したまま、機械的に食事をして、仕事をして、日々の日常をこなす。
仕事のミスはないけど、頭の中は桐谷さんで一杯で、仕事以外はちっとも頭が働かない。
スマホを手にして、琴子に電話をかけた。
『はあ? 好きなのに付き合えない? 一生結婚しないと決めている? 意味不明!』
開口一番、ストレートすぎる言葉に呆れた。もう少しオブラートに包めないかな。
『私もどうして結婚したくないか、わからなくて……どうしたらいいのかな?』
『どうもこうも、問い詰めなさいよ!』
正論だがそれができたら悩まない。
『事情もわからないし、はっきり断られたのに迷惑じゃ……』
『事情はわからないけど、本人に聞けないのね。まったく、アンタの意気地なし。わかってても毎回腹がたつわ』
琴子の遠慮のない物言いも、昔から変わらず、わかっていても心にグサグサ刺さる。
『本人に聞けないなら、知ってそうな人に聞けばいいじゃない』
『え?』
『一番桐谷さんと仲が良い人っていったら、一人しかいないでしょ』
そう言い切って、強引に待ち合わせ時間を言われ、電話を切られた。そして琴子に引きずられ、フォルトゥーナに向かった。
確かに。桐谷さんと一番仲が良いのは裕人さんだ。相談だけでもいいかもしれない。
閉店時間で、客はなく、加賀兄弟二人だけ。話し込んでも迷惑じゃなさそう。
「いらっしゃいませ。鈴代さん久しぶりで」
言いかけて、琴子の顔を見て、裕人さんの笑顔が引きつった。
琴子がめちゃくちゃ怒ってるの顔に出てるもんね。智さんも「うわぁ……」と呟きながら、逃げるように席を移動した。
「あ、あの。俺、また琴子さんを怒らせました?」
「今日は裕人さんじゃないわ。桐谷さんに怒ってるの!」
「昴に?」
「昴兄に?」
加賀兄弟は顔を見合わせてため息をつく。裕人さんが眉をしかめ、申し訳なさそうした。
「昴がまた何か鈴代さんにご迷惑をかけたんですか。本当にすみません」
「迷惑とかではなくて、わからないことがあって。でも本人に聞けないので、何か知ってたら、教えていただけないかなと」
私がオロオロしてしまったせいかもしれない。裕人さんは小さく「昴のバカ」と呟いた。
本気で聞いてくれるのだろう。真摯な態度に、ほろほろとこの前のデートの話をする。
「一生結婚しないと決めている? だから付き合えない? 昴がそんなことを?」
「何それ? 昴兄。なんで逃げるかな……」
二人とも予想外だったのか。それじゃあ、何もわからないだろう。
「前から昴の様子がおかしいとは思ってたけど、聞いても言わないし」
裕人さんは、はあと盛大に溜息をついて言った。
「すみません。アイツの悪い癖で、迷惑がかかるとか遠慮して、困ってても誰にも何も言わずに、一人で勝手に決めてしまうんです」
「迷惑がかかるって、桐谷さん、何か困ってることがあるんですか?」
桐谷さんは私を助けてくれたのだ。困ってるなら力になりたい。思わず前のめりになったが、裕人さんは困ったように俯いてしまう。
「兄貴。例の件かな?」
「そうかもしれない。でも昴から直接聞いてないし、俺の推測だから……」
「でも何か関係あるかもしれないし、言ってみたら?」
裕人さんがとても困ってためらってるのがわかる。きっと難しい問題だから、慎重に悩んでいるんだろう。
「ああ、もう! なんで裕人さんも恋音も、ウジウジしてんのよ。桐谷さんが困ってるなら、乗り込んで吐かせればいいじゃない!」
琴子が大人しく黙ってるはずがなかった。裕人さんは驚きのあまり、ぽかんと口を開けている。
「吐かせるって、琴子。そんな荒っぽい」
「あのね。裕人さんはずっと桐谷さんの様子がおかしくて、心配してたけど、何も言ってくれなかったのよね」
「そ、そうですね」
「それは怒るべきよ! 桐谷さんにとって、一番頼りにしてるのは裕人さんでしょう。大切な人が心配してるのに、遠慮して言わないってのは、優しさじゃなくて酷いの。桐谷さんも恋音も優しすぎ!」
ズバリと啖呵を切った琴子が、あまりにかっこよくて、思わず拍手しそうになった。智さんも囃したてるように口笛を吹く。
裕人さんが大きな笑い声をあげた。
「本当に琴子さんは凄いな。そうですね。その通りだ。俺は昴に怒っていいんだ。吹っ切れました。ありがとうございます」
裕人さんがとても嬉しそうに笑う。手放しに褒められたせいか、琴子が照れて「べ、別に……」とかブツブツ言ってる。
その様子を見て智さんはニヤニヤと笑った。私は小声で話しかける。
「二人は上手くいってるんでしょうか?」
「心配する必要は、ないかもしれませんね」
裕人さんが笑顔を消して座り直し、話始める。
「鈴代さんは昴の家族のこと、何か聞いてますか?」
「えっと。お母様が小さい頃にいなくなって、お父様が中学の時に交通事故で亡くなって、裕人さんの家に引き取られて育ったと」
「そこまで話をしてたんですか。昴は鈴代さんを信頼してたんですね」
裕人さんにしみじみ言われて嬉しかった。信頼されてたならよかった。
少しためらうように唇を震わせてから、裕人さんはおもむろに口を開いた。
「その母親なんですが。恋人ができて駆け落ちしたらしいんです」
「え? だって、お父様もご存命の頃だし、桐谷さんも……」
「離婚もせずに、昴兄を父親に押し付けて、逃げ出した。最低の人だよ」
智さんが毒づく。いつもの人懐っこい笑顔からは、想像もつかないくらいに怒った顔で。
ドスンと心臓を殴られたような重みがのしかかる。そんな辛い過去を抱えてたなんて。
互いの過去を語り合ったとき、不自然さを感じなかったけど、我慢してたのだろうか?
「そんな母親だから結婚にためらいがあるのかもしれません。でも鈴代さんはそんな人に絶対ならないし、どうしてそこに拘るのか」
裕人さんは眉間にシワを寄せて、首を傾げる。智さんが怒った顔で口を開いた。
「また現れたの関係してるかもね。そんな酷い仕打ちをして、長年会いに来なかったっていうのに、いまさら現れたみたいだし」
その時ピンときた。
「まさか。化粧が濃いめで、ファッションが派手で、若く見えて綺麗な方ですか?」
「鈴代さん、会ったことがあるんですか?」
「いえ。去年の秋頃、桐谷さんと揉めてるのを、遠目に見ただけで」
あれはお母様だったのか。遠目だったし化粧も濃かったけど、ずいぶん若く見える人だ。
裕人さんはコメカミをヒクヒクさせている。
「何が大丈夫、たいした問題じゃないだ。これは怒っていいな。うん、今度こそ怒る」
裕人さんが静かに、でも、もの凄く怒ってる。普段優しい人ほど、怒らせると怖い。
「閉店の片付けをしたら昴の所に行ってきます。鈴代さんはどうしますか?」
問われて少し迷った。でも琴子が背中を押してくれたから。勇気を出して怒ってみよう。
「はい。一緒に行きます」
その時だった。カウンターの中からスマホの音が聞こえた。裕人さんが息を飲んだ。
「昴から電話だ」
なんだか嫌な予感がして、背筋がぞくりとする。裕人さんは慎重に電話に出た。
「昴、どうしたんだ? 今から家に行こうと思ってたところ……え?」
そこで言葉が途切れて、相槌も打たずにじっと聞いている。どんどん顔が険しくなるのがわかった。
「馬鹿野郎。ふざけるな。勝手に決めて。俺はそんなの受け取らないからな。今すぐ行くから、そこで待ってろ!」
裕人さんが怒鳴るなんて、驚いた。琴子も智さんも目を丸くしてる。
険しい顔のまま、身につけていたエプロンを荒っぽく脱ぎ捨てた。
「今すぐ行きましょう」
「え? 何があったんですか?」
「昴が、あのマンションから引っ越す。もういらないから俺にマンションをやる、だそうです。本当に一方的すぎて腹がたつ」
桐谷さんが消える? もう二度と会えないの? それは嫌だ。
ふと気づいてスマホを見たら、メールが一通届いてた。桐谷さんだ。
『鈴代さんの幸せを、遠くから祈ってます』
そのメールを見て目眩がした。Twitterを見ると「桐谷」さんのアカウントは削除されてた。アビシニアンもフォローを外され鍵アカになってた。
「兄貴。店の片付けは、僕がやっとくよ」
「ああ、頼んだ」
加賀兄弟がそんなやり取りをしてるのさえ、もどかしくて、私は一人で飛び出した。
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