幕間5

 鈴代さんが帰ったあと、一人で皿を洗う。それはいつものこと。

 でも契約でいいですと言ったときの、鈴代さんの顔が、頭にこびりついて、皿を洗っても洗っても、落ちない。


 とても悲しそうな顔をして。見ていて苦しかった。

 素直に付き合いましょうと言っていたら、あんな顔をさせずにすんだのだろうか。でも、それはできない。鈴代さんを苦しめたくない。



 皿洗いを終えて、パソコンを立ち上げていくつか確認する。

 橋田夫妻の件はもう大丈夫だろう。しばらくパソコンの監視をしていたが、鈴代さんに余計な事をしてる余裕はなさそうだ。


 DM攻撃をされたとき、電話越しに聞いた彼女の声は、涙まじりに震えてて、怯える彼女を守りたいと思った。

 橋田恵子が犯人だと告げた時、理不尽さに怒るかと思ったのに、怒らなかった。


 人に怒りをぶつけるのが苦手で、繊細でか弱い鈴代さん。その優しさが僕は好きだけど、だからこそ不安になる。

 このまま一緒にいたら、彼女を傷つけてしまう。



 ぴんぽーん。チャイムが鳴ってちらりと時計を見る。もう深夜十二時を過ぎている。こんな時間に誰だ?

 一瞬、あの人の顔がよぎって緊張した。恐る恐る玄関の扉に近づき、覗き窓で確認する。


「昴兄ごめん。こんな時間で」


 いつもと変わらない愛嬌のある笑顔。智の気の抜けた顔に、肩の力が緩んだ。そうだ。このマンションなら、僕の許可なしに、あの人がここまで、たどりつくことはできない。

 苦笑いを浮かべ、扉を開けて文句を言った。


「こんな時間に何の用だ」

「いや、近場で飲んでたら、終電逃しちゃって。泊めてよ、昴兄」

「そういうことなら、先に連絡しろ」


 文句など気にもとめずに勝手に入ってくる。二、三歩歩いただけでよろけた。

 よく見るとだいぶ顔も赤い。そうとう酔っ払ってるのだろう。


「一人で帰れないほど、飲みすぎるな」

「飲まなきゃやってられない時も、あるでしょう?」


 その声が意外なほどに悲しく響いて、どきりとした。思わず智の顔を覗き込むと、笑顔が綺麗さっぱり消えていた。


「もしかして、昴兄も飲みたい気分?」

「そうだな」

「じゃあさ、もうさ、男二人で愚痴り酒とかしようよ」

「タダ酒飲みたいだけじゃないか?」

「昴兄はいつも良い酒揃えてるもんね。でも、今日はちゃんと用意してきたよ」


 よく見ると買い物袋を手に持っている。中には大量の缶ビールと缶チューハイがあった。


「こんなに飲むつもりだったのか?」

「宿代がわりの差し入れ」


 図々しいかと思えば、律儀なようでいて、やはり自分勝手で。

 でも、そういう智に振り回されて、今は少し気が楽だ。一人で思いつめずにすむ。

 智は不思議なやつで、僕や裕人が落ち込んでる匂いを嗅ぎつけるように、いつもこういうタイミングでやってくる。

 だから憎めない。


「あれ? 何か、昴兄の部屋にしては、物が多いような……」


 いつもは何もないリビングに、ダンボールが並ぶ。鈴代さんは気に留めてなかったのに、智は以外と敏感だ。


「もうじき年末だからな。大掃除でいらないものを整理している」


 それだけで智は納得したらしい。すぐに飲み始めた。

 智が買ってきた缶ビールを、ぐいと喉に流し込む。そういえば今日は、酒に合う料理ばかり並んでたのに、飲まなかった。

 酒よりも料理よりも、鈴代さんが気になりすぎて落ち着かなかった。



 智が笑顔を消して寂しげに、ポツポツと語る。


「絶対恋人と別れたほうが、早見先輩は幸せになるのに。不幸に見えても、当人がいいって言うなら、付き合うのを辞めたほうがっていうのは、僕の勝手な押し付けかな……」


 その言葉がぐさりと心に突き刺さった。

 僕と付き合わないほうが鈴代さんの幸せだ。と決めつけるのは、自分勝手だろうか?

 ぼんやり黙ってしまったからか、智が肩をポンと叩いた。


「昴兄大丈夫? 悪酔いした?」

「いや、大丈夫だ。ちょっと考えごとしてただけで」


 智が眉根を寄せて、首を傾げた。とても心配そうな顔をしている。


「昴兄の悩みって、やっぱりあの人?」

「あの人って、鈴代さんか?」

「いや。前にこのマンション近くで、あの人を見かけたから。でも、鈴代さんの方か」


 裕人が言っていたが、すっかり忘れていた。


「あの人が関係ないならいいけど。恋愛の悩みなら聞くよ。何があったの?」


 あの人が関係なくはない。大いにある。だけど、それは言いたくなかった。


「鈴代さんは繊細でか弱い感じがして……一人で大丈夫か心配になる」

「そうだね。峰岸先輩の後ろに引っ込んじゃいそうな、そんな感じするね」

「心配だから、好きだから、守りたいと思うんだ」

「わかる。僕も早見先輩のこと、心配だし、好きだから守りたいって思う。男の意地みたいな」


 智はうんうんと頷いてから、真面目な顔をした。


「でもさ、鈴代さんに関係するなら、ちゃんと話して、二人で考えたほうがいいんじゃないかな?」


 鈴代さんに事情を話す。確かに何も説明しないのは、不誠実なのかもしれない。

 でも話をして怖がらせたくはない。何も知らずに笑顔でいて欲しい。そういう考えはエゴだろうか。


「あ、そろそろクリスマスだし、どうやってデートに誘ったらいいか、悩んでたり?」

「ちが、う。……違わないか?」

「それ、どっち?」

「デートじゃないが、二十四日は契約で食事にいくから、どこに行くか場所に悩んでた」

「それデートじゃん。しかも約束してるんだ。それを契約って言うのが昴兄らしいよね」


 ヘラっと笑う智は何も知らない。僕がデートを断って、契約だと言ったことを。


「いいな。僕も早見先輩とクリスマスを過ごしたいな。例え先輩が恋人と別れる気がなくて、一日限りでも、想い出になるし」


 一日限りでも想い出。そう考えたら、重かった気持ちが少しだけ軽くなった。

 鈴代さんが僕を好きになるなんてありえないと思ってたから、好きだと言われてとても嬉しかった。

 嬉しくて、嬉しくて、すぐに突き放せなかった自分の弱さが情けない。

 二人で食べて美味しかった料理の味を想い出に、今度こそ離れないと。

 僕の事情に巻き込んで傷つけてしまう前に。



 床に寝っ転がって酔いつぶれた智の上に、幸音シオンが乗って寝ている。智が重さで苦しそうに唸った。

 自由気ままな幸音シオンの寝顔を見てるだけで、心が暖かくなる。

 リビングに布団を持ってきて、智を引きずって放り込んだ。


 酔っ払ってるはずなのに、何故かまだ眠くならない。

 しかたなしに本棚に手を伸ばし、段ボールに入れる作業を始める。ふと手に取った星座図鑑を広げて、眺めてしまった。


 一年に一度しか会えない織姫と彦星を、可哀想だという人が理解できなかった。

 織姫と彦星は、こと座のベガとわし座のアルタイルだ。

 星の寿命を人間の寿命に当てはめると、ベガとアルタイルは〇・三秒に一回は会っていることになる。

 何を寂しがる必要があるんだと思ってた。


 ──でも、恋に時間は関係ないかもしれない。


 鈴代さんと約束すると、その日が来るのが待ち遠しくて。

 二人の時間はあっというまに終わってしまい、一秒でも長く二人でいたいと思ってしまう。



 数日後、鈴代さんに電話をして、二十四日はどこに行くか相談した。


「クリスマスって、どこも混み合ってて、疲れますよね」

「落ち着いてのんびりできる場所にしましょうか」

「あ、でもあまり値段が高くない所でお願いします。根が貧乏性なので、高級すぎると、味を楽しむ余裕がなくなってしまって」


 この前のスカイツリーの店。ボトルワインを遠慮したり、何だか様子がおかしかったが、値段のせいで楽しめなかったのか。


「わかりました。高級すぎないところで」

「桐谷さんが連れてってくれるお店は、私から見ると、どこも高級なんですけどね」


 フリーランスで収入が不安定だと言っていた。あまり食べ物に贅沢できないのだろう。


「とにかく、落ち着いてのんびりできて、でもあまり高くないお店で、桐谷さんにお任せします」

「中々に難しい注文ですね。わかりました。考えてみます」

「はい。楽しみにしてます」


 楽しみだと言った声が、本当に楽しそうに聞こえてほっとした。



 通話が終わって、スマホに目を落とし、Twitterを眺める。「桐谷」のアカウントにまたフォロワーが増えている。一度もツイートしていないアカウントなのに。

 いちいちIPアドレスを確かめて、ブロックするのも面倒だ。


 ──この前、可愛い女の子と一緒に歩いてたわね。私も一度お話ししてみたいわ。


 あの人の言葉を思い出しただけで、苛立つ気持ちを抑えきれない。鈴代さんに会って何をする気か。想像しただけで虫酸が走る。絶対に会わせない。

 流れてくるTLから、適当なツイートに、いいねやRTをして行く。

 木は森に隠せ。多くのいいねに紛れて、飯テロ女へのいいねも目立たなくなるように。


 鈴代さんを愛してる。だから守りたい。

 たとえ離れて、独りに戻るのだとしても。

 ……いや、幸音シオンがいる。もう独りじゃない。鈴代さんがくれた幸せの音。

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