涙の豚角煮

 スカイツリーのエレベーターは急速に降下していく。私の心もフリーフォール。

 今度は冬らしい。銀色なシックな空に鳥が飛んでいる。行きの鮮やかな江戸切子に比べて、色が少なくて寂しい。私の心も寂しい。

 エレベーターの中は気まずい沈黙が漂っていた。桐谷さんの後にエレベーターをでた。そのまま振り返りもせずに言った。


「二軒目はどうしますか?」


 その声はロボットのように機械的に響いた。

 いつも私に提案するとき、私をきちんと見て言ってくれるのに、背を向けたままだ。


「やっぱり今日は帰ります」

「そうですね」


 駅まで向かう道を、桐谷さんの背中を見ながら沈黙のまま歩いた。改札にたどり着いたところで立ち止まって言った。


「鈴代さん。もし、僕の事が嫌いになって、契約を辞めたくなったなら、遠慮せずにおっしゃってください」


 その言葉を聞いて、とっさに桐谷さんの袖を掴んで引っ張った。


「そんな大事な事は私の顔を見てい……」


 その先の言葉に詰まった。桐谷さんの顔は苦しげで、眼鏡の奥の瞳から、今にも涙がこぼれ落ちそうで。


「すみません。鈴代さんを、傷つけてしまって」


 卑怯だ。そんな顔でそんなこと言われたら、責められない。

 何をどう言っていいか言葉に詰まって、悩んで、考えて、やっと絞り出した言葉は。


「明日は時間ありますか?」

「……はい」

「また料理を作りに行きます。何が食べたいですか?」

「……え?」


 そう。次の約束があれば、終わりじゃない。まだ私は関係を終わらせる気なんてないんだ。

 桐谷さんは呆気にとられたように、口を開けてしばらく固まった後、くしゃりと笑った。


「豚の角煮はどうでしょう? 今日の料理は少なくて、物足りなくて。がっつりしたものが食べたくなりました」

「わかります。明日はがっつり角煮にしましょう」


 それが別れの言葉だった。



 ぷしゅー。

 鍋から蒸気音が響いた。豚角煮を短時間で作るなら圧力鍋が一番だ。

 ことことこと。

 豚汁が煮えたから火を止めた。

 じゅ……。

 豚バラで巻いたアスパラガスが、フライパンの中で香ばしい匂いを漂わせた。

 からからから。

 油の中で衣を纏った鶏肉が泳いでる。ピクルス入りのタルタルソースは既に準備万端。


「にゃー」


 料理の匂いに引かれたようにシオンが私の足にまとわりついた。桐谷さんもやってきて、メニューを見て頬を緩める。


「あの時の料理と同じですね」

「はい」


 角煮以外は、初めて桐谷さんに料理を作った時と同じメニューだ。

 初めからやり直したい。そういう意思表示のつもりで。


 胃袋で繋がって、心が繋がって、それで桐谷さんをわかったつもりでいたけど、本当は何も知らないことに気がついた。

 何で付き合えないと言ったのか、何か事情があるのかもしれない。


「いただきます」


 二人で向かい合って、食事のはじまり……なのだけど、告白して両思いになって、初めてこうして向き合って座ってる。

 それが気恥ずかしくて、ついうつむいてしまう。ちらっと視線だけ桐谷さんを見ると、桐谷さんもちょっと顔を背けながら、目が泳いでた。うっすら頬が赤い気もする。


 美味しそうな料理が目の前に広がっているのに、二人とも手をつけない。

 私も桐谷さんも重症だ。

 恋心が胃袋に勝ってしまったのだから。


 ようやく角煮に箸を伸ばす。桐谷さんの箸とぶつかって、箸を持つ白くて細くて華奢で、少しだけ筋張った手が目に入っただけで、心臓が跳ねた。

 慌てて、私も桐谷さんも、パッと手を引っ込める。


 どうしよう。き、気まずい。と思っていたところで、いきなり膝に圧力がかかった。

 見下ろすと膝にシオンが乗っていた。


「シオン! すみません鈴代さん」

「いえ、大丈夫です。シオンちゃん可愛いし、猫を膝に乗せて食事は行儀が悪いですか?」

「鈴代さんがよければ、ご自由にどうぞ」


 私達の空気などお構い無しに、膝の上で丸くなるシオンの姿を見たら、緊張がとけて頬が緩んだ。


「シオンが僕の膝の上に乗った事はないです。嫌われているのか」


 なんだか羨ましそうな、情けない声にくすくす笑ってしまった。


「猫って不思議とあまり構わない人に懐いたりしますよね。追いかけると逃げるような」

「刷り込みもあるかもしれませんね」

「え?」

「シオンを最初に拾ったのは鈴代さんです」


 そういえばそうだ。命を救った恩を覚えてくれているのだろうか?

 すぴーすぴーと寝息までたてている、その寝顔からは、想像もつかない。


「覚えていてくれてるなら嬉しいです」

「猫の知能は人間でいうと二~三歳程らしいです。シオンは子猫だからわかりませんが」

「知らなかった……」

「ネットで調べました」


 桐谷さんとシオンの話で、自然と話ができたのが嬉しくて、涙がでそうだ。

 その気持ちを誤魔化すために、慌てて豚の角煮を口に放り込む。

 あ、辛子つけすぎた。ツンとする。やばい、涙がでそうだ。辛さが引いたところで、とろけるような脂の旨味が口の中で広がった。


「やっぱり、煮物は鈴代さんの味付けが一番好きですね」


 豚の角煮を頬張って、桐谷さんはニコニコ機嫌よく食べる。

 本人は無自覚かもしれないけど、私を一番好きみたいに聞こえてドキドキする。


「私も一緒に食事をして、一番楽しいのは桐谷さんです」


 そう言ってみたら桐谷さんは、からんと箸を落とした。思いっきり動揺してるのがよくわかる。


 がぶりとチキン南蛮に噛り付いて、桐谷さんをチラ見。

 豚汁をすすって、チラ見。

 しゃくりとアスパラを噛み締めて、チラ見。


 見るたびに視線が合って、恥ずかしくて目をそらす。

 会話もなく黙々と食べているのに、料理は美味しいのに、気持ちは桐谷さんが気になってしかたがない。

 それはたぶん、桐谷さんも同じで。


 なのに、なんで付き合えないんだろう?


「あ、あの。どうして好きなのに付き合えないんですか? 何か私に悪いところが……」

「鈴代さんは何も悪くありません。すべて僕の問題です」


 きっぱりと言い切った桐谷さんの顔が、とても苦しく見えて、それ以上、何も言えなくなってしまった。

 それで話題を切り替える。


「このあとはお仕事忙しいですか?」

「そうですね。納期は二十二日なので、それまで缶詰で仕事をする予定です」

「二十二日。じゃあ、次の日は寝て過ごして、二十四日なら時間ありますか?」

「ええ。そうですね。次の契約で食べに行きますか。何がいいですか?」

「今月は十二月って覚えてますか?」


 桐谷さんの椅子が、ガタッと大きな音をたてた。

 そう、十二月二十四日クリスマスイヴだ。そんな日に互いに好きな男女が、二人で食事に行く。それって完璧に恋人だ。

 桐谷さんが顔を真っ赤にしつつ、眼鏡のブリッジを押し上げて深呼吸をする。


「契約ですから。鈴代さんが食べたい料理を教えていただければ、店を探しておきます」

「契約じゃなく、デートがしたいです」


 桐谷さんが額に手を当てて、本当に困ってるのがわかった。デートのつもりなら、二十四日は会いませんと言われたら嫌だ。


「すみません。契約でいいです」

「すみません。ありがとうございます」


 その後会話もなく食事は終わった。



「二十四日は、何が食べたいですか?」


 それはいつもの挨拶で、何を食べるか相談するのも楽しいのだけど。


「すぐに思いつかないので、また連絡しますね」


 少し時間を置いて落ち着いて話をしたい。そう思った。

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