リスタート

 桐谷さんの家を飛び出して、のろのろと家路につく。冷たい秋の空気のせいで、体の芯まで冷え切ってしまった。

 家についたら、毛布にくるまって、ズルズルと座り込む。相変わらず汚い部屋。


 一人は、楽だ、自由だって思ってた。

 桐谷さんを好きになってなかったら、裏切られて傷つくことはなかった。

 でも……。


 棚の切子グラスは赤から青に変わった。余計な物を捨てて、部屋も心もがスッキリした。

 桐谷さんと過ごした時間は楽しかったし、一人では前に進めなかった。


 答えがでないまま、風呂に入って湯船に浸かる。少しだけ高ぶった気持ちが落ち着いた。

 何で私はあんなに怒ったのだろう。

 裏切られた、信じられないと、怒って仕方がないのだけど、普段なら言葉や態度に出せずに、溜めこんで飲みこんでしまうのに。

 どうして桐谷さんに怒りをぶつけられたんだろう。


 風呂上がりにスマホを見たら着信があった。琴子だ。重い気持ちを引きずったまま、のろのろと電話をかけた。


「……琴子。どうしたの?」

「うん、ちょっと……恋音れんねの声が聞きたいな……と思って」


 長年の付き合いからわかる。感傷的な言葉を琴子が口にするとき、何か迷って誰かに話を聞いて欲しいのだろう。

 わかっていたけれど。今はいっぱいいっぱいで、琴子を受け入れる余裕がなかった。


「そう。ごめんね。琴子。ちょっと今忙しくて。また後でかけなおすね」

「待って、恋音。アンタの声がおかしい。なんかあったの?」


 声でわかってしまうなんて、琴子にはかなわないな。だから電話を切ろうとしたのに。


「もしかして、桐谷さんと何かあった?」


 桐谷さんの名を聞いた瞬間、堪えきれずに泣いてしまった。泣き声が琴子にも聞こえる。


「恋音。アンタ、今家にいるの?」

「……うん」

「一人?」

「……うん」

「今すぐ行くから待ってなさいね」

「え? いいよ。大丈夫。私は……」

「大丈夫じゃない。泣いてるアンタを無視したら、私が大丈夫じゃないから行くの。遠慮なんて許さないからね」


 そう言い切って電話が切れた。

 本当に琴子は凄い。ためらいも迷いもなく、こうして私が困ってたら飛んできてくれる。

 何か辛いことがあって、言いたいことがあったのに、飲みこんで私のために駆けつける。そんな琴子が大好きだ。


 何でもない日に一人は楽だ。でもこんな時一人じゃないって、泣きたくなるほど嬉しい。



「恋音。何があったの?」


 開口一番、単刀直入。琴子の潔さに心が緩んで、ボロボロと全部吐き出した。

 言葉にして見ると、自分の本当の気持ちがよくわかった。

 騙されたと思っても、桐谷さんが言い訳してくれるのを期待してた。事情があったんだと、ほっとしたかった。

 私は桐谷さんを信じたいんだ。好きだから。

 全部聞き終え、琴子がいきなり頭を下げた。


「ごめん、恋音」

「え?」

「実は、恋音に紹介する前に、桐谷さんからアビシニアンというアカウントで、アンタと知り合いだってことは聞いてた。でも私が最初は黙っておいて欲しいって頼んだの」


 琴子が口止めしてたから、桐谷さんは言えなかったの?


「どうして?」

「あのさ。もしもよ。最初から桐谷さんがアビシニアンだとわかってて、アンタに紹介するって私が言ったら。会ってた?」


 真剣な目で琴子に問われ、じっと考えた。

 あの頃は、まだ立ち直ってなかった。良太のメールを見ただけで、琴子を避けるくらい。

 アビシニアンに愚痴をこぼせたのは、絶対に会う人じゃないと思った安心感もあった。


「……知ってたら、会わなかったと思う」

「だと思った。事情は全部聞いたの。誤魔化しもせずに話す誠意がある人だと思った。アンタの男性不信を直す為にも、誠意のある男と話するだけでもと思ったの。まさか契約料理なんて言い出すとは思わなかったけど」


 そうか。琴子が何度も桐谷さんのこと心配したのは、この事情もあったからか。


「折を見て話すと言ってたし、仲よさそうに見えたから、もう話して解決してると思ってた。ごめん。私のせいで傷つけて」


 琴子はぎゅっと手を握りしめた。涙目になってるけど、絶対泣くもんかという琴子の強気な表情。私は思わず琴子を抱きしめた。


「琴子は何も悪くないよ。いつだって私を一番に考えてくれる琴子が、私は大好きだよ」

「恋音……」

「こうして駆けつけてくれて、何か言いたいことあったんでしょ? 我慢して、私のことを思ってくれる、琴子が大好きだよ」


 もう我慢できないと、琴子は声をあげて泣き出した。

 お互い泣いて、お互い言いたかったことを全部吐き出して、すっきりする。

 私達は今までもそうして生きてきた。だから琴子は私のたった一人の親友なんだ。



 事情を聞いてすっきりしたけど、桐谷さんを信じきれない。琴子に折を見て話をすると言ったのに、言い出しにくなったの?

 私が最初に、アビシニアンの話をしたのは、良太と会った日の串カツの店。

 あの時アビシニアンだと言われていたら、塞がりかけてた傷口が開いて、辛かったかもしれない。それで言い出せなかった?

 神楽坂の店の後、私が昔の話をしたタイミングで言うことだってできたはず。

 いつまで黙ってるつもりだったんだろう?


 聞きたいけど、聞く勇気がない。会いたいけど、会うのが怖い。

 きっと桐谷さんを困らせて、傷つけた。


 モヤモヤした気持ちのまま、連絡をすることもできずに、数日悩んで、決めた。

 よし、美味しいものを食べよう。今日はちゃんとした料理を作って、食べよう。少し掃除して部屋をスッキリさせよう。

 美味しい食べ物は私を元気にしてくれる。


 ──男は裏切るが、食べ物は私を裏切らない。


 材料を買い出しに出かけて帰る途中、ポストの中身を確認して、白い封筒が目についた。

 切手も住所もないけど『鈴代恋音様』と書いてあるから間違いない。

 封筒を裏返してびっくりした。桐谷さんの名前が書いてある。

 直接きて手紙を入れていったの?


 震える指先で、丁寧に開けた。ものすごく几帳面な手書きの文字が目に飛び込んでくる。


『鈴代恋音様

 本来は直接会って、お詫びを言うべきだと思うのですが、鈴代さんは、僕の顔を見たくもないかもしれないし、僕も直接会って、きちんと全部話せる自信が、ありませんでした。

 かといってメールで済ませるのも失礼ですし、古臭いですが手紙という形を、とらせていただきました』


 物凄く真摯でまっすぐで生真面目すぎる書き出しに、思わず笑ってしまった。

 私を騙そうなんて気は、これっぽちもないんだろうと、素直に思えてしまう。


『アビシニアンだと言わずに黙っていて、すみませんでした。いずれ言わなければと思いつつ、ズルズルと言いそびれて。優柔不断な僕のせいで傷つけてしまってすみません』


 琴子から口止めされてたことは書いてない。自分の責任だと言い切る桐谷さんが好きだ。


『僕は今まで仕事以外で、他人に必要とされたことがありませんでした。ネット越しに「フレンチの店を紹介してくれて、ありがとうございました」と、お礼を言われた時に、とても嬉しかったんです。僕のツイートが誰かの役に立つこともあるんだと知って』


 その気持ちは痛い程わかった。私の飯テロツイートが、桐谷さんを幸せにしてたと知った時は、とても嬉しかったから。


『アビシニアンの僕を信用して、辛い思いを全部話してくれたことも、とても嬉しかったです。人に頼られ、必要とされていると感じたことはなかったので』


 必要とされている。それが嬉しい。ここにいていいと、自信が持てる。とてもわかる。

 琴子が困った時に、一番に私に話をしてくれるのが嬉しい。頼られるのは嬉しいのだ。


『とても辛い想いをしたのに、飯テロツイートを始めた時は安心しました。少しでも立ち直ろうと再出発を始めたんだなと。どんどん上達していく所を見て、感動しました。自分のために料理を作って、それを一人で楽しむ。その心の強さを尊敬しました。だから一度会ってみたかったんです』


 面と向かって、食べ物の話しかできない私達。でも心の中で、桐谷さんも、思いを持ってくれてて。言葉にできなかった。


『言い訳をするのはみっともないし、聞きたくなかったかもしれません。何もわからないままのほうが、鈴代さんが苦しむかもしれないと思って、筆をとりました。嫌な思いをさせたらすみません。僕が嫌いになっても、もう会いたくなくなっても構いません。でも』


 ぽとりと手紙に雫が落ちた。慌てて頬をぬぐう。あまりに嬉しすぎて泣いてしまった。


『鈴代さんには笑顔でいて欲しいと思います。どうぞお幸せに』


 桐谷さんは私を傷つけるかもしれないと恐れて、言葉にできない優しすぎる人なんだ。繊細で臆病で、潔すぎる。

 私の返事も聞かずに、勝手にさよならを言ってしまうなんて、早とちりすぎだ。

 でも、それは私もいけない。桐谷さんに伝えられない想いがたくさんある。わからないから不安にさせてしまった。


 ちゃんと話そう、桐谷さんと向き合おう。

 私を知ってもらって、桐谷さんを知って、互いに理解しなければいけないんだ。

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