キムチ鍋と喧嘩
「鍋♪ 鍋♪ キムチ鍋♪」
思わず鼻歌を歌いながら歩いてしまった。
そろそろ寒くなって来たし、温かい物が食べたくなってキムチ鍋を作る。
鍋は簡単すぎて、手抜きっぽい。せめて食材に拘りたくて蟹やエビを買った。桐谷さんが喜んでくれるかなと想像し、気持ちが弾む。
まだ告白する勇気もないし、私を好きになってもらえるかもわからない。
でも私の料理が好きなら。これから少しづつ、好きになってもらえるように頑張ろう。
桐谷さんのマンションの前まで来たときだった。
不意に風に乗って、かすかに甘い香水の匂いと、女性の声が聞こえた。
そちらを向いて、どきり。とっさに木の陰に隠れてしまった。
桐谷さんと女性が、並んで立っていた。遠目だから何を話してるかわからないけど、空気がなんだか深刻な感じだ。
遠目ではっきりとわからない。でも四十代くらいに見えた。派手な化粧や洋服で、それが似合う整った顔立ち。
誰? 桐谷さんとどんな関係? ドクン、ドクンと鼓動がうるさい。
じっと見ていたら、女性が腕を掴もうとして、桐谷さんは険しい表情で振り払っていた。
あんな態度の桐谷さんは初めてで、なんだか怖かった。女性に背を向けて入口に向かう。
「昴!」
女性が大声で叫んだから、私の耳にも確かに聞こえた。
それなのに桐谷さんは振り返らずに、マンションの中へ消えて行った。女性は項垂れて肩を落とし、その場から去って行った。
今の、何? 名前で呼んで、痴話喧嘩? 修羅場? 桐谷さんの恋人だろうか?
今まで、女性の影は微塵も感じなかったけど、もしかして、私に言わなかっただけ?
ただの私の推測、憶測。どんな事情かもわからない。
でもさっきまでの楽しい気分は吹き飛んで、重い気分のまま桐谷さんの部屋に向かった。
ことことこと。鍋の汁が煮える音がする。お玉で汁をすくって味見。蟹やエビから出汁がでて、鍋の煮汁は旨味たっぷりだ。キムチを入れてさらに煮込む。
美味しそうな香りが漂うキッチンで、ぼんやりと私は立っていた。
さっきのこと、気になるけど、聞けない。
私はただ契約で料理を作り、料理を奢ってもらうだけで、桐谷さんとは、友人かもわからない関係。
立ち入ったことを聞く権利なんてない。
「にゃー」
気づくとシオンが足元にいて、玩具を咥えてグイグイ押し付けてくる。遊んで欲しいと、ねだっているのだろうか。
シオンの持ってきた玩具を、軽く放り投げる。転がっていくのを懸命に追いかけて、猫パンチをして、はしゃぎ回る。
微笑ましい可愛らしさに、クスリと笑みがこぼれ、心が軽くなった。
気づくといつの間にか、シオンは玩具を咥えて、興奮気味に仕事部屋へと入っていく。
桐谷さんの仕事の邪魔になったら悪いな。慌てて仕事部屋に入ったその時だった。
シオンが飛びついた。驚いた桐谷さんがスマホを落とし、それが私の方へ滑ってくる。
拾い上げた瞬間に目に入った画面に、頭の中が真っ白になった。
「アビシニアン」
そう。あのアビシニアンのアカウントページ。それをなぜ桐谷さんが開けるのか。
桐谷さんが強張った表情で、唇をぎゅっと引き締めた。
「すみません」
しっかり頭を下げる姿に、とても嫌な予感がした。
頭をあげた桐谷さんは唇を震わせ、何度も躊躇い、しばらくしてやっと声を出した。
「……僕がアビシニアンなんです」
「……え?」
予想外の言葉で、理解できずに固まった。
桐谷さんの言葉の意味を理解するまで、二人の間に長い沈黙が横たわる。
アビシニアンが、桐谷さん? そんな、まさかと思いつつ、言われてみると、都内住まいで、食にうるさいところは共通している。
「今まで黙っててすみませんでした。アビシニアンの話をしてくれたのに、知らないと嘘をついてしまって、すみません」
胸がぎゅーっと掴まれたように苦しくて、息ができない。
二人が同一人物とは、欠けらも思ってなかった。
「じゃあ、ぜんぶ、ぜんぶ、最初から知ってたんですね。三年前のあのできごとも」
「……はい」
「知ってて、知らないふりしてたんですか」
「……はい」
なぜ今まで言ってくれなかったのか。
桐谷さんのことを、アビシニアンに相談したこともあった。私は本人に相談をしていたの? 自分が、馬鹿みたいだ。
「なんで、なんで、もっと早く言ってくれなかったんですか?」
「すみません。言い出しづらくて」
「いつまで黙って、私を騙しておくつもりだったんですか?」
「……すみません」
桐谷さんは優しくて、良い人で、信用できる人だと思ってた。
アビシニアンも優しくて、良い人で、信用できる人だと思ってた。
でも、こんな風に、隠して、騙して……。
「……信じてたのに」
「……」
「二人とも、信じてたのに、どうして言ってくれなかったんですか!」
「……すみません」
自分の喉から、こんなにキツイ声が出るなんて思わなかった。
良太にあれだけ酷いことをされても、何も言えなかったのに、どうして。
頬が涙に濡れ手の甲で拭った。桐谷さんは私の泣き顔を見て、さらに顔を蒼白にして震えて、頬に手を伸ばす。
その手を振り払った。
「……信じられない」
今まで過ごした時間の、どこまでが本心で、どこまでが嘘なのだろう?
さっきの女性とのやり取りも、頭の中でよぎって。苦しくて、苦しくて。
そのまま逃げるように家を飛び出した。
桐谷さんは追ってこなかった。
やっぱり男は裏切るんだ。食べ物は私を裏切らないのに。
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