幕間3
「にゃー?」
胸に重みを感じて目を開けると、
枕元の時計を確認すると八時ちょうど。
「朝ご飯の催促か。
昨日は三時まで仕事をしていたのに……という愚痴を零しつつ起き上がった。
一人で生きるのは楽だ。誰にも振り回されず、時間を全て自分のために使える。
こんな風に理不尽に起されることもなく、他人のことで心を乱されない。
夢中で餌を喰らう
天ぷらを美味しそうに食べる笑顔。とても可愛らしかった。
鰻を食べて嬉し泣き、牡蠣に目を輝かせ、豪快に串カツにかぶりつく。彼女が幸せそうに食べている姿を見ているだけで幸せだ。
ふっと先日の契約外の飲み会を思い出す。
『……桐谷さんに会いたいなと思った時に、メールが来たので』
上目遣いでもじもじとした表情で、ダメですか? って顔されたら……許さないはずがない。しかも鈴代さんは、自分の魅力に無自覚なのが卑怯だ。
間近で見た鈴代さんの真っ赤な顔。きっと……お酒に酔っていただけなのに、一瞬不埒なことを考えた自分を責めたい。
もう少しだけ飲みたいのは、美味しいものを共有したいだけで、僕を男扱いしてないだろう。だから簡単に信用してるなんて言える。
その無防備さに、少しだけ苛立ちを覚えた。
鈴代さんの美味しそうな食べっぷりを思い出したら、急にお腹がすいて、冷蔵庫を開けた。タッパーがぽつりと一つ。
鈴代さんはいつも夕食を多めに作って、タッパーにいれて冷蔵庫にしまってくれる。
二人の夕食の日は、冷蔵庫がタッパーで埋め尽くされる。
一日づつ減って行き、今日は最後の一つだ。この前作ってもらったおでんが入っている。
熱々おでんと一緒に、二人で日本酒を飲んだ。あの日は幸せだった。
鈴代さんが帰った後、毎日おでんを食べる日々が楽しくて、最後の一個が名残惜しい。
酒だけがぽつんと取り残されるように、冷蔵庫が寂しくなった。
それが当たり前のはずだったのに、今はこの幸せを失うのが怖い。
花火大会の日、この部屋に六人もいて、あんなにも賑やかで楽しい時間。あれは夢じゃないかと、いまだに思ってしまう。
同じ部屋なのに、あの日に比べると、冷蔵庫のように空っぽだ。
僕は花火の約束を、守れるだろうか?
「なー」
柔らかな感触が足下にまとわりつく。
「朝ご飯の量はそれでおしまいだ」
今なら少しだけ、恋に浮かれたあの人の気持ちがわかる気がした。
きっと恋は、人から理性を奪うのだ。
いずれ絶対に困るとわかっている嘘をついてしまうくらい、今の僕は愚か者だ。
「ごめんね。昴。好きな人ができたの」
そう言ったあの人の笑顔が、今でも脳裏にくっきり残っている。
夢見る少女のように、浮れた笑顔。僕の中に残る数少ないあの人の記憶。
あの頃はわからなかったが、新しい恋に夢中になって、僕を捨てて恋人と一緒に逃げた。
恋だの愛だのというものは、一生僕には無縁なんだろう。そう、思っていた。
──でも恋というのは、勝手に落ちるものらしい。
望んでなくても、恋の音はやってくる。
初めはネットで、次は顔を合わせた時。
会えば会うほど、恋の音が近づいてきて、望みがないとわかっていても、離れ難くなる。
鈴代さんの作った母親の想い出の味。舌で繋がる想い出があるのを、初めて知った。
もしこの先何かあっても、鈴代さんの作った料理の味だけは、絶対に忘れたくない。
「うにゃー」
そっと床に下ろすと、離れていって、キャットタワーの上へ行ってしまう。
手に残された噛み跡と、かすかな温もり。
こんな風に僕の心にも、恋の噛み跡は残ってるのだろうか。もし、消えずに一生残るなら、それだけでもういいかもしれない。
のんびり食事して、二度寝して、起きて仕事をするかと思った時、スマホが鳴った。裕人からの電話だ。
『久しぶり。昴。大丈夫?』
『別に……何も変わらないよ。今まで通り。大丈夫だ』
そう、何も状況は変わらない。
僕が彼女に食事を奢り、彼女は僕に料理を作ってくれて。
そして、僕は彼女に嘘をついた。
『この前、鈴代さんがうちに来て、楽しそうに昴の話をしてたよ。仲よさそうだね』
『食事の趣味があうから、話が弾むだけだ』
鈴代さんは食事友達として、気を許してくれてるだけだ。変な期待をしたら後が怖い。
『智がさ、この前、昴の家の近くで、あの人を見かけたって言うんだ。まだしつこく付きまとわれているの?』
一瞬、驚きで息が止まった。無駄な心配をかけたくなくて、黙っていたのに。
とっくの昔に僕を捨てたのに、今頃になって戻ってきた。煩わしいことこのうえない。
『まさか、うちに試食だって、様子見をしに来てたのは……』
『うん。いつか話してくれないかって、待ってた。昴は何にも言わないよね。急にマンション買って、引っ越した時は驚いたし、変だと思った』
『マンションは親父の遺産が残ってたから。賃貸で住むより長期的に見て安上がりだ』
『ずいぶんセキュリティーが厳しそうなマンションだもんね』
このマンションを選んだのは、会いたくない人間と会わずにすむ。ただそれだけなのだ。
声に不自然な間があって、嫌な予感がした。
『あの人、俺たちの方にも来てね。昴がどこに行ったかって聞かれたんだ。もちろん俺も智も答えなかったけど』
これが電話で良かった。目の前に裕人がいたら、とても怒りの感情を隠せそうにない。
あの人は僕だけでなく、裕人や智にまで。
チリンチリンと鈴がなり、はっとした。
紐の先についた鈴を追いかけ続け、足に紐が絡まって、困ったようにジタバタしてる。
その間抜けで平和な音が、僕の乱れた心を沈めてくれた。
『大丈夫だ。そのことはもう、大した問題じゃない』
鈴代さんと出会ってから、頭がいっぱいになって、憂鬱な問題をすっかり忘れていた。
『本当に? ちゃんと話してくれないと』
『わかった。今度、何かあったら話すから』
そう言って電話を切った。
まだ
──たぶん、同じように、僕から幸せも逃げていくんだろう。
このマンションに引きこもって仕事をし、時々美味しいものを食べに出かけて息抜きをする、ただそれだけの日々。
他人に振り回されず、心を乱される事もない、平穏で退屈な日常に満足していた。
それなのに、飯テロ女に会ってみたいと、欲をかいたのがいけなかったのだろうか。
何も変わらない一人きりの日常を、寂しいと感じてしまうなんて。
飯田橋で、鈴代さんが男に腕を掴まれて、真っ青になって震えていた。守りたい。笑顔にしたいと心の底から思った。
そこまで彼女を怯えさせた男は、殴りたいくらいに腹立たしい。
だが、僕に怒る権利なんてあるだろうか?
神楽坂のフレンチを食べに行った日、鈴代さんの様子がおかしかった。僕の腕に掴まるなんて、ドキドキしすぎて心臓に悪い。
酒に酔ってたから、かもしれないが、それだけでもない気がした。
まるで捨てられることを恐れた子供のようだ。それが酷く苦しい。
鈴代さんの笑顔を守りたい、もっと一緒にいたい。そう思うけれど。
さっきの裕人の話が本当なら、もうこれ以上関わって、僕の事情に巻き込んでしまいたくない。
鈴代さんを傷つけそうで怖い。
鈴代さんが昔の話をし始めて、驚いて、とっさにまた嘘をついた。
あの時、幸せな時間が終わる予感がした。
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