せつないフレンチ
何かあるのかと思ったら、何もなかった。桐谷さんはやっぱり紳士だった。
指一本触れずに、タクシーを手配する。真面目な顔で、事務的対応なのがせつない。
玄関まで見送ってくれて、立ち止まった。
「次にご馳走するお店、どこがいいですか」
さよならの代わりに、次の約束を。それがいつの間にか私達の決まりになっていた。
「そうですね……」
食べたい物は色々思いつく。でも、食べ物より今は桐谷さんに興味がある。
「桐谷さんが行きたいお店に」
「え?」
ぽかんと、口を開けて戸惑ったあと、慌てたように口を開く。
「鈴代さんの行きたいお店が約束ですし」
「でも、この前のリクエストは『私の食べたい料理』でしたよね。反対に桐谷さんの行きたいお店へ」
桐谷さんをもっと知りたい、もっと仲良くなりたい。そういう欲が沸いてきた。
もしかしたら『私の食べたい料理』のリクエストも同じかな? もし、少しでも興味を持ってもらえたなら嬉しい。
「それでは、この前予約をキャンセルした、店に行きましょうか」
桐谷さんの視線が、眼鏡の奥でさまよってる。たぶん、このまえ良太と会った時、様子がおかしかったから、心配しているのだろう。
「楽しみです」
笑顔でそう言ったら、桐谷さんも笑った。
タクシーに乗って家に向かう。タクシーに揺られると、お酒に酔って眠くなって、家に着くまで眠りの淵へ落ちていった。
そのせいか、桐谷さんの信用できる男じゃないという言葉は、私の中で薄れて消えた。
飯田橋駅の北側には神田川が流れ、橋を渡ると神楽坂がある。かなり急な坂だ。
桐谷さんの少し後ろを俯いて歩いた。
三年前、どん底だった私を、救ってくれたフレンチの店も神楽坂だった。
良い店だったのに、あれ以来行ってない。過去を思い出すのが怖かったから。
桐谷さんが坂から曲がって裏道に入った時、心臓がぎゅっとした。
桐谷さんが選んだ店はあのフレンチだった。
「鈴代さん、どうかしましたか?」
「いえ、昔一度だけ来たことがあったので、驚いて」
桐谷さんは何も知らない。何でもないふりで、食事を楽しもう。
「いらっしゃい。久しぶりだね」
「マスターもお元気そうで」
桐谷さんが親しげに話をしてる。顔を覚えられるくらいに常連なのかな?
「あれ? そちらのお嬢さん、前にもいらしてたかな?」
「貴方。三年前よ。ほら、他にお客さんがいないからって、楽器まで弾いたじゃない」
「そうだった。そうだった」
マスターとマダムの会話に驚いた。三年前に一度来ただけの客を、覚えてるなんて。
桐谷さんも目を丸くしている。
「楽器を弾いたんですか? この店で?」
「ははは。下手な横好きでね。いやぁ、また来てもらえて嬉しいな。しかも桐谷君と一緒とはね。いつも一人なのに」
「いえ、その、日頃からお世話になっている方で」
マスターの笑顔にあたふたしてる。デートと勘違いされて困るのかなと思うと、胸がちくっとする。
そんな不安は忘れて、席につき、料理だ。
最初の乾杯は甘口の白ワイン。ちびりとワインを一口飲むと、濃厚な甘さと香りが口の中に広がった。
「ブドウの豊かな甘みを感じさせてくれる美味しさですね」
「山梨のワイナリーが作ってるワインです。マスターの弟さんが経営するワイナリーで」
「国産ワインですか?」
「ええ、ここ国産ワインも品揃えが良いです。だからフレンチでも比較的リーズナブルで」
前に来た時は、心に余裕がなかったから、値段は気に留めてなかった。
前菜の野菜のテリーヌが美しい。コンソメゼリーの出汁が効いてて、レバーのムースもコクがあって濃厚だ。
前菜には醤油が効いたアワビが使われて面白い。こりこりと噛みしめると醤油の味が溢れ出す。フレンチで醤油味。でも美味しい。
「アワビの煮貝ですね」
「煮貝?」
「山梨の名産です。山梨には海がないですよね? アワビを醤油につけて日持ちがするようにして、運ばれてたんです」
マスターがワインを注いでくれながら、ニコニコ笑った。
「普段は使わないんだけどね、良いものを仕入れられたから」
「高級食材ですしね。良いものをありがとうございます」
桐谷さんが穏やかに笑ってマスターと話をしていて、本当にこの店が好きなんだなっていうのが伝わってくる。
いつもは料理に夢中になってしまうけど、今日は楽しそうに食事をする桐谷さんを見ていたい。
私がいつもと違うせいかな? 心配そうに首を傾げられた。
「口に合いませんでしたか?」
「いいえ! とても美味しいです」
「でも、いつもは、もっと夢中な笑顔で食べてるのに」
食い意地のはった女だと思われても、仕方がないのだけど、恥ずかしい。
「良い雰囲気の店なので、食事だけではなく、桐谷さんとの会話を楽しみたくなって」
「僕との会話?」
桐谷さんが目を丸くし、くしゃりと笑った。
「とても嬉しいです」
牛ほほ肉の赤ワイン煮も、すごく柔らかくて、肉の甘みがぎゅぎゅっと詰まって、頬が落ちそうなほどに美味しかった。
デザートのゆずソルベやレアチーズムースは、とても綺麗で、さっぱり爽やかで、こってりした口の中をスッキリ洗い流してくれる。
三年前この店に来た時は、こんな幸せな気分でここに来るとは、夢にも思わなかった。
ワインが飲み放題で、あれもこれも欲ばって。飲んで食べて、だいぶ酔って店を出た。
「大丈夫ですか?」
帰り道の急な下り坂。酔った私を、桐谷さんは不安そうに見下ろした。
確かに。いつもより足取りが危なっかしいかもしれない。桐谷さんの腕を掴んだ。
驚いて固まったけれど、そのまま無言で歩き出す。
腕を掴んだまま、支えにして坂をくだる。
大胆、だったかな? 困ってないかな?
気になって坂を下り終わった所で見上げたら、桐谷さんと目があった。
「気のせいかもしれませんが、今日は何かありましたか? いつもと違う気がして」
生真面目な表情で言われて、どう答えようかと迷う。
桐谷さんが好きだ。でも桐谷さんは私を好きじゃないかもしれない。告白するのが怖い。
目の前の橋を渡れば駅についてしまう。
きっと何も言わずに帰るだろう。
「もうちょっと、話をしませんか?」
桐谷さんが息を飲むのがわかった。驚いたみたいだけど頷いた。
秋の夜風はちょっと寒いくらいで、酔い覚ましにとコーヒーショップによった。
私は決心した。三年前のあの辛かった事件を話そう。
何も知らない桐谷さんと過ごす時間は、楽しかいけど、あの店で様子がおかしかった理由を説明するには、言わなきゃいけない。
桐谷さんを心配させたくなかった。
淡々と昔の話をすると、辛抱強く聞いてくれた。
時々相槌を打つだけなのに、とても真剣に聞いてくれてるのが伝わって嬉しかった。
「アビシニアンさんのおかげで、あの店に出会って、救われたんです」
「……そう、ですか。よかったですね」
「その後もアビシニアンさんに、色々愚痴を聞いていただいて、それで救われて」
「良い方なんですね」
「はい」
なぜか桐谷さんの表情が寂しげに見えて、気になったけど、聞けなかった。
それ以上何も言えなかった。桐谷さんが好きなことも。
ずいぶん長々と話し込んでしまって、気づけば終電が終わってた。
「タクシーでお送りします」
「いえ、一人でも大丈夫です」
「僕が鈴代さんをお送りしたいのです。迷惑ですか?」
「いえ! 嬉しいです」
二人でタクシーに乗って家路へ向かう。
紳士な桐谷さんは先に私の家へ向かってくれた。何を話していいかもわからず、沈黙のまま時間だけが過ぎていく。
もうじき私の家までついてしまう。何か言わなきゃ。せめて次の約束だけでも。
悩んで頑張ってひねり出した言葉は。
「次は何を作りましょうか?」
「少し寒くなってきたので、温かいものがいいですね」
「おでんはどうですか?」
「いいですね」
桐谷さんが笑顔になった。それは私の料理が好きだからだろうか?
「わかりました。次はおでんで」
桐谷さんが恋してるのは私の料理で、私じゃない。
私は自分の料理に嫉妬する。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます