過去との遭遇
今日は飯田橋駅前で待ち合わせ。会社帰りのサラリーマンが駅に集まり始めた時間。
飯田橋で仕事をしていた頃に比べると、ずいぶん変わってしまったな。それとも、私が変わったのだろうか?
店選びを丸投げしたから何処へ行くか知らない。どこでも良いようにシンプルな黒いワンピースを着た。
三年前に買った服に袖を通すのは久しぶりだ。
結婚式がダメになった時、ふっきりたくて、いろんな物を捨てたけど、まだ残ってる。
昔を思い出し、ちくりと喉に小骨が刺さるような不快感を感じた。
こんな服、着なければよかった。
「……
名前を呼ばれた瞬間、心臓が凍った。無視して消えてしまいたい。でも約束がある。
聞こえないフリでうつむいた。でもやっぱり通じない。肩を叩かれ仕方なく顔をあげた。
三年前と何も変わってない、笑顔で私に話かける男。橋田良太。逃げ出した元婚約者。
「恋音。久しぶり。元気だった?」
何事もなかったみたいに、笑顔で普通に話かけないでよ。
触らないで、近づかないで。
まずは最初に謝罪くらいしてよ。
色んな感情が、頭の中でぐるぐると巡って気持ちが悪い。
でも黒い感情を言葉に変えて、口からだす勇気もなくて。ただ口ごもるばかりだ。
「会いたかった。恋音とまた話したかった。Twitter見てるけど、ずいぶん料理上手になったよな。食べてみたい。今度作ってよ」
何を言ってるんだこの男は? 謝罪の言葉もなしに、図々しい。
私は怒りを表に出すのが苦手だ。
喉まで叫びたいほどの怒りが込み上げてるのに、言葉にできないのがもどかしい。
手を掴まれ、手触りにぞわっと悪寒がした。
「この後一緒に食事に行こう。話したいことが色々あるんだ」
断られるなんて考えてもいない口ぶり。
同じ人間だろうかと思うほど、何を考えてるのかよくわからない。
一秒たりともこの場にいたくない。同じ空気を吸ってると考えるだけで、気持ち悪い。
掴まれた手を振り払い、何も言わずに立ち去ろうとした。
「待って!」
慌てて腕を掴まれた。文句を言いたいのに、声がでない。喉の奥が張り付いて、緊張して音にならない呼吸がひゅーひゅーと出た。
思い切って顔を上げたら、人ごみの中に桐谷さんがいた。目があっただけで、何も言わない。でも助けを求める気持ちは伝わったかもしれない。
桐谷さんがつかつかと歩いてきた。
「恋音さん。その方は知り合いですか?」
名前で呼ばれて驚いたけど、それが良かったのかも。緊張が緩んで、やっと声が出せた。
「知らない人です」
とても冷たく響いて、捕まれた手が緩んだ。
すっと桐谷さんの手と手が重なって、気がついたら自然と握ってた。
「いきましょうか」
ちらりと振り向くと、良太は呆然と口を開きかけた。
桐谷さんが早口でまくしたてる。
「何か用ですか? 急いでいるのですが。恋音さん予約の時間です。急ぎましょう」
強引なくらいの勢いで、早足で歩き出す。
しばらく歩いて良太の影も見えなくなった頃、ぱっと桐谷さんの手が離れて行った。
近くのビルの壁に手をついて、今にも頭をぶつけそうなほどに項垂れている。
「すみません。失礼な事をして。名前とか。その……色々」
「いえ。とても助かりました」
私から顔をそらして、立ち尽くす桐谷さんは、不安そうだった。
「鈴代さんが、とても困ってるように見えたので、ああいうやり方でよかったのか……」
「とても。嬉しかったです」
桐谷さんの袖を掴んで引いたら、やっとこちらを向いてくれた。
ほのかに顔が赤い気がする、気のせい?
「大丈夫ですか鈴代さん。顔色が悪いです」
自分の顔に手をあてた。夏なのに、指先まで冷えた手が、じっとりと汗ばんでいる。
桐谷さんに説明した方がいいのだろうか?
でも可哀想な女と思われるのはイヤだ。
何も知らない桐谷さんと、ただ美味しい物を食べて笑う。そんな日常のままでいたい。
「だい、じょうぶです。お店、予約してるんですよね。急いだ方が、いいですよね」
桐谷さんはいつも通り、真面目な顔でじっと見たあと、スマホを取り出して電話した。
「予約はキャンセルしました」
「……え?」
まっすぐに私を見る桐谷さんの顔には、真剣な表情が浮かんでいた。
「つらい時、美味しい物を食べると元気になります。でも、味もわからないほどにつらい時、美味しい物はもったいないと思います」
「え、ああ、そうですね」
「今日の店は延期しましょう。代わりに鈴代さんの気分転換に、したいことありますか」
「え?」
桐谷さんが、私のことを心配してくれてる。迷惑かな。大丈夫かな。ぐるぐる思考が廻る。
「何があったのか知りませんし、言わなくても構いません。今は気分転換して、落ち着いてから、美味しい物を食べて忘れましょう」
「は、はい」
とても丁寧に、事務的に淡々と説明されるので、やっと少し落ち着いてきた。
「気分転換には、場所を変えるのがいいです。ここから新宿が近い。新宿なら何でもありますし、とりあえず行きますか」
「はい」
桐谷さんは私に触れない、何も聞かない。無言で歩いてくれるだけで落ち着く。電車の中でも無理に話かけずに、ただ隣に並んでた。
電車の窓に映る桐谷さんの表情は、いつも通りの真面目な顔で。
事情がわからず、困ってると思う。でも何も言わずに隣にいてくれる優しさに癒された。
三年前、あまりに突然すぎて、呆然として、何も言えずに別れた。
言えなかった怒りの言葉がぐるぐると渦巻いて、それを吐き出す為に、飯テロをした。それでもう、終わったつもりでいたけれど。
言えなかった言葉は、飲み込んだ言葉は、消えずにずっと自分の中にあり続けたんだ。
怒ったり、泣いたり、感情をぶつけていたら、きっとこんなに引きづらなかった。
ぼんやりそんなことを考えていたら、あっというまに新宿についてしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます