追想:真夏の悪夢

「ごめん。他に好きな人ができたんだ。結婚は取りやめよう」


 良太がそう言ったのは、真夏の夜だった。

 ジジジ。遠くから聞こえてくる油蝉の音が煩い。窓から漂う生ぬるい風も、むしっとまとわりつく空気も、何もかもがうっとおしい。

 夏の暑さにやられて変な夢を見てるんだ。そう思いたかった。


「……どういうこと?」


 あまりに唐突すぎて、理解できなかった。

 私達は二ヶ月後に結婚式をあげる。式場やドレスの手配はもちろん、招待状も送った。

 私は仕事を辞めて、新居に引っ越し、新生活の準備までしている。

 なぜ今更こんなことを言うのか? その真剣な表情は冗談に見えなかった。


「この家のものは全部好きにしていいし、式場のキャンセルはやっておくから。ごめん」

「……え?」


 ちょっと待って、返事もしてないのに、どうして勝手に決めてしまうの?

 最近少し様子がおかしかった。でもマリッジブルーかと思ってた。普通に一緒に食事をして、一緒に住んで、一緒に。


 私は自分の思いを口にするのが苦手だ。特に怒りや嘆き、愚痴、負の感情は上手く出せない。

 いつもヘラヘラ笑ってると言われるけど。

 でも、今笑っているのは、平気だからじゃない。あまりにショックが強すぎて、思考回路が停止して、笑うしかないのだ。


 私が笑ってるから。怒らないから。泣かないから。捨てて大丈夫だと思ったの?

 何も言えずに呆然としてる間に、良太は家を出ていって、もう帰ってこなかった。



 いつの間にか蝉の声がカナカナと夏の終わりを告げるせつない音に変わっていた。陽は暮れて、生ぬるい夜風が頬を撫でる。

 あれから、何日たったのか思い出せない。

 勝手に式場をキャンセルされ、結婚は無理だと理解が追いついてから、また大変だった。

 良太がキャンセルしたのは式場だけで、他の手配は全部放置されていた。

 招待客に結婚を止めると言うたびに事情を聞かれ、泣きそうになるのをぐっと堪えて。

 理由なんて私が知りたいくらいだ。


 何で? 何で? 何で?


 途中で心が折れた私を見かねて、琴子が手伝ってくれた。

 私の代りに良太へ怒りにいってくれたけど、ろくな説明もせずに逃げられたらしい。


「恋音。無理しないで。アンタは少し休んでなさいよ。アタシが全部やってあげるから」


 いつも元気で明るい琴子が、悲しげな表情を浮かべている。私を気遣う琴子の優しさだ。

 頭では解っても、目に哀れみの色が滲んでる気がして。それを見るたびに惨めになった。


「……しばらく、一人にして」


 そう言うのが精一杯だった。



 一人になって何日たった? 時間の感覚が麻痺してる。

 クーラーをガンガンに効かせて、寒いくらいの部屋の中で、ひたすら引きこもった。

 部屋の中は荒れ放題で、ゴミや洗濯物が溜まって、食料も底を尽きている。風呂に何日入ってないかも思い出せない。

 何もする気力がなくて、ただ横になってぐったりして、一日がすぎていった。

 テレビを見ても頭に入ってこなくて通り過ぎていくし、ネットの文字を読むのも億劫だ。

 それでも、ふと気が付いた。


 結婚関連のツイートがたくさん残ってる。

 ベールができた。ドレスが決まった。招待状を送った。日記みたいなツイートが、ネットの海に存在しているのが嫌になった。

 全部消さなきゃ。そう思ってTwitterで、ひたすら消し続ける最中、ふとアビシニアンさんのツイートが目に飛び込んできたのだ。


 美味しそうなフレンチ料理と、優しくて温かい笑顔の店のオーナーの写真。

 その写真が砂漠の中に落ちた一滴の水みたいに、私の中に染みてきた。

 この美味しそうな料理を食べてみたい。こんな風に優しく笑う人を見てみたい。

 哀れみじゃなく、何も知らずに笑って受け入れてくれるような、温かな居場所が欲しい。


 ──この店に行ってみたい。


 そう思ったら、今まで鉛のように重かった体に力が湧いた。風呂に入って、化粧して、美容室に行って髪を整えて。

 なにせフレンチ。むごい姿で行きたくない。

 久しぶりにおしゃれをしたら、良太を忘れられて、少しだけ心が軽くなった。


 人が賑やかな坂を登り、裏路地を入って行く。東京のど真ん中でポツンとたたずむ温かな店がそこにあった。

 気取った店ではなく、古びた建物の中に、家庭的なインテリア。

 髭面の太ったマスターがソムリエで、上品なマダムが給仕で、雇われシェフが一人。


 そそがれた白ワインの甘さに、前菜の美しさに、香り豊かな上品なスープに、口の中に広がる肉の旨味に、ただ体が満たされて行く。

 無言で、無心に食べる。食べ続ける。

 その日は、たまたま人が少なかったみたいで、閉店近くには、客は私一人になった。


「お客さん良い食べっぷりだね」


 マスターに気さくに笑われて、思わず釣られて笑みを浮かべた。


「アナタ。お客さんに失礼でしょう。すみませんね。うちの人が」

「いえ。大丈夫です」


 ふと店内を見渡して、小さなオルガンを見つけた。その側にヴァイオリンもある。


「ああ。これ? 私の趣味がピアノで、主人はヴァイオリン。下手の横好きだけど」


 ふふふと笑うマダムの柔らかさに、心がほどけて行く。


「聞いてみたい、です」


 2人がちょっと驚いて、目を合わせ。


「まあ、他に客はいないし、いいだろうさ」


 そう言って二人で演奏を始めた。上手いか下手かもわからない。ジャズかクラシックか。わからないけど、でも温かで優しくて。

 気づいたらシェフが厨房から出てきて、余り物の惣菜とワインを出してくれた。


「今日は終わりで。賄いで悪いですけど」


 賄いと言って出してくれた料理は、見た目は素朴だけど、味は抜群だった。

 いつの間にか四人で飲み始め、ポツポツと話をするうちに、思わず笑って、酒に酔って。



 その日を境に、ちゃんと食事をするようになった。思えば良太が出ていき、食欲が落ちてろくに食べなかった。それで余計に参ったのかもしれない。

 美味しいものを食べる幸せを噛み締め、少しづつ、心の整理をしながら、私はアビシニアンさんにDMを送った。


『素晴らしい店を紹介してくださってありがとうございます』


 ──あの店に出会えなかったら、今も心が死んでて、家に引きこもったままだった。


『最近ツイートがなかったので、何かあったのかと思いましたが、無事でよかったです』


 ネットの向こうの見知らぬ人。でも何も知らずに私を心配してくれてたんだ。それが素直に嬉しいと思えた。

 どこの誰かもわからない、顔を見せることもない文字だけの会話。その気安さで、私はスルスルと愚痴をこぼし続けた。

 王様の耳はロバの耳のように、どこに繋がるとも思わぬ穴に向かって、溜め込んでた思いを吐き出すように。


『私、本当は彼が好きではなかったのかもしれません。両親が突然亡くなって、一人が寂しくて。誰でも良いから家族が欲しくて。身勝手だったから、罰かなと、思うんです』


 アビシニアンさんはきっと戸惑ったと思う。だけど最後まで聞いて、丁寧に返事をくれた。


『何が正しいのかはわかりませんが、今は自分で自分を責めないでください』


 そう。正しさなんて、人の数だけあるのだ。


『私には貴方の苦しみを正しく理解することはできません。でも信頼して話していただいてありがとうございます』


 その言葉が心の奥に染み渡って、思わず号泣した。

 そう。誰も私の苦しみなんて理解できない。でも私は一人ではないし、世界は辛いことばかりでもない。

 こんなに優しい人や、温かい店や、美味しい料理だってある。


 ゆっくりでいい、少しづつでいい。みっともないくらい這いつくばって、日常に戻ろう。

 まずは、一番心配してるだろう、大切な親友に。

 スマホを持って、コールボタンを押した。


「心配かけてごめんね。琴子」


 電話の琴子の声が、涙まじりに聞こえた。


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