鰻を食べに、ちょっとそこまで

 じりじりした日差しが眩しい七月のある日。今日は鰻を食べに行く。品川駅で待ち合わせは、いいのだけど。


「え! 浜松ですか?」

「ええ。鰻といったら浜松かと思いまして」

「鰻を食べるためだけに、新幹線ですか?」

「新幹線なら一時間半で、遠くないですよ」


 新幹線を使う時点で遠いです。新幹線の料金も桐谷さんが支払うのだから、文句は言えないけど。この人の食い道楽は凄まじい。

 でも、本場浜松の鰻は気になる。じゅるり。


「鰻を食べるついでに旅行気分を楽しんでいただければ」


 そういえば、美味しいものを食べる旅行がしたかったのを思い出す。とても嬉しい。

 新幹線の切符にドリンク券がセットだから、ビールを一缶飲んだ。ご機嫌で新幹線の車窓を見つつ、心は鰻でいっぱいだ。



 桐谷さんが予約してくれた店についたのは、ちょっと遅めのお昼な時間帯。

 見るからに昔から営業してますという感じの、古めかしいお店だ。


「いらっしゃい」


 店に入ると、いかにも年季の入った板前な、白髪混じりのおじさんが出迎えてくれた。


「鰻と一緒に冷酒も頼みますか? 鈴代さんはお酒好きですよね」

「好きです。鰻と日本酒、合いそうですね」


 食べ納めだから、鰻だけをじっくりととも思ったけど、お酒と一緒だとより楽しめそうだ。

 わくわく。

 運ばれてきた肝吸いの時点で、すでに美味しそう。


「鰻の肝で作ったお吸い物ですか。卵豆腐と三つ葉が入ってる」

「温かい物が多いですが、夏だから涼し気な冷たい肝吸いなのでしょう」


 肝吸いを一口すする。

 ふわっと香る三つ葉の香り。

 ひんやりした上品なお出汁が喉を通り過ぎて、汗ばんだ身体に染みた。

 ああ……優しい味。


「肝吸いが美味しい。これは鰻がより楽しみですね。私白焼きって初めて食べるんです」

「初めて。そうですか。食べられなくなる前に、食べられてよかった」


 なんだか桐谷さんが嬉しそう。鰻が楽しみだったのかな?

 白焼きが運ばれて、喉がごくりと鳴る。

 焼いた鰻の香ばしい香りに、鼻がひくひく。

 上に鰻の肝が乗った白い鰻は、見るからにふっくらしていた。


「わさびを乗せて、土佐醤油で」


 桐谷さんの説明も耳に入ってこないほど、目の前の白焼きに釘付けだ。

 うわぁ……白焼きをちょんと醤油につけると、醤油に鰻の脂が浮いた。脂の乗りが凄い。


 ぱくりと一口。なんだこれ、なんだこれは。

 今まで食べた鰻と次元が違う。未知の世界。

 とろける脂が最高に美味しい。


 ぱりっとした皮の香ばしさと、ふっくらした鰻の身が口の中でとろけ、豊かな脂のうまさが口の中に広がる。

 蒲焼きとは違う、わさび醤油のさっぱりさが、脂がのった鰻を爽やかに引き締める。


 あまりの美味しさに、思わず手足をジタバタさせたくなる衝動をぐっとこらえた。

 鰻の余韻に浸り、冷酒をくいっと。さらりと洗い流され、日本酒の甘みが口に広がった。


「白焼きサイコーです。大好き。ああ、もうこれが食べられないなんて」

「蒸してから焼く関東風ですね。僕はこっちの方が好きだな。身がふんわり柔らかくて」

「鰻がこんなに柔らかいなんて、凄いです」


 思わずぱくぱく食べてしまいそうになるのをじっと堪え、一口、一口大切に味わう。

 何せ今日は食い納めだ。


「白焼きが気に入りましたか? さっぱりとしたのが好きなら、うな丼じゃなくて、ひつまぶしにしましょうか」

「ひつまぶし! 食べたことがない。食べたい、食べたい、食べたいです」


 思わず力説したら、笑われた。子供っぽく、言い過ぎだっただろうかと恥ずかしくなる。


 ひつまぶしが来た。木の器に入った、てりってり、つやっつやの蒲焼きが目に眩しい。

 好きなだけ食べられるように、追加で鰻の蒲焼きも頼んでくれたので、遠慮なく。


 箸がすーっと鰻に入った。甘辛いタレと鰻の脂とパリッと感が絶妙なコラボレーション。

 ああ、白焼きを最高と言ったけど、やっぱり蒲焼きも美味しい。

 思わず声にならない悲鳴をあげてしまった。

 鰻のタレのかかったご飯だけでも美味しい。

 そえられた漬け物で舌をリセットして。今度はネギとわさびを乗せて、口の中へ運ぶ。

 爽やかな香りが、こってりした蒲焼きのアクセントで、もはや箸が止まらない勢いだ。


 最後に鰻茶漬け。わさび、ネギ、刻み海苔をのせて、出汁をかけると鰻の脂が浮く。それを見ただけで、もう絶対美味しい。

 ぱりっと感は減ったが、出汁と薬味と鰻が三位一体で調和する。この美味さはたまらない。

 思わずかき込みそうになり、一度ストップ。

 ゆっくりじっくり味わう。


「す、鈴代さん? 泣いてるんですか?」


 いわれて気づく。あまりの美味しさに、ちょっと目尻に涙がにじんでたかもしれない。


「人は嬉しくても泣くんです」

「そこまで喜んでいただけたなら、浜松まで来たかいがありました」


 しまった。鰻に夢中でまともに桐谷さんの顔を見てないし、会話もしてない。

 でも食べ終わったとき、とても良い笑顔をしていたので、きっと桐谷さんも美味しい鰻が食べられて嬉しいのだろう。

 追加の鰻を食べつつ、冷酒をくいっと。

 ああ! やめられない、とまらない。



 しっかり鰻を堪能し、名残惜しい気分で店を出た頃には、すっかり日が暮れていた。


「さて。帰りますか」


 桐谷さんの言葉に、ちょっと驚いた。本気で鰻を食べるためだけに新幹線に乗ったのか。

 鰻はもちろん美味しかった、素晴らしかったけど、浜松まできたのにもったいない。


「ちょっとお土産買ってもいいですか? せっかくの浜松なので」

「ええ。もちろんどうぞ」


 浜松と言えば海の幸。鰻以外にも色々美味しそう。干物類が豊富で、鯛の干物があってびっくり。


「これ鯛茶漬け作ったら美味しそうですね」


 言った瞬間、桐谷さんの目が光った。


「鯛茶漬け。ぜひ僕も食べさせてください」

「は、はい。あ、鰻を巻いた卵焼き。う巻きも一緒にどうですか?」

「ぜひお願いします」


 さすが食い道楽な桐谷さん。お土産の分まで支払うから、食べさせてくれというオーラがひしひしと。

 土産を買って、駅に向かう途中で、海鮮が売りの居酒屋の看板が目に入った。お品書きに「生牡蠣」があって首を傾げる。


「牡蠣って旬は冬ですよね?」

「牡蠣の種類が違うんです。冬は真牡蠣で、夏は岩牡蠣です」


 岩牡蠣は食べたことない。食べてみたい。

 鰻をお腹いっぱい食べたのに、お土産を買ってるうちにお腹が落ち着いて、生牡蠣くらい食べられそうな気がしてきた。


「生牡蠣。食べてみたいですか?」

「食べたいです」

「じゃあ、少しだけ。お酒と一緒に軽くつまむくらいで」


 初めての岩牡蠣に心が弾む。

 鰻の店の日本酒は一種類だったけど、さすが居酒屋。日本酒メニューも豊富で迷うな。


「桐谷さんはお好きですよね。冷蔵庫がビールでいっぱいでした」

「はい。美味しい酒があると、よりつまみの味が引き立つので」

「わかります。つまみを美味しく食べるためのお酒ですよね」


 つまみが主役で、酒は脇役。それも私達の共通点だ。

 日本酒リストを眺めてみても、日本酒にあまり詳しくない私には知らないお酒ばかりだ。


「あ! 獺祭だっさい


 海外の大統領にプレゼントされて話題になり、海の向こうで人気が出て、プレミア価格になった山口の日本酒。

 値段が高いくらいしか知らないのだけど。


「凄いプレミア価格かと思ったのですが」

「ランクにもよりますが、元々そこまで高級ではなかったのです。人気が出すぎて、一時転売で高値で取引されていたようですね」

「元は高くないんですね。どんな味かな?」

「するっと飲みやすいです。鈴代さんは獺祭を飲んで見ますか? 僕は牡蠣を食べるならすっきり寫樂しゃらくにしましょうか」


 流石桐谷さん。日本酒にも詳しい。会津若松のお酒だとか。地名はなんとなくわかった。せっかくだから、二種類頼んで飲みくらべ。

 お酒より何より、生牡蠣が気になって仕方がなくて、運ばれてくる殻付きの大ぶりの牡蠣に、目が釘付けだ。


「大きい!」

「岩牡蠣は真牡蠣よりも大きいです」

「そうなんですか。食べ応えがありそう」


 さっそくレモンを搾る。牡蠣のエキスをこぼさないよう、そーっと殻ごと口に運んだ。

 ちゅるんと口に入った牡蠣は、大きすぎて一口で食べきれなくて、がぶりと噛み付いた。

 ぷりっぷりな弾力と、ミルキーな味が口の中一杯に広がって、思わず「しあわせ……」と呟いた。

 レモンの爽やかな香りで、生牡蠣の汁まで美味しくいただいた。


「岩牡蠣。美味しいですね」

「はい。真牡蠣の方がクリーミーですけど、また違った美味しさがありますよね」


 獺祭だっさいをくいっと煽る。ふくよかな甘さと、爽やかさでするっと癖のない飲みやすさは、まるで白ワインのようだ。

 桐谷さんが選んだ寫樂しゃらくも、癖のない飲みやすさ。こちらの方が少し酸味が効いて、フルーティー。それが生牡蠣に物凄くあう。

 お酒が美味しいから、思わず生牡蠣の二個めも頼んで、しっかり堪能する構えだけど。


「生牡蠣だけだとお酒があまりそうですね」

「そうですね。他にも軽いつまみを頼みますか。何がいいかな。お刺身とか?」

「焼き牡蠣も美味しそう」

「こまいの一夜干しもいいですね」

「桐谷さん渋いですね。でも私も好きです」


 あれこれ頼んだら、今度はお酒が足りなくなって、またお酒を追加した。

 ああ、なんて贅沢な一日。こんなに美味しいものばかり食べて、バチがあたるんじゃないだろうか?


「ああ!」


 いきなり桐谷さんが大声をあげたので、びっくりした。お酒で赤くなった桐谷さんの顔が真っ青だ。


「東京行きの終電まであと五分。間に合いません」


 からん。箸が落ちる音が響いた。終電に間に合わない? どうする? どうなる?

 桐谷さんが凄く申し訳なさそう。


「すみません。終電を忘れてて」

「いえ、こちらこそ生牡蠣食べたいだなんて言って、引き止めてしまって、すみません」


 桐谷さんは困って悩んで、しばらく考えてぽつりと言った。


「帰れないなら、しかたがないですね。ホテルに泊まりましょう」


 え? いきなりお泊まり決定ですか? お酒で火照った身体が、急速に冷えて行く。

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