好きな天ぷら

 桐谷さんが選んでくれた天ぷら屋は、銀座の目抜き通りから、ちょっと入った裏通りにある雑居ビルの地下にあった。


 銀座と聞き、まともな服をしばらく買ってないと慌てて春物セールで買ったワンピース。

 ちょっと私の年では幼いかなと思わなくもないのだけど、大丈夫かな?


 桐谷さんは今日も無難なスーツ。真面目そうな容姿だから、スーツがとても似合う。

 店に向かう間、桐谷さんは私の姿をチラチラ見ながら、何か言いたそうにしていた。


「……その、服が……」


 何かいいかけて口ごもって止まった。

 ワンピースおかしい? 生地が薄いかな? 六月だけど、夜風が吹くと少し肌寒い。


「服ですか? 春物のサーモンピンクを選んでみたんですけど」

「サーモン? 鮭色の名前なんですか? 養殖の安いサーモンは色味が薄いピンクサーモンで、天然のサーモンは赤みが強くて……」


 さっきまでのためらいが綺麗さっぱりなく、すらすらと料理の知識が飛び出してくる。食べ物に関連することなら、本当によどみがないなこの人は。

 語り終わって、深く深呼吸するとぼそりとつけたした。


「……その、とても綺麗な服ですね」


 これが言いたかったのか、ここまでくるのにずいぶん時間がかかったな。

 服を褒められただけでも、思わず頬が緩む。


「ありがとうございます」

「……綺麗ですが、寒そうです」

「はい。ちょっと、寒いかな。オシャレにやせ我慢は付きものなので」


 くしゅん!  思わずくしゃみが飛び出して、ぶるりと震えてしまった。


「無理はいけません」


 桐谷さんはジャケットを脱いで差し出した。

 紳士的な行動に、一瞬ときめきかけた。


「風邪を引いたら美味しい物が味わえなくなります」


 風邪か、食事の心配か、どっちだろう?

 恋の香りは漂ってるのか? 食い物が勝ってるのか? 正直わからない。

 でも素直に受け取って羽織ってみる。かすかに残る温もりに心も温かくなる気がした。



 そんな話をしていたら店についた。

 カウンター席しかない小さい、でも暖かい雰囲気のお店。

 予約してたので、店に入ってすぐ案内される。桐谷さんはためらうように立ち尽くした。


「どうしました?」

「いえ、人と並んで食べたことがなくて」

「ああ。対面のテーブルが多いですしね」


 恐る恐るという感じで桐谷さんが席につく。

 ちょっとしたことで肩が触れ合いそうな距離感に、私もなんだか落ち着かない気分だ。


「今日は何にしますか?」


 まだ若い料理人が、カウンターの中からてきぱきと色々教えてくれる。今日仕入れた素材を聞いて、私は思わず声をあげた。


「私、キスが大好きなんです!」


 がたん!

 大きく椅子が鳴って振り向いた。桐谷さんが私から顔をそむけ、口を押さえて咳きこんだ。


「どうかしました?」

「……いえ。な、なんでもないです。そうですね。キスの旬は六月から。丁度始まった頃ですから、キスの天ぷらは美味しいですね」


 何でもないというわりには、声が裏返ってる気もするが、気にしないでおこう。

 こんな高級な天ぷら屋、初めて来たけど目の前であげてくれるんだ。

 からから、ぱちぱち。

 天ぷらを揚げる音と、漂う香ばしいごま油の香りに思わず喉がなる。

 最初は軽く瓶ビールを一本頼む。


「鈴代さんからどうぞ」

「は、はい」


 とく、とく。黄金色のビールがゆっくりと注がれるの眺めつつ、桐谷さんの白くて細くて華奢で、少しだけ筋張った手が気になる。

 私、結構手フェチかもしれない。綺麗な手だなと見とれてしまう。

 注ぎ終わったら、慌ててビール瓶を受け取って注ぎ返す。

 桐谷さんの手が震えて見えるけど、緊張してるのかな? ビールの注ぎ方下手かな?


「……天ぷらが来る前に、先に乾杯を」

「はい。乾杯」


 かちんとグラスが小さく音をたてた。

 軽く喉をしめらせるつもりが、ごくりごくりと一気に飲んでしまう。暖房も効いてるし揚げ物をしてるせいか店内は暖かい。冷えたビールが身体に染みた。次は冷酒もいいな。


「味付けは塩でお楽しみください。岩塩と、梅塩と、抹茶塩がありますので」


 卓上に三種の塩を入れた蓋付きの容器。違いが気になって、手を伸ばし、同じタイミングで伸びてきた桐谷さんの手と手が重なった。


 予想外にしっとり滑らかな肌の感触に驚く。どくんと心臓が跳ね、思わず反射的にぱっと手を引っ込めてしまう。


 手が触れ合っただけなのに、過剰反応し過ぎだよね。

 気を悪くされたかなと気になり、うつむきながらちらりと観察。眼鏡のずれを直すように、ブリッジに手を置く仕草のせいで、表情がよくわからない。


「ど、どうぞ。お先に」

「あ、ありがとうございます」


 天ぷらを食べにきただけなのに、変に意識しすぎかな?

 隣の桐谷さんが気になって、食事の味がわからなかったらどうしよう。


 ──と思ったが、そんな事はなかった。


「好きだと聞いたので、キスの天ぷらから」


 料理人が、キスの天ぷらを私の皿に載せた瞬間、隣に桐谷さんがいることを忘れて、箸を掴んで大口を開けた。

 がぶり、さく、さく、ほろほろ……。

 ああ! ごま油が香ばしい衣の中で、柔らかなキスの身が口の中でほどけていく。


「ああ……美味しいぃぃ……!」


 思わず声にコブシを聞かせたくなる。それぐらい好きだ。キスって何でこんなに美味しいの? たまにしか食べられないから?

 あっさり淡白で優しい味わいが、塩と絶妙なコンビネーション。


 ぷりっぷりっの海老に爽やかな抹茶塩、とろけるやわらかさの茄子に酸味の効いた梅塩。

 油が上質なのか、塩のバリエーションが豊富なせいか、まったく飽きない。天ぷらの魔力に私はすっかり夢中になってしまった。

 いつのまにか頼まれていた、冷酒をくぴっと合間に飲むと、より食欲が増す。


「アワビは余熱によって柔らかくなるので、少し時間を置く方がいいんですよ」


 桐谷さんのその声だけは聞き取れて、ぐっと我慢し、ひと呼吸を置いてから、アワビを口にいれた。

 アワビってこんなに柔らかかった? と驚いた。そして甘みが強い。天ぷらって素材のよさがダイレクトに出るよね。

 ねっとりしたレンコンや、甘みが濃いかぼちゃを食べて、最後にミョウガで口をさっぱりさせたて落ち着いた。


 ……しまった。食べるのに夢中で、全然話してない。

 慌てて隣を見ると、桐谷さんが目を細めて笑ってた。あまりに食い意地が張りすぎて、呆れられただろうか?


「〆にかき揚げを乗せた天茶漬けが、ここのお薦めらしいです」

「ぜひ、食べましょう」


 思わず握りこぶしを作るほど、力が入った。色気より食い気。

 桐谷さんも美味しい天ぷらを食べられて嬉しいのだろう。とても上機嫌に見えた。


 玉ねぎ、小海老、空豆のかき揚げは、ピンクと緑の見た目が、春っぽくて美しい。

 そのまま食べたくなるのを堪えて、出汁をかけてご飯と一緒に食べる。

 微妙なさくっと、出汁が染みてとろっと柔らかいのが、交互に口の中で遊びだす。

 ああ、海老が香ばしいし、玉ねぎ甘いし、空豆が、ホクホクで香りが爽やかで。空豆の入ったかき揚げ大好きだぁ。


「ごちそうさまでした」


 合掌のポーズで締めると、食後のお茶しか残っていない。何を話したらいいのだろう?


「美味しかったですね」

「はい。こんなに美味しい天ぷら初めてで」

「僕はランチで、天丼は何度か食べたことがあるのですが、夜来るのは初めてです。喜んでいただけてよかった」


 笑顔の桐谷さんの口元がアヒル口になっている。それが可愛いなと思いつつ、お礼をしなきゃ、何か言わなきゃと焦る。

 その時いつのまにか近くの席に、外国人客がいて、料理人さんに英語で話しかけていた。でも、なんだか料理人さん困ってる? 英語が通じてない?


「……Salted plum」


 急に桐谷さんが英語を口にしたので、びっくりして目を見開く。相手の外国人が塩を指差して笑顔を見せて「thank you」と言った。


「桐谷さん。英語しゃべれるのですか? 凄いです」

「いえ。仕事で英文メールのやりとりが多少あるくらいで、英会話は苦手で」


 恥ずかし気にはにかんだ笑みを浮かべ、塩壷の一つを開ける。ピンク色の塩が見えた。


「梅干しを英語でなんて言うのか、伝わらなかったみたいだったから、プラムの塩漬けだと言っただけです。それは知ってたので」


 桐谷さんは英語でも食べ物に特化して強いのだろうか?


「私は英語がわからないので、尊敬します」


 桐谷さんが照れたように笑った。それが可愛いなと思ったけど臆病な私は、上手く言葉にできない。

 頑張ってなんとか捻りだした言葉が。


「ごちそうさまでした。本当にありがとうございました。この借りは飯テロ頑張ります」


 お礼の代わりに飯テロ宣告をして終わった。

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