初めての調理・肉フェス
とんとんとん。新品の包丁がまな板にリズミカルな音を刻み続ける。
小鍋から漂う出汁の香りに火をとめて、ちらりと開いた扉の向こうを覗き見た。
ここからだと見えないけど、桐谷さんは仕事中だ。料理を待つ間、少しでも仕事を終わらせてしまいたいと。
確実に料理の匂いが漂いそうだし、仕事に集中できるのかな? 目の前でじっと調理を見物されるより気が楽だからいいか。
圧力鍋の蒸気が、ぶしゅーっと音を立てて抜けていく。
恐る恐る開けてモツ煮込みを味見。まずまず味が染み込んでいる。もう少し置けば冷める過程でさらに味がしみるだろう。
ピクルスを刻んでタルタルソースを作り、鶏肉を揚げる準備をしておく。チキン南蛮だ。揚げ物は揚げたてが一番。準備して後回し。
次は豚汁。
ごま油で生姜と豚肉を炒めて香りをだしてから、出汁と一緒に玉ねぎ、人参、豆腐とこんにゃくを入れて煮込み始める。
ジャガイモは煮くずれるといけないので後から。
豚肉に先に味噌と酒を揉みこんで下味をつけておくのがポイントだ。ジャガイモをいれて火が通ったら、最後に味噌で味つけて完成。
アスパラを食べやすい長さに切って、軽くレンジでチンして火を通し、薄切りの豚バラ肉でくるくる巻く。軽く片栗粉をはたいてから、油を引いたフライパンに乗せる。
じゅ……っという肉の香ばしい香りが漂う。塩胡椒してから、フライパンの隅にめん汁と味醂を落とし、少し焦がして香りを出してから全体に絡める。甘辛い香ばしさがポイント。
一人じゃないから、たくさん作っても食べきれる。だから、ついつい色々作りたくなる。
自分のために作る料理も楽しいけど、誰かのために作る料理はこんなに楽しかったんだ。
桐谷さんが喜んで食べる姿が目に浮かび、自然と笑みがこぼれた。
お弁当を美味しそうに食べる桐谷さん、可愛いかったな。
悪い人には見えないし、ただ料理を作って一緒に食べるだけなら、きっと大丈夫。そんな気がした。
琴子がいうように、付き合うわけじゃなく、友達感覚で接したらいいんだろう。
そんな風に考えていたら、突然ぐらっと揺れを感じた。
地震? とっさにガスコンロの火を消す。布巾を掴んで油の入った鍋が落ちないように押さえた。結構大きく揺れて、皿が一枚落ちて、床で砕け散る。
すぐに揺れは収まった。
「鈴代さん、大丈夫ですか?」
桐谷さんが慌てた表情でやってきた。
「私は大丈夫ですが、お皿が一枚割れて」
そう言いながら、皿の欠片を拾おうとして、指を切った。
「あ……」
指からぷっくりにじみ出る血。でもたいした切り傷じゃない。そう思ったのに、いつのまにか桐谷さんが隣にきて手首を掴んでた。
凄い真剣な顔で指の怪我を見てる。間近で見る険しい顔が、きりっとしていた。
「すぐに洗って消毒してください。絆創膏を持ってきます」
あまりに真剣なので、その勢いに押され、思わず頷いて指を洗う。
すぐに戻ってきた桐谷さんが絆創膏を巻いてくれた。
「皿の欠片は僕が片付けます。鈴代さんは休んでてください」
「は、はい……」
とても心配してくれる気持ちが伝わってきて嬉しい。でも、間近で見る真剣な表情はかっこ良くみえて、だからこそ恥ずかしくて困る。離れたほうがほっとする。
ごまかすように深呼吸をして、ひとまずリビングの椅子に座ってスマホで地震情報を見る。大きな揺れに感じたけど、小さな地震だった。ここはマンションでも上のほうだから、揺れが大きく感じたのだろう。
リビングを見渡すと、本棚からカバーのついた本が落ちていた。本を拾い、本棚に戻そうとしたときだった。
「そ、それは……そのままでいいです」
慌てたように桐谷さんが、本を取りあげた。見られたくないような本だったのだろうか?
隠されると気になる。もしかして、Hな本だったりするのかな?
私が本を凝視してしまったからかもしれない。桐谷さんはわたわたして、額に手をあてて困って悩んだそぶりを見せたあと、おずおずと本を差し出す。
「笑わないで、もらえますか?」
「はい」
本を受け取って開く。そこには耳と目が大きい、可愛らしい子猫の写真があった。
猫の写真集だ。思わず笑みがこぼれた。
「笑わないでくださいと言ったはずですが」
「すみません。でも予想外に可愛らしくて」
「可愛いというのは三十過ぎた男にふさわしくないです。こんな写真持ってても気持ち悪いだけですし」
「そんなことないです。私も猫好きですし」
桐谷さんがほっと表情を和らげた。
「僕も猫が好きなんです」
はにかむ笑顔がえくぼが見えて可愛い。
「キッチンの片付けは終わりました。もう大丈夫だと思います」
「ありがとうございます。もうすぐ出来上がるので、待っていてもらえますか?」
「もちろんです」
桐谷さんは仕事に戻り、私は調理に戻る。
桐谷さんが猫写真集をこっそり見てる姿を想像し、思わず笑みを浮かべながら。
料理ができたら写真撮影。
テーブルクロスやグラスを並べ、料理を運ぶ。ついつい、いつもの習慣で、一眼レフでより美味しく見える写真撮影に夢中になる。
「鈴代さん。仕事の目処がたちました。そちらの準備はどうですか?」
つい写真に夢中で、桐谷さんがやってきてるのに気づかず慌てる。
「だいたいできてます。後はチキン南蛮をあげるだけで……」
桐谷さんはなぜか私のカメラを凝視した。
「今日の料理もツイートするのですか?」
「そうですね。桐谷さんさえよければ」
「……僕は嬉しいです。ネットの向こうで、この料理が食べたい人に、羨ましがられるかもしれませんね」
嬉しそうに目を細め、口角があがってアヒル口になる桐谷さん。
飯テロ女の料理を食べたぞという自慢になるのだろうか? そんな価値ある料理とは思えないけど。
「飲み物は何にしますか?」
「これにしましょう」
桐谷さんが持ってきたのは、『だいだいエール』という、柑橘類の香りがする日本のクラフトビール。
ちょっと高くて普段は手が出ないけど、柑橘系のクラフトビールは大好きだから嬉しい。
料理を並べると、桐谷さんは両手でぐっと握りこぶしを作り、食い入るように見つめた。
「いただきます」
頭をさげ丁寧に挨拶をし、少し筋張った手で箸を握って、チキン南蛮に手を伸ばし、がぶりと噛み締めると。蕩ける笑みを浮かべた。
「衣がさくっさくで、衣の下から、肉汁がじゅわー……っと肉汁が溢れ出して……美味しいです」
「気に入ってもらえてよかったです」
「肉の旨味と、ピクルスの酸味が効いたタルタルソースとあわさって……とても、とても美味しいです」
上機嫌でニコニコしつつ、肉の余韻が残ってる間にビールをぐびっと流し込んだ。
私もだいだいエールを一口。柑橘の爽やかな香りと、心地よい渋み。甘さはなくすっきりした味わいだが、こってりした肉料理の後だと、さっぱりしてとても心地よい。
桐谷さんはビールを流し込んだ勢いのまま、モツ煮込みを口に運んだ。
「凄い……モツの旨味が濃い。野菜にも良く味が染みてますね」
「本当は一晩くらい置いた方が、さらに味が染みるんですけどね」
「そうですか? 店で食べるモツ煮込みより甘さ控えめなのが、僕は好きです」
桐谷さんは豚汁をすすっては、ほう……と大きく溜息をもらし、嬉しそうにアスパラガスの肉巻きにかぶりつく。
思わず見とれるくらい、美味しそうに食べてくれてほっとした。
「あ、あの、お口にあいました?」
「もちろん。とても美味しく、楽しいです」
「楽しい?」
「一人じゃない食事は、久しぶりで」
ああ、言われて納得。そういえば、私もいつも一人だ。
自分の為に料理を作って一人で食べる。一人で外食をする。
「実は僕、生野菜は少し苦手だったんです」
「え? この前はバーニャカウダの生野菜、とても美味しそうに食べてましたよね」
「ええ、食わず嫌いだったかもしれないし、あの店の野菜が良いものだったかもしれません。でも、それだけじゃなく、誰かと一緒の食事が久しぶりだったからかもしれません」
嫌いなものが、美味しく感じるきっかけは、楽しかった食事の時間だったりする。桐谷さんが食わず嫌いを克服するきっかけを、自分が作れたのはなんだか嬉しかった。
「この前の野菜レストラン。人と外食が数年ぶりで、緊張してしまって……でもとても楽しかった」
「そんなに一緒に食事しないのですか?」
「会社に通勤してた頃は、同僚と付き合いもあったのですが、在宅に切り替えてからは同僚と会う必要もなくなって。友達もいないし、裕人は、外食に誘いにくいですしね」
「わかります。琴子もいつもダイエット中で食事に誘いにくくて。他に友達もいないし、仕事の付き合いはないので」
食べるのが好きで好きで仕方がないのに、食べても一緒に美味しさを共有できる人がいない。
そんなところも私達は同じなんだろう。
それ以上言葉は何も出てこなかったけど、美味しい食事を誰かと一緒に食べる。
そんな幸せな時間を共有できただけで満ち足りた。
「お礼の食事、何が食べたいですか?」
別れ際にそう聞かれ、ちょっと悩んだ。
「天ぷら。天ぷらは揚げたてが一番でも、自分で作ると揚げたてを食べる余裕がなくて」
「なるほど。作る人ならではの贅沢なのですね……良い店を探しておきます」
「次は天ぷらで」
それが私達の別れの言葉だった。
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