思い出の傷
@Unaf
第1話 思い出の傷
コンクリートの地面だけを見つめながら、私は何段も何段も段差を上がり続けていた。明るいけれどなにもない、寂しげな曇り空。太陽はなく、冷たく乾いた風が吹きつけてくる。
ひたすら無心で階段を上っていくと、とうとう頂上に着いてしまった。誰もこない廃れた神社のはずなのに、真っ赤な鳥居が立派な姿で待ち構えている。そんな鳥居をくぐった先には、古びてはいるがやはりどこか小綺麗な屋敷のような建物があった。
目的の場所に着いたというのに、私はため息をこぼした。神頼みなんて柄でもない。悩みを解決するために神に縋るなど、今時時代遅れだ。そんなことを思いながらも非科学的なものに頼らざるを得ない自分に嫌気が差す。
ここへ来たのは、原因不明の憂鬱感がいつまで経っても晴れないからだ。思い付く限りの方法を試したけれど、一つとして効果を表さなかった。精神科医でもらった薬も気休め程度にしかなっていない。おまけに生きることさえ面倒に思えてきてしまったくらいだ。我ながら重症だと思う。
砂利の地面に敷かれた石の道を進んで、賽銭箱と鈴の前に立つ。神様なんているわけがない。きっと私は救われない。わずかに膨れ上がってしまった期待が外れてもいいように、そんな保険をあらかじめかけておく。
「お願いします」
五円玉を投げ入れた私は、鈴を鳴らしてから両手を合わせた。右手に巻き付けられていた花柄でピンク色のミサンガが目に映る。買った覚えのないそれを不思議に思いながらも、私は目を瞑った。
どうか教えてください。「幸せそうだった」ってなんですか? 前の私は幸せだったってことですか? 前となにも変わらないのに、なぜ私は今幸せじゃないんですか?
真っ黒な思考の中で、白い疑問の文字だけが流れる。答えなんて出るはずもない。なのにいつまでも私は考えていた。最後の希望が潰えるのが怖くて、目を開けられなかった。
体感的に数時間が経ったころ、エコーがかかっているかのような高くて奇妙な声が聞こえた。
「君がなぜそんなに苦しいのか、教えてあげようか?」
瞼を開くと、私は暗闇に浮いていた。黒で塗りつぶされたような空間で、地面すらも見えない。ただ、足裏の感触から地面はあるように思える。
私の目の前にいたのは、光って見える純白の兎だった。柔らかそうな白い毛と、長いけれど丸みを帯びた耳。大体の人がそれを見てかわいいと感じるような姿だ。
しかし、私にはそれがとても恐ろしいものに見えた。その理由は、血走った深紅の目だ。まばたきを一切せずに、私の瞳の奥をじっと覗き込んでくる。
「……なん、なの?」
恐怖で後ずさる私の口から出たのは、突然の怪異に対する疑問だった。
「君は知りたいと願った。苦しさの理由を。そして苦しさを埋める何かを探している。とっても罪深いね」
兎の言葉は当たっていた。しかし、私が罪深いというのだけは納得できない。これでも今までずっと真面目に生きてきたつもりだ。
「不満そうな顔をしているね。じゃあ、試してみるかい? きっと強欲な君は、ふらふらと僕らの世界に踏み込んでくるはずさ」
淡々とした口調で兎がそう言った直後、ただの暗闇だったはずの世界が、私の足元から奥へグラデーションのように色付いていく。まず最初に現れたのは、草木が生い茂る原っぱ。次に白い光を乱反射する水の流れが見えて、さらにその先で、色とりどりの花が私を誘っていた。
川の向こう側の花畑で、青白い炎が不規則にゆらゆらと飛び回っていた。それを見た私は惹きつけられるかのように原っぱを抜け、水に足を踏み入れる。ひんやりと心地良い感触が、私の足首の上辺りまでを包み込んだ。
「来るな! こっちに来ちゃダメだ!」
その炎は、必死に叫んでいた。私は薄々勘づいてしまう。これは、いわゆる三途の川というものだろうと。しかし、私の歩みが止まることはなかった。たとえ死んでしまったとしてもいい。それよりもあの炎に近づきたい。その一心で、私は進み続けた。
川を渡り終えると、背後から妙に頭に響く声がする。
「やっぱり君は強欲だったね。きっと君はもう戻れない。いや、戻らないさ」
振り向くが、そこに兎の姿はなかった。
「……来てくれちゃったか。嬉しい、と感じてしまっている僕もまた、欲が深いんだろうね」
炎の声は、とても懐かしく感じた。
「あなたは?」
「僕は死者だよ。ここはあの世とこの世の境目なんだ。君は迷い込んでしまったみたいだね」
予想通りではあったけれど、その事実が心に染み込んでくるような衝撃を与えてくる。となると、私はもう死んでしまったということだろうか。そうだとしても大してショックはない。むしろ良いことだとすら思った。
「安心して、君はしっかり僕が帰してあげるから」
炎は優し気な声で、そんな的外れなことを言う。帰りたいとは思わない。けれど、なぜか私はそのおせっかいを断ることができなかった。
「そう……ところであなたは、なんでここにいるの?」
死者は普通ならあの世にいるものではないだろうか。
「ちょっと未練があってね……」
「未練?」
「うん。聞いてくれるかい?」
炎に表情はないけれど、なんとなく聞いてほしそうにしている気がした。
「……別にいいけど」
「ありがとう。そうだね、僕には大切な人がいたんだ。でもある日、僕はその人を残して死んでしまった。あの世からは現世がちょっぴり覗けるんだけどね。その人が幸せそうじゃないんだ。だから、後悔してるのさ」
想像以上に重い話で、私は反応に困った。でも、これだけは言える。
「死んじゃったのはあなたのせいじゃないでしょ? あなたが気に病む必要はないと思うけど」
少なくとも私よりはよっぽどましだ。私は死ぬかもしれないと分かっていてここに来た。こんな最低な私でも、死んだら悲しんでくれる人がいると知っているのに。
「ううん。僕のせいだよ。死ぬことを選んでしまったんだ」
自嘲するような声だった。でも私は、後悔できるような人が自分勝手な死に方を選ぶとは到底思えない。
「自殺ってこと? つらいことでもあったの?」
「自殺ってわけじゃないんだけどね。つらいこともなかったし、むしろ幸せだった。つらいのはどちらかというと、今の方かな」
炎はやっぱり聞いてほしそうに見えた。なんだか世話の焼ける弟のようで、つい気になってしまう。
「理由を聞いてもいい?」
「……ありがと。実はね、僕の大切な人が前に進めていないっぽいんだ。あと、本当のことを言うと僕のことを忘れてしまってるのもつらい。まあ覚えてたってあの子のためにはならないし、それは僕の我儘だけど」
その声はか細くて消え入りそうで、もしかしたら彼は泣いているのかもしれない。私はその悲しみを癒してあげたくて、慰めの言葉をかける。
「我儘じゃないよ。事情はよく知らないけど、あの、きっとその人も忘れたくて忘れたんじゃないと思うの」
こんなにも大切に想ってくれている素敵な人を忘れたい人なんて、絶対に思わない。きっとこれは、私に限ったことじゃないはずだ。
「そうかな、そうだといいけど……。ねえ、一つだけ君に頼みがあるんだ」
「なに?」
「一時間だけ、僕に身体を貸してくれないか?」
身体を貸す? それはつまり、私が炎になるっていうことだろうか。正直に言えば、少し怖い。身体がない状態なんて想像できないし、考えたくはないけれど、彼が私の身体を持ち逃げしてしまうなんてこともあるだろう。
死んでもいいと思っていたくせに、いざ自分の命が天秤に乗ると疑念を抱かずにはいられない。そんな自分が嫌で仕方がなかった。
それでも私は、彼の助けになりたい。この気持ちだけは本当だ。たとえそれが、少しでもましな自分でいたいという打算込みであっても。
「いいよ」
「ありがとう」
そう言い残して炎が消えると同時に、私は人生で初めての感覚を味わう。自分を構成していたものが、あると感じていたものが一つ残らず消えた。それなのに、浮遊感に加えて視覚と聴覚だけが存在している。
「上手く口車に乗せられちゃったね、君。あいつは戻ってこないよ。だって強欲だもの」
いつのまにか再び姿を現していた兎が、呆れたような口調で彼を侮辱する。
「戻ってくるよ」
私は悔しくて言い返した。
「あいつの死因を知ってるかい? あいつは所詮他人でしかないやつを救おうとして死んだのさ。強欲だろう? 自分が生きているだけじゃ満足できず、他人の命まで願ったんだからね」
強欲っていうのは、私みたいに自分の利益だけを考えて行動することだ。彼がしたことはその真逆、自己犠牲というやつだろう。それを悪く言うのは許せない。私には決してできないことだから。
「きっとあいつは戻ってこない。戻ってきたら二度と現世に帰れないことが分かっているからね。強欲なあいつは自分の命が惜しいはずさ」
「戻ってくるよ!」
私は確信を込めて言い放った。
「なら賭けてみるかい? あいつが戻ってくれば君の勝ちだ。あいつは強欲じゃないし、君も現世に帰れる。でも、戻ってこなければ僕の勝ちだ。あいつは強欲だし、君は現世に帰れない」
彼を信じたはずなのに、私は逡巡していた。私は彼をほとんど知らない。たった数分話しただけだ。そんな彼を簡単に信じていいのかと、私の醜い心が問いかけてくる。しかし、彼はもう行ってしまったのだ。賭ける選択肢以外はない。
そう判断して私が口を開こうとしたとき、私の浅はかな考えを見透かしたように兎は告げる。
「もし賭けが嫌なら降りればいいよ。降りたなら君に新たな身体を用意してあげる。一番これが良いんじゃないかな。あいつが戻ってきてもこなくても、どっちにしろ君は帰れるしね。その代わり、君の中ではあいつは強欲だということになる」
私の苛立ちは、兎に対してのものなのか、それともその提案に納得しかけている自分自身へのものなのか。きっと後者だろう。それならば答えは簡単だ。私を苛立たせる私の選択なんて、なにがなんでも選ぶものか。
「賭けるよ」
私は半ばやけっぱちになりながらそう宣言した。
「そう、後悔しない?」
「しない」
兎に反抗するように、意地になって即答する。本当は後悔すると分かっていた。今まで後ろばかり見て生きてきたのだ。後悔しないわけがない。
「いいや、するね。きっと君は後悔することになる。自分でも分かってるんだろう? 今ならまだ間に合うよ?」
「しないって言ってるでしょ!」
兎の誘惑を振り払うかのように、私は怒鳴った。
「そう、残念」
兎の姿は霧のようにかき消えて、声だけが響いていた。
一時間が過ぎた。彼はまだ戻ってきていない。やっぱりもう帰ってこないんじゃないだろうか。そんな考えが頭を過るが、意外なことに後悔の念は湧いてこない。
もう帰ってこなくてもいい。せっかく少しはましな自分になれた気がするのに、生きていたらまたダメな自分に戻ってしまうだろうから。
嘘つきの彼と憎たらしい兎に感謝だ。最後に初めて、自分の選択に自信を持てた。
そんなことを思っていたのに、彼は帰ってきた。
「ただいま」
慣れ親しんだ感覚が戻ってきて、ホッとするとともに罪悪感を覚える。
「おかえり……ごめん」
「なんで謝るのさ」
もう帰ってこないと思ってただなんて、言えるわけがない。でも、はぐらかすのも好きじゃない。
「ちょっとだけ、疑っちゃったから」
やっぱり私は卑怯だった。中途半端なことしか言わずに、無難にやり過ごす。結局変わっていないのかもしれない。
「そう、相変わらずだね、君は。でも、少し強くなったね」
そんなことはない。私は弱いままだ。けれど、そう言ってもらえたのは嬉しかった。
「僕もごめん」
「なんでよ」
「また心配させちゃったからさ」
彼は笑っているような気がした。
「じゃあ、僕はあの世に帰るとするよ。悩みも晴れたことだしね」
「ちょっと……待ってよ」
呼び止めるつもりはなかったのに、不意に口からそんな言葉が漏れてしまう。
「待てない、もうあまり時間はないから」
無理な願いだとは分かっていた。また守っていてほしいだなんて。だからその返答は予想通りのものだったはずだ。それなのに苦しい。苦しくて堪らない。
「大丈夫だよ。君は強くなってるから」
何を根拠に言っているのだろう。そう思ったが、その言葉に勇気をもらえたのは確かだった。
「じゃあ、最後に一つだけ……今まで、ありがとう」
「それは僕のセリフさ」
ふと意識が途切れて、気づいたときには私はうつ伏せに倒れていた。倒れたまま、ぼやけた視界で横を見る。おそらく砂利だと思われる灰色と、森の木々だろう緑色。私はただぼんやりと、その景色を見ていた。いや、私の目に映っていただけで、見ていなかったのかもしれない。
しばらくそうしていると、砂利が濡れて、頬に冷たさを感じた。その感覚が、やっと私の心を現実に引き戻す。
帰らなきゃ。そう自然に思えた。地面に手を突き立ち上がろうとすると、二つの花柄のミサンガが手に巻かれていることに気づく。一つは見慣れたピンク色のもの、もう一つは、彼が好きだった青色だった。
苦しみの理由を思いだした私は、なりふり構わず涙を撒き散らした。つらい。ここへ来たときよりも。それでも私は、前へ進んでいくことを決意する。それが彼の望んでいることだから。
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