ハケをおりる
コノハナ ヨル
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20代前半の若かりし頃。私は通っていた大学から程近いという理由で、東京都小金井市の前原というところに住んでいた。中央線の武蔵小金井駅から南に徒歩約15分。途中にはハケがあるため、急な下り坂を数十メートルにわたって降りる必要がある。
ハケというのは通称で、地質学的には
一般的な大学生同様、遊ぶ金欲しさに、私も一年生の夏頃に駅前の遊戯場でアルバイトを始めた。そして、そこで働く吉川真知子という同年の女と懇意になり、ほどなくして付き合うようになった。
真知子は高校卒業後すぐに働いてはいたが、定職にはつかず幾つかのアルバイトを掛け持ちする、今でいうフリーターのような暮らしをしていた。彼女は穏やかな性格で、顔つきや体つきは純朴そのものであったが、意外にも煌びやかな身なりを好む女でもあった。当時はバブル真っ盛りで、そういった格好の女性も珍しくはなかったが、まだ今のように都市開発もされていなかった小金井のあたりでは少なからず目立つ。派手目の化粧に、体にピタリとした鮮やかな色のワンピ、それにハイヒール。とくにハイヒールは、
付き合っているわけだから、当然お互いの住処を行き来して、ときには泊まったりもする。だが、はじめこそ嬉々として私の部屋を訪れていた真知子は、次第に来るのを渋るようになった。聞けば、あの坂を歩くのが難儀なのだという。ハケを跨ぐ急勾配の坂は、真知子の好む高いヒールの靴とは甚だ相性が悪かった。
ならば、来る時だけ靴を変えたらどうかと言ってはみたものの、それだけは絶対に嫌だと頑なに拒まれる。彼女に疎ましく思われるのが怖かった私は、それ以上無理強いすることも出来なかった。
そういうわけで、私と真知子の逢瀬はもっぱら駅の北側にある彼女のアパートで行われた。真知子の部屋には私の物が増え、大学やバイト先にもそこから行き来することが多くなっていったのである。
いよいよ大学も卒業だという頃合いになって、私は彼女にプロポーズをした。付き合って三年半。就職先も決まった今、彼女と共に暮らし、ゆくゆくは子供ももうけ、穏やかな家庭を築きたい。そんなささやかで誠実な思いを告げたのである。
しかし、答えは私の望んだものではなかった。端的に言うと、断られたのだ。なにかそこに明確な理由があったわけではない。彼女自身もそれをうまく言葉にできず、ただただ「ごめんなさい」と繰り返すばかりだった。
私は、何か気に入らないことがあるなら直すから再考してくれないかと懇願したが、それでも彼女は決して首を縦に振ろうとはしなかった。そこだけは、やけに明確な意思表示をしてきたのである。「もうここには来ないで」と涙に濡れた声で、しかしキッパリと告げられ、私は自分の思い描いていた未来が、完全に独り善がりであったことを悟った。
私物をつめた段ボールを抱え、トボトボと重い足取りで坂を下り、自分の住むアパートへと帰った。切れかけの蛍光灯がジジジと謳うなか、ぐるりと見回した部屋には彼女の私物らしきものが一つもない事、そもそも、もう何年も彼女がここに訪れたことはなかったという事実が、今更ながら冷ややかに胸を刺した。
この後すぐ、私は小金井を離れ、東京の東側へ、就職先の会社の近くへと引っ越した。
社会人になり4、5年経った頃。大学の友人らと、久々にあの武蔵小金井駅近くの居酒屋に集まって飲み、帰ろうとした時である。安酒に眩む視界の端、道の向こう側に偶然、彼女——真知子の姿をみつけた。多少歳を重ね、髪型や服装が変わっていようとも、その女が真知子であることが私には直ぐにわかった。
彼女は、会社員らしきスーツ姿の男と一緒にいる。手を男の腕に絡め、頬を蒸気させながら何やら楽しげに話していた。それを見たとき何か妙な心持がして、私は普段では考えられないことだが、ふらふらと引っ張られるように、彼らの後をつけたのである。
二人は、かつて私の住んだアパートのある方向へ歩いていく。そして、なんでもないようにあの坂をくだっていった。真知子の着る白いTシャツが夜風に靡き、スニーカーがアスファルトの上で軽やかな音を立てる。そうして坂も終わりに差し掛かった時、ふと動きをとめた彼らは見つめ合い、とても自然な様子で唇を重ねた。
男の手が女の腰を引き寄せ、女の手が男の首筋を愛しむようになぞる。街灯に照らされて、それはまるで映画のワンシーンのようであった。思わず視線を落とせば、睦み合う男女の長い影が、私の足元まで刺すようにスゥと伸びてきている。ハッ、と足を引いた私は、背を向けて足早にもと来た道を引き返した。
私はひどく動揺していた。別れてから数余年。真知子にまだ未練があるわけではなかった。お互い縁がなかったのだと思えるようになっていた。にも関わらず、だ。著しく衝撃を受けたのである。唐突にキスシーンを見せつけられたからではない。“彼女があの坂をおりた” その燦然たる事実に、完膚なきまでに打ちのめされていた。
私といた時には頑なに拒んでいたあの坂を、ハケを、真知子は男とともにいとも簡単におりたのである。私の、目の、前で。
敗北感とも寂寥とも違う、ナントも言えぬ感情が体内でグズグズと廻り、帰りの電車の中で私は人目も憚らず泣いた。
それ以来、私はあそこには行っていない。
切り立つハケが長く伸びる、自然豊かで美しきあの土地は、私にとって青春の光と影が入り混じる地。
未だ回収できずにいる感情が、根を張る場所である。
ハケをおりる コノハナ ヨル @KONOHANA_YORU
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