第35話 レイニーside③

「あ、あの……」


 ローラが腕の中であたふた慌てている。


「ここから先は浅瀬になっていて湿地が続くんだ。靴が濡れるといけないからね。しっかり捕まってて」


 縦に抱いたローラを腕に座らせる格好で彼女を支えると俺の首に恐々しくも腕を回してくれた。彼女からほんのりと甘い匂いがする。


「レイ様、下ろしてください。大丈夫ですから」


 さっきまでのご機嫌斜めは吹き飛んでしまったようで、今度は抱っこされたことの方が気になるようだ。


「うん。だからここは湿地。雨が降った後は水が溢れるんだ。一昨日雨だったからね」


 湿地を好む植物を植えたくてここ一帯は水が溜まる構造になっている。晴れていればそこそこ乾いていて通るのには支障はないのだが、一昨日の雨であちらこちらに水たまりができている。


「今日は靴履いてますから。歩けます」


「そうだね。でも濡れたらどうするの? 濡れた靴を履いたまま帰るのは気持ち悪いと思うよ」


「それは……」


 俺の言葉に黙り込んでしまったことを幸いに、そのまま林の中を通っていった。


「あのー、湿地は通り抜けたと思うんですけど」


 気付いたか。

 とっくに薄暗い林を抜けて太陽が眩しく照らしている景色に変わっている。


「そうみたいだね」


 ローラって柔らかくて抱き心地が良いんだよね。微かに香る甘い匂いも俺好み。ずっと抱っこしていたいくらいだ。


「そろそろ、下ろしてくださってもよろしいかと。靴が濡れる心配もありませんし」


「……喉乾いてない? もう少ししたら四阿が見えてくるから、そこで休憩しよう」


「喉は、そうですけど。レイ様、私の言ってることを聞いていらっしゃいますか? 下ろしていただきたいのですけど。私は小さな子供ではありません」


 頭半分くらい上にいるローラが見下ろす格好できっぱりと告げる。

 濃紺の髪がさらりと揺れて翡翠の瞳が俺を映している。清楚な顔立ちは森の中で人知れず咲く穢れなき白百合のようで目を引く。


「小さな子供ではないのはわかるけど。なんで、下ろしてほしいの? 俺はこのままでも構わないよ。四阿まであと少しだしね」


「私は構います。レイ様だって重いでしょう? 負担になってはいけないと思います」


 ローラの澄んだ声が俺の頭に降り注ぐ。声のトーンや発音やセリフが一つ一つ心に染み入る。容姿もだけど声も行動もすべてが突き刺さってくる。そう、存在そのものが尊いし好みだ。


 相手が王子だからって、媚びることもないし馴れ馴れしく近づくこともない。好意を寄せていることくらいわかっているだろうに。それとも本当にわかっていないとか? 

 ローラなら、それもあり得るのか? だったら下手に自惚れないところもよいかもしれない。

 

「全然重くないから大丈夫。羽根みたいに軽いよ」


「羽根って、そんなわけありません。言い過ぎです。早く、下ろしてください。皆さん、見てますから、恥ずかしいです」


「あっ、そっち?」


 俺たちの後ろには三人の護衛と侍従が一人ついてきている。王宮のプライベートな場所とは言えども一人で歩くことは許されない。人払いはできるけど完全に無人になることはないんだよ。

 ごめんね、ローラ。


「彼らは空気だから、気にすることはないよ」


「空気ではありませんよ、人間です。だってその証拠に笑っていますもの」


 ローラの声が湿り気を帯びてきた。

 微かに震えて涙目で訴えている様子に、さすがにやりすぎたかと思って後ろを振り返ったと同時に


「プッ」


 誰かが噴出した声が聞こえた。

 よく見てみれば護衛の一人が口元を押さえていた。

 リーダーのダン。いつもは冷静沈着なヤツなのに声を出さないように口を覆っていても肩が揺れている。他の者たちも唇を噛みしめて笑いをこらえているようだった。

 

「レイ様。お願いです。下ろしてください」


 彼らの態度をみて、自分の姿がみっともない情けないと思ったのだろうか。悲しみに沈んでいるように見えた。

 なんとなく察してはいたけど、俺たちのやり取りを見ていてただ単に面白かっただけだろう。悪気がないのは長年付き合ってきた俺ならわかるけど。


「ごめん。気を悪くさせちゃったか。部下の無作法は主人の責任だからね。俺が代わりに謝るよ。ごめんね」


「あっ、いえ、そんな……レイ様が謝ることでは……」


 軽く頭を下げるのを見たローラが戸惑った様子で俺を見て、それから申し訳なさそうに彼らに視線を移した。

 さすがに笑ったのは悪かったと思ったのか真顔になった彼らは、深く体を折り曲げて謝罪の意を表した。


「私の方こそ、不躾なことを言ってすみません」


 ローラはそんな彼らのに向かって謝るとぺこりと頭を下げた。

 なんというか素直だよなあ。高位貴族にありがちな傲慢さがない。

 だからだろう、彼らの表情が和んで、気まずさが漂った場の緊張感が一瞬にしてほどけてしまった。


「じゃあ、行こうか。ほら、目的地が見えてきた」


 四阿が目の前に現れた。エルザたちがお茶の準備をして待っているだろう。


「下ろしてもらえないんですね」


 諦め顔のローラがため息をつくとがっかりしたように呟いた。


 そんなに嫌なのかなあ。

 そうだ。

 もっと抱っこして回数を重ねて耐性をつけた方がいいのかもしれない。そうすれば抱っこが当たり前になって抵抗しなくなるだろう。

 うん、そうしよう。

 俺は決心するとローラの温もりを感じながら四阿へと歩いて行った。

 

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