第7話
深い緑色の瘴気の中、地面に蹲る文の背を撫でる咲は、串刺しの鏡を背にした薬師に懇願する。
「薬師様、文が…文が!」
薬師は動かない。
そうしている間にも、文はごぽごぽと泡を吐き続け、喘鳴混じりの呼吸をする。
咲は薬師に訴える。
「薬師様…文は心を改めます。文は薬師様を信じますから。どうか、文をお救いください。お願いします、薬師様!」
「勝手なことを言うな…咲…」
文が掠れた声を吐き出す。
「俺は…薬師を信じない。こいつには何もできないんだ。こいつは本物の薬師じゃない」
「文、この後に及んで無礼です。貴方が助かるためには、薬師様を信じる他に術はないのですよ!」
「だったら咲…おい、薬師も…俺のこのざまを見て、助かると思うのか?」
文はなんとか身体を起こし、ずっと腹を押さえていた手を離し、それを見せつけた。
文の腹には穴が空いていた。貫通してはいないものの、その穴は内臓が見えるほど深いものだった。
咲が呻く。
「そこまで進行していたのですか…⁉︎」
「ああ…どうだ、咲。こんなざまでも、この薬師ならば、あっという間に治療できると思うか、なあ?」
うつろに笑う文の顔と、薬師を交互に見た咲は、ぐっと手を握り、文の顔を見つめた。
「大丈夫です、文。薬師様にできないことなどありません。きっと文を助けてくれます」
「この星は?」
「この星も、必ず。ですが、今は貴方が最優先です、文。薬師様を信じて、治療を受けましょう。どうか…」
「……薬師」
喘ぎながら、口の端から泡を吐きながら、文はゆっくりと薬師の方を向く。その体に空いた穴を見せ、懇願するように尋ねた。
「…お前なら、治せるのか」
薬師は文を見る。
「…俺はまだ、この星を救えていないお前を信用できていないんだが」
文は力なく笑んだ。
「ここまで来て…死ぬのは、怖い」
薬師は文を見る。見つめる。真黒の瞳に文の姿を映す。
咲も祈った。
「薬師様、私からもお願いいたします。どうか、文を助けてください!」
薬師はじっと文と目を合わせ。
やがて。
「……え?」
咲は目を見開いた。
薬師は首を横に振った。無表情のまま、無言で、拒否した。
咲が声を上げる。
「な、何故…薬師様、文を助けてください!」
薬師はもう一度首を横に振る。断る。拒絶する。否定する。言葉はなく、呼吸器から呼吸を吐き出しながら、何度願われようと、何度も首を横に振る。
それでも咲は訴え続けた。
「薬師様、どうか、お願いです! 文を」
「もういい、咲」
文は咲の肩に弱く触れ、振り返る咲へ、青ざめた顔で笑ってみせる。
「もういい」
「何故…文、信じなさい。薬師様は」
「もういい」
「だめです。貴方は必ず」
「言っただろう、咲。治療を望んでいたならば、とっくの昔にお願いしていたよ。懇願していた…けど、ああ、まあ、薬師、どこかでわかっていたのかもしれんな」
文は泡を吐く。
「…薬師、お前を信じたところで、裏切られるんだ。いや、その言葉も間違っているか。俺はお前が降臨した時点で、もう手遅れだった…そんなところか、薬師?」
文が薬師へ目線を送れば、薬師は無表情のまま、小さく頷いた。
咲はふるえる。
「嘘です、そんなの…」
「わかれよ、咲。治せるものだとしたら、あの寄生虫に寄生された時に…或いははじめに会ったあの時点で、薬師は俺を救ってくれていたのではないか」
「貴方は薬師様を信じていなかったのです。そうです、今も、今だって、貴方は薬師様を信じていないのです。今一度、心を改めて、文!」
「まだ言うか、咲! お前は───があっ」
ごぽっ、と一層大量に文は泡を吐いた。
蹲る力も尽き、文は底へ倒れる。
咲は錯乱し、文の体をゆすり叫ぶ。
「文。生きなさい、文! 貴方は助かるのです。薬師様を信じて、助かるのです! 貴方は助かる価値があるのです。薬師様にできぬことなどないのですから、どうか、信じて、願って、祈ってください、文!」
倒れた文は力なく泡を吐き続け、何も答えなくなる。
文をゆすり続ける咲に影が差す。
咲が振り返れば、背後に杖をつき立つ薬師が立っていた。
咲は祈る。文に代わり懇願する。
「薬師様…貴方に…貴方にできないことなど、ありませんよね…? お願いですから、文を、助け」
薬師は首を横に振る。真黒の瞳が咲を見つめる。
咲は言葉を失った。薬師の光の灯らない真黒の瞳は語る。文は助からないと、無言で答えた。
薬師は文の側へ跪き、横たわる文をくるりと仰向けにさせる。
文の腹の穴は内臓を覗かせ、血を滲ませている。薬師が触れても声を上げない。文は蒼白の顔で、薄らと目を開けたまま、二度と覚めない眠りについていた。
薬師は杖を置き、文の体の下へ両腕を入れる。
咲がはっと目を見開く。
「薬師、様…」
薬師は文を持ち上げる。まるで文に体重がないかのように、薬師は文の体を天に掲げる。
緑の濁った瘴気の中、文の体は薬師の手から離れ、ふわりと、ゆっくり宙へ登っていく。
咲が拒絶するように首を横に振り、ふるえる声で呟く。
「だめ…だめです、文…行ってはなりません」
咲は手を伸ばすが、もう届かない。緑の雲から僅かに差し込む陽の光に文は照らされ、ゆらゆらとゆらめく翼が輝く。
文は登っていく。
咲が顔を歪め、叫ぶ。
「そちらは地獄です、文。行ってはだめ‼︎」
やがて文は、汚れた緑の雲の向こう、陽の光の先へと浮かび上がり、その姿は見えなくなった。咲がどれだけ手を伸ばそうと、文が帰ってくることはなかった。
▼
文が逝ったことを確認した薬師は、杖を持ち立ち上がろうとする。
その手を咲が掴み、止めた。
「…何故ですか、薬師様」
低い声で尋ねる。
「何故…文を助けられなかったのですか。何故、文を、地獄へと運んだのですか…!」
項垂れたまま尋ねる咲は、薬師の手を離さない。
「…文は一度、天に連れて行かれたことがあります。理由はわかりませんが、天から使いが降りてきて、突然文を攫ったのです…そして次に文が戻ってきた時、あのひとの体には穴が空いていました」
薬師は呼吸器で深く呼吸をする。濁った緑色の空気が、瘴気がふたりを包む。
「私は天を信じていました…この星を救ってくださる使者が、薬師様が降りてくることを祈り続け、ずっと信じていました…ですが同時に、憎んでもいます。文を攫い、死に追いやった天という地獄を…」
咲は語る。
「貴方を信じていました、薬師様。鏡も、今までの薬師様のことも信じていました。この星を救ってくださると信じ、文を救ってくださると、信じていました…償ってくださると信じて…信じて、信じて、信じて、信じて…‼︎」
顔を上げた咲は、涙を溢れさせ、薬師の両肩を掴み叫ぶ。
「何故ですか‼︎ どうして私たちを、文を、この星を、貴方たちは救ってくださらなかったのですか‼︎ 貴方たちは、一体何のために、何のためにこの星に降りてきたのですか、薬師様⁉︎」
その体を、薬師は片手の杖で叩き返す。弾き飛ばされた咲は後方へ吹っ飛び尻餅をつく。
薬師は真黒の瞳で咲を見下ろし、ゆっくりと、口に咥えた呼吸器に手をかける。
「薬師様…」
瘴気が満ちる中に、串刺しの鏡や、過去の薬師たちが並ぶ。
咲は恨みの眼差しで薬師を見上げる。
「薬師様…私は、貴方たちを、貴方を…」
薬師は呼吸器を外し、片手の杖を両手で持ち、咲へ冷ややかに、黒い瞳を向ける。
咲はその目を覗き、呟く。
「貴方を許さない」
薬師は杖の先を己の喉に向け、咲へ、低く。
「…糞が」
薬師は、己の喉に杖を突き刺した。
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