第5話

緑の服を靡かせ、薬師と呼ばれた女はたじろぐ。

咲と文の向こうには、呼吸器を咥えたもうひとりの薬師。薬師は女をじっと見据え、だが無表情には少しの感情も現れない。

文が片手で腹を押さえたまま、女の襟を掴む。

「ようやく見つけたぞ、。何故逃げた。何故この星を救うのを放棄した!」

「落ち着いてください、文。この方だって薬師様です。無礼な行為は許されません」

「わ、私は、私は違う…薬師じゃない!」

女は後ずさり、辿々しい口調で否定する。

文は苛立ち、後ずさる女へ一歩ずつ踏み込む。

「だったら何だと言う。お前は何だ。何のためにここへやってきた。意味は。理由は?」

踏み込まれては一歩ずつ後退する女が叫ぶ。

「私は薬師になりたくて降りてきたんじゃない。私は薬師になりたくなかった。私は薬師じゃない。みんなが、その子が勝手に、私を…!」

ひらりと袖をゆらし、女は咲を指さす。

咲は動じず、女の顔を見つめた。

「天から降臨なさるものは薬師様なのです。貴方が来る以前に舞い降りてきた方々も、皆自らを薬師と名乗りました。貴方もそのはずだったのでは?」

「みんなはおかしい。みんなだって薬師じゃなかった。なのに、みんなに言われて、みんな薬師になってしまったんだ!」

「ああ…黙れ、薬師。お前の言っていることの方が理解できない。だとしたらお前は何だ。薬師でないとしたら何者だ。名はあるのか」

苛立った文が髪を逆立たせ尋ねる。

女は少し躊躇してから、拙い口調で名乗る。

「私、私は薬師じゃない。私はかがみ。ちゃんと名前があるんだ。今まで薬師と呼ばれてきたみんなだって、名前があったんだ。貴方だってそうでしょう⁉︎」

行方不明だった前回の薬師、鏡は、咲と文の向こうに立つ薬師に問いかける。

咲が振り返り、尋ねる。

「そうなのですか、薬師様…貴方にも、名があるのですか」

薬師は何も答えない。無表情のまま、呼吸器から深く呼吸を吐き出し、真黒な目で鏡を見る。

鏡はまた後ずさる。

「…貴方も薬師として、壊されてしまったのか」

「壊れているのはどちらだ、薬師…いや、鏡と言ったか」

文が鏡の目の前に立つ。

「ひとつ尋ねるが、お前は本当に薬師ではなくて、何の力も持っていないのか。この星を救う力も、その意思も持っていないのか」

鏡はぐっと息を飲み込み、躊躇いがちに口を開く。

「助けようと思えば、私にも出来ることはある。でも、私はそれをやりたくないんだ」

「何故ですか、薬師…鏡。何故私たちを救ってくださらないのですか。私たちは何か、貴方に認められない何かをしたのですか」

「そんなことは…とにかく、私は!」

吃る鏡の手を掴んだのは薬師だった。

薬師はそのまま鏡の手を引き、緑の瞳と目を合わせる。

薬師の黒い瞳には何の感情も宿らない。それでも鏡は覗き込む。

「…薬師。私は、貴方のようにはなりたくない。貴方だって、胸の内ではそう思っているんじゃないのか」

薬師は答えず。鏡の手を離すこともせず。

ただその目を見る。覗く。映す。

薬師と呼ばれる者同士の光景に、咲も文も、ただ無言で見守るしかなかった。

鏡は薬師の目を見つめ、懇願する。

「どうか、どうか薬師…貴方も意思を取り戻して。私と逃げよう、薬師。いいえ、貴方の本当の名を…」

薬師は何も答えず、そのまま鏡の手を引き、もう片手で杖をつき歩き出した。咲が慌てて追いかける。

「薬師様、鏡をどうするのですか」

薬師は答えない。文も追いかける。

「まさか薬師、そのままそいつと逃げる気ではないだろうな?」

「そんな、今回の薬師様は本物なのに!」

「それは咲、お前の妄言だ。前回の薬師、鏡がああいった奴だ。今回の薬師だって、いつ俺たちを裏切るかわかったものじゃない」

「ありえません」

「ありえないはないんだよ、咲」

薬師に腕を引かれる鏡は、無表情のまま前を見据える薬師を見、小さく安堵の息を吐いていた。



この先は洞窟だ。そこを抜ければ汚染地帯に辿り着く。

薬師に手を引かれる鏡と、その後ろを歩く咲と文。薬師に異変は起こらず、今までと同様、淡々と足音もなく歩く。

その洞窟に入ろうとした時、どこからか低い呻き声が聞こえた。咲が周囲を見回す。

「…誰ですか」

「咲、さっさと進め。薬師から目を離すな」

「あ、あの、薬師様、お待ちください!」

呻き声が気にかかった咲は薬師を呼び止める。薬師はぴたりと歩みを止めた。何も言わぬ薬師に代わり、鏡が問いかける。

「一体何だ」

「声が聞こえませんか。とても苦しそうな声です…どこに居るんですか」

鏡は顔を引きつらせ、薬師を見る。

「薬師、構う必要はない。私たちははやく、こんなところから逃げよう。薬師!」

薬師は動かない。鏡がどれだけ腕を引いても、逆に鏡の手を引き、この場に留まらせる。それからひらりと洞窟に背を向け、咲や文の方へ振り返った。

真黒な瞳が見据える先には咲。

その側に男が蹲っていた。

咲は跪き声をかける。

「大丈夫ですか…名を名乗れますか」

「…あずさ。おい、だめだ、離れろ」

男、梓に触れようとした咲は制止される。後ろから文も梓を覗く。

蹲る梓の顔や手足には白い発疹のようなものが現れていた。文が気づく。

「お前…虫に寄生されたのか」

「ああ。だから近寄んじゃねえ。俺の周りに居た奴らはみんな感染しちまったんだよ。だから俺は村を出てきた」

「それでこんな所まで…?」

梓は力なく笑う。

「本当なら汚染地帯で瘴気にやられて死のうかとも思ったんだがよ、俺にはその勇気はなかった。だから、だいぶ空気のいかれたここなら、ひとりでゆっくり、終わりを待てると思った…なのに手前らときたら、何でこんなところに」

「……」

沈黙する文に代わり咲が答える。

「私たちは、薬師様を汚染地帯に導いているのです」

「は…薬師様だと?」

弱った顔でも梓は目を見開き、咲に指し示される薬師と鏡を見る。

梓は歪んだ笑みを浮かべた。

「ああ…手前が嘘吐きか」

「梓、無礼です。この薬師様は本物で、鏡だって薬師様であることに間違いは」

「手前のことだよ、咲」

ぎらりと梓が咲を睨みつける。

「…は?」

何のことだかわからず呆然とする咲の前に、ふらりと梓が立ち上がり歩み寄る。近くで見れば、肌に寄生する虫たちがよく見える。

咲は顔を強張らせる。

文が尋ねた。

「梓、何故咲の名を」

「知ってるさ。薬師が来たぞと騒ぎ立てひとびとに救いを期待させておきながら、その薬師は偽物。何度も俺らを裏切った虚言の口を持つ、花飾りを付けた女、咲! 知らん奴の方が珍しくねえか?」

梓は目を見開きにたりと笑う。怒りと恨みの瞳に咲を映す。白い虫にまみれたその顔に迫られ、咲は反射的に後ずさる。

「ち、ちがいます。私は嘘など吐いていません。今までの薬師様は確かに薬師様でした。ですが、薬師様たちはどうしてか」

「救ってくれなかった。だったらそいつらは偽物だよ。その偽物を見極められずに虚言を吐いていたのはその口だろ、咲?」

「ですが、今回の薬師様は、今回こそは本当に薬師様で」

「懲りねえなあ、まだ俺に期待を抱かせるか、嘘吐きの餓鬼が…俺は誰にも邪魔されず、もう誰にも危害を加えずに、ここで安らかに終わろうとしてたってのによお⁉︎」

荒々しい口調で怒りを露わにする梓は、感情のままに、その虫を咲に感染させようとわざと近づく。

怯む咲へ梓が腕を伸ばした時、そこへ文が割って入った。虫にまみれた手を文が掴む。

「何だよ、手前…」

「言っていることとやっていることがちがうな、梓。その手で触れれば咲は感染する」

「この女は別だ。それに、良いのか。手前は触れているぜ?」

「文…!」

咲が呼ぶ。だが文は梓の手を離さない。怒りの形相の梓の目を見つめ、ため息をつく。

「ひとつ話を聞け、梓」

「あ?」

「俺は咲の言葉も、今回の薬師とやらも信用していない。咲の言葉には何度も振り回された。過去の薬師はこの星を救ってやくれなかった。現にあそこに立つ緑の女、行方不明だった薬師、鏡は…己を薬師ではないと言ったよ」

「話のわかる野郎じゃねえか、手前…」

「だがな…どうも今回の薬師はなかなかやるんだよ」

文もまた、にたりと梓によく似た笑みを浮かべてみせる。梓のひらひらゆれる手を離さぬように強く掴み、もう片手で腹を押さえながら、弱い力でも咲から梓を離していく。

「不治の病を治した。神の薬もお持ちだ。一度虫に寄生された俺たちも助けられた。多少荒っぽいところも見たが、救える奴らは必ず救ってくださったよ、あいつは…あの薬師は」

「だから何だ」

「まだあいつがこの星を救えるかはわからないがな…どうだ、梓。もしもの話だ。もしもあの薬師が、お前のその病を治療したならば…───ぐ」

するりと文の手から力が抜け、梓は解放される。

文はその場に屈み込み、激しく咳き込んだ。

梓と咲が動揺する。

「文!」

「あの薬師が、梓、お前のその病を治療したならば」

「…おい、手前」

「咲を信じてやってくれ」

息を切らし、文が願った。

その声を聞いた薬師は鏡から離れ、杖をつきゆっくりと、梓の元に音もなく歩み寄る。鏡が止める。

「薬師、助ける必要なんてない。そいつらはもう終わるんだ。私たちはもう何もする必要はないんだ、薬師!」

梓が振り返ると、呼吸器を咥えた無表情の薬師がそこに立っている。

咲と文が薬師を見、願う。

「薬師様、どうか…」

「頼むよ、薬師…」

薬師は咲と文へちらと目線を向け、やがて天を見上げる。瘴気により緑に濁った雲に覆われた空へ、薬師はゆっくりと片手を伸ばした。

僅かに差し込む陽の光がゆらめく。

梓が顔を顰める。

「…何をしているんだ、手前」

「口を慎みなさい、梓」

薬師はしばらく片手を掲げたまま、陽の光ゆらめく天を仰ぐ。すると文が何かに気づいた。

「…空気が」

「…ええ。暖まっていく」

陽の光は相変わらず緑の雲に遮られているが、徐々に空気が暖まる。今まで普通だと思っていた冷たい空気が、初めて暖かさに包まれる。

すると梓に寄生していた白い虫たちが、一匹ずつ体から離れ始めた。

「…何だ、これは」

天に掲げた手を下ろした薬師は、懐から小瓶を取り出し、その中身を宙に撒き散らす。すると飛んで離れていく虫たちは次々と死滅し、ゆっくりと底へ落下していく。

梓は呆然とする。

咲が胸の前で手を組み薬師を見る。

「薬師様…!」

「流石にこればかりは…神の力だな」

文も静かに笑い、梓の前に立つ。

「どうだ、梓。こんなことされて…まだ薬師を信用できないか」

「いや…こいつは驚きを隠しきれねえな」

「だったらひとつ、頼みがあるよ。さっきも言ったが、薬師がお前を治療したならば」

「咲を信じろ、だったか?」

梓はため息をつく。

「…まったく狡いな、手前。それとこれとは話が違くねえか」

「ああ、まったく違うな」

薬師が梓に背を向ける。咲もその後を追いかけた。

文もふらりとこの場を後にしようとしたが、その背を梓が呼び止める。

「おい。手前も治してもらえよ。手前も何かやばいのを患ってんだろ」

「…悪いがな、梓。俺はまだ薬師を信用しきれないんだよ」



洞窟の前に立つ鏡は、怯えた目で薬師を見た。薬師が近づけば後ずさる。

「薬師…貴方、貴方は…どうしてそこまで」

薬師は答えない。真黒な瞳を鏡に向ける。

鏡は首を横に振る。

「だめ。そんなの貴方の使命じゃない。私たちの使命じゃない。もうやめよう。どこかへ逃げよう。こんな星を救う必要なんてないんだよ…命をかける必要なんて」

薬師は鏡の腕を掴む。鏡は暴れる。

「嫌だ…私は、嫌…!」

薬師は鏡の腕をしっかりと掴み、逃すまいとばかりに強く引っ張り、洞窟の中へ入っていった。

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