第4話

砂利道を進んでいると、長い橋が見えてきた。

息苦しさはさらに増していく。

腹を押さえ、歩く速さも遅くなる文に振り返り咲は気遣う。

「文、ここまで来てはもう引き返せません。苦しければ、薬師様に治療をお願いしましょうか」

「願いたけりゃとっくに願っている。そうしなかった理由を察せよ、咲」

「ですが…」

「さっきの春とか名乗った小娘のような荒療治は受けたくない。より一層その薬師がまともではないと教えられたよ」

「…無礼者」



橋に近づくと、誰かが立っているのが見えた。

遠目から見ても豊満な胸の女が、優雅に髪と翼をゆらし橋の上で佇んでいる。

薬師は橋を渡る。

後を追う咲は、思わずその女に声をかけた。

「し、失礼します」

「ええ? 別にお構いなく…」

「何をしているんですか」

「景色を眺めているだけよ。この橋はまるで意味がないわね。すぐに底があるというのに、一体何のための橋なのかしらと思って」

橋のすぐ下に穴などはなく、たった今歩いて来た道と同じ、砂利が敷き詰められた底だ。

無意味な橋。ただの飾りのようだ。

咲は立ち止まり、女の横に立ち、橋の下を覗く。

薬師と文は立ち止まらず、文は咲の手を掴もうとした。

「邪魔して悪かった。咲、行くぞ」

「はい。では、失礼しま───」

振り返った女の顔を見た咲は青ざめた。

「ええ。またどこかで」

女は美女だ。鮮やかな色の髪にふわりとした衣服、優雅にゆれる翼と豊満な胸の体。顔立ちも整っている。落ち着いた声や態度に対しその骨格は幼子のように、頬はふんわりと柔らかそうだった。

だがそう例えられるのは片側だけだ。

女の左頰は、目の下から拉げ、歪んでいた。

「…あ、貴方…ええと」

きよよ。どうしたの?」

「き、清…その顔は」

咲に問われた女、清はひらひらした手で、隠すわけでもなく拉げた左の頬に触れた。そうして小さく笑う。

「これねえ…少し前に怪我をして、潰れてしまったのよ。怖いかしら?」

「い、いえ…痛くないのですか」

「もう痛みはないわ。元通りにはならないでしょうけど、少しずつ目立たなくなってきているから、私は気にしていないの」

「勿体無いな、清」

文もまた清の顔を覗く。意地の悪い笑みは浮かべず、哀れむ眼差しもせず、ただ淡々とした表情で清を見た。

「折角の良い顔が」

「あら、ありがとう」

「珍しいですね、文。貴方が他者の容姿に興味を持つなんて」

「怪我を負ったと聞いた辺り、他人事には思えない。それに、ついさっき偽物の美を拝んできたからな」

「春のことを悪く言い過ぎです。もうよしなさい、文」

「貴方も怪我をしたの?」

清が澄んだ声で文に尋ねる。

文は目を伏せた。

「悪い…あまり思い出したくない。話すのは断る」

「ええ。無理には聞かないわ。私も同じだもの。ごめんなさいね」

整った柔らかな顔立ちの右の顔と、拉げ歪んだ醜悪な左の顔で、清は穏やかに微笑んだ。

ちらと咲は薬師を確認する。薬師は立ち止まり、無表情でこちらを見ていた。

咲は清に向き直り、提案する。

「清、貴方は薬師様をご存知ですよね?」

「ええ…でも、薬師様は行方不明だと聞いているわ。それに、それ以前の薬師様だって」

「新しい薬師様が現れたのです。あの方が!」

ひらりと咲は手で薬師を指し示した。

呆然とする清に対し、文は顔を歪め、呆れ、ため息をつき、咲に唸る。

「咲…お前、まさかまた」

「そうです…清、今回の薬師様は本物です。薬師様は、ここに来るまでに出会った、不治だと思われる病を患った者を、あっという間に治療してきました。きっと貴方のその怪我も治療してくださるはずです!」

「…そうなの?」

「よせ。あいつはああ見えて、かなりの荒療治をするいかれた薬師だ。清までその扱いを受けたらどうする」

「ですが文、貴方だって、清の顔が元通りに整えば嬉しいでしょう?」

「…その問いは俺にするものか、咲。元通りになりたいかは清に尋ねろ」

文は呆れ果て目を伏せた。

咲は輝く瞳で、興奮したように清に問いかける。

「清、薬師様はきっと治療してくださります。どんなに治らないと言われる傷だって、きっと治せるはずです」

「そう…そうかしら」

「あの薬師様は本物なのですから。私たちをお救いくださる本物の薬師様なのですから!」

「あの、咲…落ち着いて?」

「戻りたいでしょう、元の顔に。元の美しい顔に。悩むことはありません。薬師様が救ってくださりますから。そんな醜い顔で居続ける必要はもうありませんよ!」

「咲っ‼︎」

文が割り込み、咲の頬を思い切り引っ叩く。

ひらひらした手では痛みを与えることはできないが、頬を掠め、目の前を横切った文の手のゆらめきに、咲は沈黙する。

だがすぐに文を睨み返した。

「…何ですか、文。貴方は何がしたいのですか」

文は強く腹を押さえ、咲から目を逸らし、清の顔を見た。

整った顔。拉げた顔。

「…清。俺からも聞こう。お前は薬師の手で、元の顔に戻りたいか」

「愚問です、文」

「咲は黙っていろ」

清はしばらく無言で文を見、次に咲を見、最後に、離れた場所に立ちこちらをずっと眺めている無表情の薬師を見る。

薬師と目が合う。

何の感情もない真黒の瞳に清を映すと、一瞬薬師が目を伏せたのを清は見逃さなかった。

そうしてゆっくり口を開く。

「そうね…出来ることならば、元の顔に戻りたいわね」

「でしたら!」

「でも」

清の答えに期待をし笑みを浮かべた咲は、続く言葉に顔を強張らせた。

「…このままでも良いと思うのよ」

「…は?」

「私は別に、美しいとか、醜いとか、そういうことはどうでも良いの…元の顔が綺麗だったという訳でもないし、こうして歪んだ顔だからと非難されるのも、どうも思わないわ」

「ですが、つらくないのですか? 醜いと言われて、心は痛まないのですか⁉︎」

「痛むわよ。今も、とても痛かったわ」

清が微笑む。その微笑みのまま、咲の目の前に顔を近づけた。

眼前に広がる美しい顔と歪んだ顔。

笑み。

「ねえ…咲?」

「…え?」

身を固める咲に目を細め、ふわりと清は翼をゆらし背を向ける。優雅な足取りで、薬師たちが今来た道を清は歩いていく。

咲は呆然としていた。

「…何故ですか。あんな顔で生きることが苦痛ならば、どうして」

「咲…行くぞ」

文が歩き出す。咲は慌てて追いかける。

「文、清は何故、薬師様を信じなかったのですか。顔を治したいと思いながら、何故治療を望まなかったのですか。清はどうかしています。あんな醜い顔で生き続けるなんて、あまりにも───」

「どうかしているのはお前だ、咲!」

文が目を見開き、怒りの形相で咲へ振り返り怒鳴りつける。呼吸を荒ぶらせ、強く腹を押さえ、喘鳴混じりに咲へ激怒する。

「前にも尋ねたな、咲。お前は、自分が何を言ったかわかっているのか!」

「ですから、私は清に救いの手を」

「その善意のの言葉で、相手がどう思うか考えたことはあるか? 清も、お前の友だった心も、何故お前の元を去ったのか、その理由がわかるのか、咲⁉︎」

「そんなに怒鳴ってはいけません、文。傷に響きます───」

「答えろ、咲‼︎」

最後は悲鳴のように、文は問いかけた。

咲は後ずさる。

咳き込み屈み込む文を見下ろす目は、その身を案じる色から、徐々に軽蔑の冷めた眼差しに変わり、咲は翼をゆらめかせ文の横を通り過ぎる。

「…つもりではありません。薬師様の善意は本物なのです。物言えぬ薬師様に変わり、その御心を代弁することが、私の務めなのです」

「誰がそうと決めた…おい、咲」

「薬師様を信じないものは救われません。貴方もその傷を癒したいのならば…弁えなさい、文」

「お前は狂っている!」

腹を押さえ、薬師の元へ走っていく咲の背に叫ぶ。だが咲は振り返らず、薬師の側へ立ち、微笑みを向けた。

「行きましょう、薬師様。お時間を取らせて申し訳ございません」

だが薬師は咲を見ず、その場で屈み込み呆然としている文を見、文が歩き出すのを確認すると、やはり咲の方は見ずに振り返り、橋の向こうへ歩き出した。



砂利道は続く。

薬師たちが歩いていると、不意に雨が降り出した。咲と文は空を見上げる。

汚染地帯に近づくこの場では、空は緑色の濁った雲に覆われ陽は薄い。

だが降り注ぐ雨に咲は喜んだ。

「ああ、神の恵みです!」

咲はゆっくりと降り注ぐ雨粒を手に取り、一粒ずつ口に運ぶ。味わい、飲み込み、心から嬉しそうにひとり笑む。

対して文は不快げに顔を顰めた。咲が声をかける。

「文、貴方も食べなさい。体を治すためには力が必要ですよ」

「これが最後の食事になるからか? 悪いがもう食欲は湧かないんだよ。神の恵みなんか知ったものか」

「次はいつ降ってくださるかわからないのですよ。無駄にしたならば罰が当たります。少しでも食べなさい」

「……」

咲に言われ、文は目の前に降って来た雨粒をひとつ手に取り、それをじっと見つめる。軽い吐き気を覚えつつも、恐る恐る口に運ぼうとした。

だがその手を、不意に後ろから何者かに押さえつけられた。

「だめ! 貴方は食べてはいけない!」

「おい、何だ…誰だ⁉︎」

「貴方が物を食べては、命が削られる!」

「何ですか?」

咲が振り返る。

文の後ろには、緑の衣服を纏った女が立ち、全身で文を押さえつけていた。弱った文では女の体すら振り解くことはできない。

咲が駆けつけ、女を引き剥がす。

「貴方…」

誰だ、と言いかけた咲は目を見開く。

文もまた女の姿を確認すると、ぎらりと瞳を恨み色に変えた。

「…お前、今までどこに」

…!」

薬師が振り返った。

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