第2話
この星はとても小さい。少し歩けばすぐに汚染地帯に辿り着く。村から僅か離れただけでも、若干の息苦しさを覚える。
岩場を歩く薬師たちに、どこからか声をかけられた。
「咲じゃないかあ!」
咲は声がした方へ振り返る。横でもなく後ろでもなく、彼女は空を見上げた。
「
心と呼ばれた帽子を被った少年は翼をゆらめかせ宙に浮いていた。
逆さまだった。
にこにことのんびりした笑みを浮かべた心は、器用に翼を動かし、咲の前へ降りてくる。
「文も一緒なんだあ。愛の旅かい?」
「いいえ、まさか。私たちは薬師様をご案内しているんです」
「薬師様?」
ちらりと咲の後ろを覗いた心は、わっと目を輝かせ、逆さのまま宙から薬師に顔を寄せる。
「へええ、はじめまして、薬師様。僕は心。薬師様より上から挨拶する御無礼をお許しくださあい」
「お許しください、薬師様。心は生まれつきの病気で、宙に浮いての生活しか出来ないのです」
「しかも逆さまなんだよ。参ったなあ、もう」
頭を下げる咲に対し、心はのんびりと宙でごろんと寝返りを打つ。
薬師は一切表情を変えない。
「でも病気だなんて言わないでよ、咲。これは僕の個性だと思っているんだ」
「ですが、とても生活が難しそうではありませんか」
「慣れればなんてことないよお?」
「ですが」
「咲、何している。遅い!」
岩場の陰から文が苛立った声で咲を呼ぶ。
咲は振り返り、呆れてため息をついた。
「…貴方は死にに行くだけでしょう」
「だが薬師が救うんだろう。時間がないと言ったのは誰だ、咲」
「へええ、咲…今回の薬師様は、この星の危機を救ってくださるの?」
ふわりと逆さのまま心は薬師の顔を覗く。
薬師は真黒の瞳に心の姿を映す。無表情は変わらず、呼吸器で深く呼吸をする。
「ええ。今度こそは本物です。先程、治らないはずだった村人の病を治療し、神の薬もお持ちでした。この薬師様ならば、災いをお治めくださる」
「ぐだぐだと信仰を語る暇があるなら咲、立ち止まっているな」
「そうです、心!」
苛立つ文の声を無視し、咲は心の手を握る。お互いにひらひらとゆれる不思議な形の手で。
「貴方のその病気も、この薬師様ならば治療してくださるはずです。お願いしましょう!」
「咲、そんな暇があるか」
「そうだよ咲。はやく薬師様に瘴気を止めてもらわないと…僕のことなんかどうでもいいんだよお。別に不便はしてないしい」
「薬師様!」
咲は逆さまの心を底へ引き寄せ、輝く瞳で薬師を見つめる。
「薬師様、どうか心の、この生まれつきの病を治療してはくださいませんか」
「ねえ咲…僕はさあ」
「どうか心に、普通の生活が出来るようにしてはくださいませんか!」
昂る声で訴えられようと、薬師は何も答えず無表情のまま、静かに呼吸する。
その目は心には向かず、ただじっと咲を見る。
見る。
咲は疑問の表情を浮かべる。
「…薬師様?」
「ねえ、咲…」
心が穏やかな声で口を開く。
「咲はさあ…どう思う?」
「え…」
「身体が宙に浮いちゃって、しかも逆さまになって生きている僕をさ、どう思ってるのかなあ、咲」
「咲、行くぞ」
遮るように文が割り込む。
心はぎゅっと咲の手を握る。のんびりとした微笑みを咲に向け、ひらひらと翼を靡かせる。
咲は心の笑みを見つめ、やがて、目を逸らし答えた。
「心は、普通ではありません」
「咲…時間がない」
「心は病気なのです。宙に浮き、尚且つ逆さという体勢で生きるなんて苦しい生活を送り続けるなんて、あまりにも可哀想です」
「咲、それ以上はよせ」
「ですが、もう強がる必要はありません。薬師様が貴方を治療してくれます。貴方は薬師様のお力で、ようやく普通に」
「わかった。咲」
すっと心が咲の手を離す。
身体は勝手にふわりと宙に浮き、逆さまのままで微笑む。
「咲は薬師様が大好きなんだねえ」
「は…?」
「咲は、すごく良いひとなんだねえ」
「心…どこへ行くのです」
「ねえ、咲」
翼と腕をゆらし、ふわりふわりと心は離れていく。逆さまで宙を舞い、咲たちに背を向ける。
だが一度振り返り、嘆くような声と、帽子の陰から困惑の笑みを咲へ向けた。
「ともだちだと思ってたんだけどなあ?」
心は去っていく。
咲が呼び止める。
「待ちなさい心! 薬師様が必ず治療してくださいますから、戻って」
「無駄だ、咲」
文が岩の陰から出て、咲に歩み寄る。うつろな目は冷ややかだ。
「お前、自分が何を言ったかわかっているか」
「私は心を救いたかっただけです。心はいつも無理をして笑みを浮かべているのですよ。可哀想ではありませんか!」
「……」
文は深くため息をつく。それから睨むような目で咲を見た。
「咲…もし選べと言われたならば、お前はどちらと答える」
「何ですか」
「友と薬師、どちらが最も信じられる。必ず選べ。答えろ」
「そんなの…当然です」
咲は呆れたようにため息をつく。。
「薬師様は必ず私たちを救ってくださる。薬師様を信じずして他に何を信じると?」
薬師が歩き出した。杖をつき足音もなく、咲と文の横を通り過ぎ、岩場の中をゆっくり進んでいく。
「お、お待ちください薬師様!」
咲は慌てて追いかけ、文を横切っていく。
残された文は強く片腹を押さえ、嫌悪の表情を浮かべ、薬師と咲の後ろをついていく。
呆れた。嘆いた。失望した。或いは恐怖した。
文はふらふらと不安定な歩みで進む。
▼
岩場を進んでいくと、薬師が突然足を止めた。
「どうしましたか、薬師様」
薬師は答えない。
咲はなんとなく周囲を見回してみる。
途端、足に痒みが走った。ひらひらした手でぱたぱたと足を払う。と、後ろから文が声を上げた。
「咲、離れろ!」
「え?」
「そこは虫の巣だ!」
虫と聞いた咲が周りを見回すと、棒のような虫が何十匹も飛んでいた。
嫌悪を覚えて咲が後ずさるが、足を強烈な痒みが襲う。ぱたぱたと足を撫でると、異物に触れる。恐る恐る咲が自らの足を見れば、棒状の虫が突き刺さっていた。
「な、何ですか、これは…」
「そいつは寄生虫だ。はやくこっちに来い、巣から離れろ、咲!」
「ですが薬師様が」
薬師の様子を確かめ立ち止まる咲に、棒状の虫たちがゆっくりと集まってくる。見兼ねた文が走り出し、咲の手を掴んでその場から引き返す。
だが薬師は、その寄生虫の群れに一切動じず、巣の向こうへゆっくりと進んで行く。
咲が文の手を振り払おうと暴れる。
「離しなさい。薬師様をおひとりで行かせるわけにはいきません!」
「放っておけ! ここを通れば、虫まみれなり、病を患って、俺たちの方が終わる」
「私はどうなっても良いのです。ですから、離しなさい、文!」
咲は文の手からひらりとすり抜け、虫の群れの中を走り進んで行く。
文は反射的に追いかけた。
大量の虫たちが咲と文に襲いかかる。腕に刺さり、足に刺さり。文は庇うように強く腹を押さえた。
「薬師様…薬師様!」
そうしてようやく、ふたりは虫の巣を抜け、薬師の元へ辿り着いた。全身が痒みに苛まれる。だが咲は薬師へ笑みを見せた。
「よかった。薬師様は虫に襲われなかったのですね」
「それも本物の薬師だから、か?」
「ええ、そうですよ。薬師様はやはり本物なのです」
「それより…お前が本物の薬師なら、どうにかしてくれないか。虫まみれで気持ち悪い」
腕や足に刺さった虫が、皮膚から突き出た棒状の体をゆらゆらと蠢かせる。ひらひらした手で叩いても抜けない。
文が舌打ちすると、薬師が側に歩み寄る。その手には銀の箸のような物。文は思わず身を引く。
「…女が先だろう。俺は後でいい」
「いえ、文を先にお願いします。薬師様」
咲が言うよりはやく、薬師は文の体に刺さった虫を箸で丁寧に引き抜いていく。そう時間はかからず全て抜き終えた薬師は、すぐに咲に寄生する虫の除去に取り掛かる。
「まったく、文。貴方は向こうに残るべきでしたのに。貴方の体に虫が寄生したなら、すぐに命の危険が訪れるのですよ。無謀です」
「うるさい…死にに行く俺に命の危険も何もあったもんか。俺の目的は、汚染地帯で死ぬのと、その薬師が本物であるか確かめることだ」
「前者は叶いませんね。死にません。この方は本物の薬師様です。ほら」
咲は虫を取り除かれた体をひらりとゆらし、誇らしげに笑みを浮かべた。
「私たちも治療されたのですから」
「…だから信じろと?」
「いい加減、疑心暗鬼になるのはよしなさい、文。あとは何を見れば、この方を薬師様だと認めてくれるのですか」
「お前がその科白を言うのか、咲…?」
文が睨むような目つきに変わる。
怯む咲。
その横を通り過ぎた薬師は一度、虫の巣の近くへ引き返す。
「薬師様?」
咲が問いかける。
薬師は何も答えず、懐から粉末が入った袋を取り出し、虫の巣に向かって中身をばら撒いた。すると虫たちが次々と死んでいく。
咲は目を見開いた。
「物語で見ました…!」
「これも神の薬か、咲?」
「はい。どうですか、文。この光景を見たならば」
「単に博学な奴だと思うほかにないな」
文は歩き出す。
咲は顔を顰め、じとりと、文のひらひらゆれる翼の生えた背を見つめた。
「強情なひとですね、文。薬師様は本物です。今回こそは間違いなく」
咲は目を伏せる。
「いいえ、私は間違ったことなど一度も言っていません…今までの薬師様だって、本当に薬師様だったんです。そうですよね、薬師様?」
咲は薬師に振り返る。
薬師はただ、死に絶える虫たちが宙から落下する光景を無表情で見つめ、呼吸器で深く呼吸をしていた。
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