6-7 月のように

 11


 どれだけ落ちただろうか。眼前にいたはずのトーチャーはやがてフェードアウトするように消え、気配すらも感じられなくなった。浮遊感も消えた。風切り音もしなくなった。視界も聴覚も触覚すらも失われた。無だ。僕は最も恐れていたものに到達してしまったのだろうか。

 違う。違う違う違う。僕はいつだって悪い方向に考えてしまう。悪い癖だ。思考の旅路とはそういう意味ではなく、至高の領域――真理へと到達するための旅なのだ。僕は生きるということがどういうことなのか、僕という存在に問い続けなければならない。自分を見つめることでようやく本当の自分がわかる、というのは陳腐ちんぷな文句だけれど、ありきたりな行為の裏にはありきたりな幸せが眠っている。これはそれを探し出すためのクエストなのだ。

 今なら、彼女から初めて問われたことに正面から返すことができる。


 ――どうしてキミは死を望むんだい?


 それは、僕が僕自身を不要だと考えていたからだ。居ても居なくても変わらない。だったら、はじめから居ないほうがいい。誰の迷惑にもならない。星の負担にもならない。だから、自ら命を投げ出した。

 けれど、それは逃避だ。思考停止だ。居ても居なくても変わらないだなんて、どうしてわかる。未来を見通しているわけでもないのに、どうしてそれがわかると言うのか。わからないのにわかった気でいるだけだ。所詮しょせん僕は自分の都合の良い解釈で都合良く動いている傲慢ごうまんな人間なのだ。

 だからこそ、僕は傲慢ごうまんな人間らしく生き続けたいと思った。自殺という行為もまた、生物の生存本能からかけ離れた人間らしい傲慢ごうまんな行為であるけれど、僕は僕自身を助け続けるという最も単純で、最も傲慢ごうまんな生物的本能に準じていたいと思っている。そして、欲張りにも自分以外にもう一人だけ助けたいと思っている。生物としての本能の上に、人間としての欲が上書きされているのだ。

 死ねない。死にたくない。生きていたい。生きなければならない。星を失う哀しみは、人を失う哀しみと変わらない。あの気持ちを誰かに抱かせることは罪だ。悪だ。僕は命をして悪に成り下がりたくない。どうせなら、命をして善で在りたい。誰か一人でも助けることができたなら、笑わせることができたなら、僕の命は善として輝き出す。それだけで人生が満たされる。

 僕は、人生を楽しくしたい。それだけを祈っている――


 12


 不意に身体を包んでいた浮遊感が消えた。足の裏に感触が戻る。足よりも頭が上だという認識がよみがえる。

 眼前は真っ暗闇だ。一寸先は闇とでも言うべき状況だ。けれど、まったくの闇ではない。徐々にだけれど物の輪郭りんかくが浮かび上がってくる。

 冷たい空気。冷たい感覚。ここは牢屋だろうか。だとすれば、この場所に彼女がいる。


「アルテミスッ!」


 僕は暗闇の中で叫んだ。あの銀髪が見当たらない。僕は喉を震わせる。痛めたっていい。二度と喋れなくなったって構わない。彼女を見つけられるのなら、惜しくはない。

 彼女が僕を愛してくれているように、僕もまた彼女を愛している。それは当然の理だろう。いや、理由なんて要らない。あってはならないのだ。


「……どう、して」


 暗闇の中でか細い声が震えた。一瞬誰のものかわからなかった。僕の記憶にある声とかけ離れていたからだ。

 声が聞こえる方向へ進むと、鉄格子に行く手を阻まれた。内側を凝視する。暗闇に目が順応してゆく。次第に膝を抱えて座る少女の姿が視界に映ってきた。困惑した面持ちでこちらを見つめている。


「ここに来たら、ダメじゃないか……キミは、まだ、死を望むのかい?」


 アルテミスだ。牢の中に閉じ込められているせいか、平生よりもせこけているように感じられた。膝を抱える両腕が枯れ枝のように細い。白のドレスが悲愴感ひそうかんを際立たせている。服装からして、彼女も王の規律コードに律されているのだろう。

 僕は両手で格子を握り締め、とらわれの少女へと答えを返す。


「望まない。僕は生きる。やりたいことも、やるべきことも、会いたくて仕方がないひともいる。君がそれを教えてくれたんだよ」

「……はは、違うよ。ボクはしるべを示しただけさ。きっかけを通して成長したのはキミ自身だ。何かを成し遂げた時にはまず『自分のおかげだ』と断言できる強さはまだないようだけれどね」

「それは強さじゃなくておごりだよ。人間らしいけれど、僕が影響を受けたのは星であるところの君なんだよ」


 手探りでおりの扉を探す。鍵穴のようなくぼみを見つけたものの、当然ながら鍵を持ち合わせていない。グレンのような馬鹿力も、バルドのような知恵も、レナのような気高さも持ち合わせていない僕には、開けることなどできないだろう。けれど、一人では駄目でも力を合わせれば何とかなる。僕は一人じゃない。一人で何でもできるとは思っていない。僕は自分にできることをやるだけだ。

 僕は考える。何度も目にしてきたはずだ。この世界で起きた超常現象の数々を。常識など通用しない。ほりの水面を持ち上げて展望台へのけ橋を造ることもできるし、肩から水晶の腕を生やすこともできる。それは星特有の力だと思っていたけれど、ルナという世界の規律に身を投じた今の僕になら同じことができるはずだ。星だけが使える能力という規律はあり得ない。何故なら、それはこの世界に星以外の存在を認めているようなものだからだ。

 僕は鍵穴に手を添えた。目をつむり、無限の銀河に想いをせる。星に願いを。月に祈りを。バルドの顔が、グレンの顔が、レナの顔が、ヴェルの顔が、トーチャーの顔が、皆の顔が次々と思い浮かぶ。


 ――アナタに祝福を授けましょう。


 脳内に柔和な声音が響き渡った。セレーネの声だ。彼女が――月が、僕たちに力を貸してくれる。やっと、祈りが届いた。

 僕にできること、それは縁を辿ってひとつながることだ。僕たちは考えるあしだ。心ある生き物だ。それが頼りない糸だろうと、辿ってゆけばひとに出会える。新たな出会いが僕たちに力を与えてくれる。出会いとは可能性だ。微々たる可能性も、積み重ねればいずれ百になる。百とは必然。何事も成し遂げられる。

 僕は目を開いた。手を添えた部分から扉が光に包まれ、やがて光の粒となって霧散むさんした。月は地球への道を切り開くことができる。それは人間が紡いだ絆だからだ。未知の回廊がその後押しをしてくれる。

 僕は檻の中を進みながらゆっくりと思い返す。トーチャーたちへの回答。アルテミスを助けるその目的を、口に出してなぞってゆく。


「僕は――アルテミスの子供だ。親が子を愛するのと同じように、子だって親を愛している。共に生きること、それが親子の“在り方”だと思うから、僕はアルテミスを助けたい」


 アルテミスが目を見開く。そのひとみに徐々に光が宿ってゆく。まるで満天の星のように暗闇に灯りがともる。


「いや……違う。君は母親である以前に友人なんだ。友人を見捨てられる人間を、僕は人間とは呼ばない。そんなものは人間である意味がない。損得勘定で動くのが人間だとしたら、損得勘定を抜きにして動けるのもまた人間なんだ。僕は人間で在りたい。理由なんてなくても、友人を助けられる存在で在りたい」


 これが、思考の旅路で僕が辿り着いた答えだ。まだまだ道半ばだけれど、きっと一息つくには良い頃合いだろう。小休止を挟んで、今度は彼女と一緒に旅に出よう。一人で行き詰まった考えも、二人でなら道が開ける。

 アルテミスの前で身体をかがめる。上目遣いになる眼前の少女へと手を差し出し、僕は――笑う。


「行こう、新たな旅に――」


 アルテミスはハッとした表情を浮かべ、やがて目を細めて笑った。


「……ああ、旅はまだまだ始まったばかりだからね!」


 アルテミスが僕の手をとる。刹那、天上の光が頭上より差し込んだ。地下牢と呼べる空間は消え去り、僕たちのもとへと天の祝福が降り注ぐ。

 彼女と手をつなぎ、きびすを返す。星の光が漂う眩しい空間に一つだけ扉が見えた。きらびやかな水晶で出来ている。


「話を戻すよ」


 扉に手を掛ける僕へと、アルテミスは言う。


「ボクは死のうとしていたわけじゃなく、死にかけていたんだ」


 扉を開くと、目も開けられない強烈な光が視界を埋め尽くした。目をつむり、暖かな光に身を委ねる。意識が徐々に遠退とおのいてゆく。


「キミのおかげで、今のボクは在るんだよ」


 エコーのように響くその声は、とても穏やかで心安らぐ色をしていた。


 

 第6章 了

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