0-2 物語の始まり

 2


 あの日、空から星が降ってきた。煌々こうこうと、まばゆいばかりの星々が一斉に降り注いだ。流星の雨。そう称するに相応しい光が束となって僕の目に焼きついた。

 星々は輝く。輝き方を知っているものもいれば、輝かされているものもいる。闇のふちを漂う姿に同情でもしたのか、あるいはただの気まぐれなのか、はたまた偶然にもそこを通りかかっただけなのか、恒星は輝き方を知らぬ周囲の星々を照らす。否応いやおうなしに、その姿を衆目しゅうもくさらす。決して自慢できるような華々はなばなしい生い立ちがあるわけではない、ただ平凡な、そこに“在る”だけの命を残酷にも照らし出す。明るみに出してしまう。

 そんなことをされてしまえば、僕はきっと耐えられない。何も無い、何の取り柄も無い、何のやる気も無い、輝きの無い人生。そう呼ぶに相応しい体たらくさを有する僕は、高校一年生になって尚、何事にも執着することができず、ただ平々凡々なつまらない日々を過ごしていた。


『つまらないのはお前だ』


 昔、兄に言われたことがある。ふと何気なく退屈な毎日に対する文句を口にした時のことだ。本気で嫌になっていたわけではない。学校が嫌いだったわけでもない。ただ何となく、退屈だと感じてしまったのだ。

 無論、兄の台詞は喧嘩の火種になった。だけど、思い返してみるとまさにその通りだと思う。卑下するわけではないけれど、僕は自分のつまらなさ、矮小わいしょうさというものを理解している。自分ですら理解できるのだ。客観的に見れば、僕はもっとつまらない人間なのだろう。考えるだけで恐ろしい。

 けれど、それも仕方のないことだ。僕は決して輝けない。輝き方を知らなければ、輝かされる方法も知らない。人任せにした挙句、勝手に裏切られたと思い込み、最終的には更なる闇の底へとちてゆく。さながらブラックホールに呑み込まれる星々のようだ。

 いや、違う。彼らと僕とでは状況が決定的に違う。彼らは足掻あがくことができないけれど、僕にはできる。ただ、それをしないだけだ。それがいけないということもわかっている。わかっているつもりだ。

 つもりなだけだ。きっと実際には何もわかっていない。わかっていれば、今こうして一人夜空を眺めていることはあり得ない。

 つまるところ、僕は毎日のつまらなさに辟易へきえきし、何も不自由のない人生を贅沢ぜいたくにも放棄して、満天の星の下、今まさに命を絶とうとしているのだ。


 3


 数分前のこと、星々が煌々こうこうと輝く夜半、僕は川のせせらぎに耳をましていた。いや、川と呼ぶには大袈裟おおげさか。ただの用水路だ。田舎いなかでよく見かける風景であり、世の中には『いやされる』『日常から離れているみたい』とひょうする人間もいるようだけれど、この町に十五年以上在住している僕からすれば、この風景こそが日常であり、退屈な日々の象徴でしかない。

 用水路の縁沿ふちぞいに立ち、僕は水底みなそこのぞき込んだ。流れは緩やかだけれども街灯が少ないせいか底が見えない。ただただ闇が広がるばかりだ。

 小さい頃、兄と一緒に遊んだことがある。深いところで一メートルほどだったか。あの頃は恐怖さえ抱いていた深さも今となってはかわいいと思えるほどだ。あの頃は何も見えていなかったのだろう。井の中のかわず大海を知らず。世界の広さを知らなかったのだ。

 井戸から飛び出したかわずにとって、生まれ故郷である井戸へ戻ることは都合の良いことかもしれない。安心の象徴たる故郷であれば、恐怖心を抱くことなく飛び込める。幸か不幸か、この辺りはごつごつとした岩が並んでいる。打ち所さえ悪ければ、恐らく一瞬で楽になれるだろう。痛みこそあるが、それも束の間のことだ。この鬱屈うっくつとした日常から脱することができるのならば安いものだろう。

 この命はタダ同然に安い。輝き方を忘れてしまえば、命に価値など存在しないのだ。

 けれど、一つ懸念すべきことがある。打ち所が悪くなければ病院送りだ。外科と精神科のダブルパックに違いない。その場合、二度と一人で外出することはおろか、外出自体禁じられかねない。そうすれば、今以上につまらない毎日が待っているはずだ。それだけは避けたい。

 ここで一つ忠告しておくと、僕は決して死にたくて死んでいるわけではない。つまらない日常に意味を見出せないから死を選択したのだ。無意味に死を望むほど浅はかでも愚かでもないつもりだ。つもりなだけかもしれないけれど。


 4


 水面は穏やかで波紋も少ない。夜風もほとんど吹いていなければ、犬の鳴き声すら聞こえない。宵闇が辺りを埋め尽くし、けれど星々だけが僕を照らしている。


(余計なお世話だ)


 中途半端な同情で中途半端に照らし出される僕の気持ちなんて、星ごときにわかるはずがない。彼らは輝き方を知っている。輝く意味を知っている。僕もそれを知っている。彼らの輝きを知っている。

 うらやましい。そう感じたのは一瞬で、それ以降は鬱陶うっとうしいと感じた。輝かなければ、こうして僕の目にすら触れないだろう星々が、したり顔で宇宙を遊泳しているように感じられたのだ。いよいよ精神が病んできたのだろう。最近は誰とも喋らず、指摘されることがなかったため、今の今まで気が付かなかった。こんな状態で会話を交わせば、即刻病院送りに違いない。

 特に、兄には知られてはならない。放任主義の両親とは対照的に、兄は執拗しつように構ってくる。毎日毎日、それこそ部屋の中へと勝手に入ってくるほどだ。もう大学生なのだから、いい加減弟を卒業したらどうかと思う。僕もすでに高校生なのだ。子供ではない。けれど、大人でもないのもまた事実だ。

 きっとそんなうんざりとした、けれど罪悪感にも似た贖罪しょくざいの感情もまた僕を死にいざなう要因になっているのだろう。だからと言って、兄を恨んでいるわけではない。それはほんの少し背中を押すだけのきっかけに過ぎない。

 けれど、僕を決心させる『きっかけ』にはなった。そういう意味では、僕は兄に謝らなくてはならない。


(兄さんのせいで死んでごめん)


 きっと面と向かって言えば、平手で打たれるに決まっている。だから、言わない。

 その優しさで今まで思い留まってきたようなものだから。


 5


 深呼吸をする。死ぬ前なのに気分が晴れやかだ。解放される気分というものだろうか。身体が軽い。これなら水路を飛び越えて、反対側の田んぼに着地することができそうだが、今はやめておこう。

 飛び越えるなら三途さんずの川にしよう。それまでは体力を温存しておこう。

 すっと身体の力を抜く。前のめりに上半身が倒れてゆく感覚がわかる。先ほどまで感じなかった風を感じる。木々のざわめきを感じる。水のせせらぎが耳のすぐ側で聞こえる。頭が空っぽとなったため、全神経が五感に集約されたのだろうか。まるで今までの自分にフィルターがかけられていたのかと疑いたくなるほど、その感覚は敏感で、新鮮で、思わず思い留まってしまいそうだった。

 けれど、それは気持ちの問題で、実際には身体にもう力が入らなかった。既に死ぬ気だったため、運動神経に足を踏みとどまらせる命令を出す用意ができていない。もしもはじめから死ぬ気がなければ、踏みとどまることができたかもしれないけれど、それはあり得ない。僕は死ぬためにここにいるのだ。


(……え?)


 刹那、僕は自分が何をしているのかわからなくなった。どうして僕は今、用水路に向かって倒れているのだろう。どうしてこんなにも身体が軽いのだろう。どうしてこんなにも頭が軽いのだろう。きらめく星の下、僕の意志はまるでブラックホールに呑み込まれてしまったかのように闇の中へと吸い込まれ、消失していた。


(何が、どうなって――)


 次の瞬間、僕は光を見た。既に顔は眼下へと向けられていたにもかかわらず、強烈な光を感じた。照らし出されたと言ったほうが適切だろう。目を開けないほどまばゆい光。それは感じたことのない強い光だった。

 うらやましいと感じてしまう輝き。

 懐かしいと感じてしまう暖かさ。

 そして、哀しいと感じてしまう冷たさ。

 それらが一斉に僕のもとへと降り注いだように感じられた。

 あまりの眩しさに僕は目を閉じた。その瞬間、脳裏には走馬灯のように様々な光景がよみがえった。いや、『よみがえった』と呼ぶのは不適切だ。それらの光景には全て見覚えがなかった。

 この世から隔絶かくぜつされた幻想的な風景。まるで宇宙空間を漂うあおの星。僕は丘陵地帯きゅうりょうちたいに腰を下ろし、悠然ゆうぜんと星々を眺めている。

 場面が次々と転換する。僕は老齢ろうれいの男性と抱擁ほうようを交わし、妙齢みょうれいの女性と展望台で会話を交わし、年端としはのいかない少女と目線を合わせて話している。

 全て僕の記憶だ。間違いない。けれど、僕はそれを今初めて見た。それもまた間違いない。

 わからない。わかったつもりにもなることすらできない。眩しい。全てが眩しい。僕が僕ではないみたいに全ての記憶が眩しく、暖かく、やはり冷たかった。

 だから、僕は眩しさから逃げるように、哀しみから目を逸らすように、自分の意識をそっと手放した。

 それが物語の始まりで、同時に終わりでもあった。

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