第277話 皇太子アーディルⅢ*
すべては西の果ての出来事――とシェールに言われてから一週間ほど経った後、新しい役人が本国から来た。
「残念ながら、我が国とシヤルタ王国との間の交渉は決裂しました。皇子はシヤルタ王国の王都、シビャクに移送されることになります」
役人にそう言われた時、アーディルは頭から血の気が引く思いがした。
「な……なぜ。なんでそうなるのだ」
「条件に折り合いがつかなかったのです。皇子につきましては、シビャクにおいて丁重な待遇を受けると思います。ご安心くださいませ」
「戻してくれっ! 私を龍宮に!」
アーディルは、自分でも驚くほど気が動転していた。自分はそのうちに龍宮に帰れる。暮れた陽がまた昇るように、夏が過ぎて冬が来るように、当然のごとくそうなると思っていたことが、そうならないのだという。
自分の居場所は龍宮だ。生まれた時からそうだったし、他の場所など知らない。考えたこともない。
「頼むっ。どうにかしてくれ!」
「ですから、それは不可能なのでございます」
「勝手なっ――!」
頭に血が上っていた。顔が熱くなる。こんな状態になるのは初めてだった。
「勝手なことを言うな! 遠征の話も勝手に決めて……負けたのも、捕虜になったのも、私のせいではないではないか! ならば、貴様らには戻す責任があるだろう!」
「不可能なものは、不可能なのです。今、家臣たちも尽力しております。なにとぞ、ご理解くださいますように」
アーディルが幾ら荒ぶっても、使者の顔色は一つも変わらなかった。
困っている様子すら見受けられない。何も響いている感触がない。アーディルの怒りを脅威とは感じていない。
龍宮にいるときは、誰もがアーディルの言葉に畏怖していた。だが、ここではその力は失われている。
「もちろん、殿下の安全を守るために私も同行いたします。御身に傷はつけさせませぬ」
「いらんっ!」アーディルは失望していた。もはやこの男に、母国にはなんの期待をすることもできない。「下がれ!」
「……それでは、失礼いたします」
使者は竜帝国式の礼をして、部屋を去った。
弁明の必要も感じないのだろう。至極あっさりとしたものだった。
◇ ◇ ◇
「なるほどね」
事情を聞いたシェール・マルマセットは、平然として言った。
シェールとは二週間以上、毎日一緒に勉強していた。しかし、その顔は悲しんでもいなければ、同情しているふうでもなかった。
「じゃあ、残念だけどもうお別れね。あなたからは学ぶことが多かったわ」
シェールは名残惜しそうでもなく言った。猫が餌をくれなくなった人間の家から出ていくような素っ気なさだった。
「シェール。一緒に来てくれないか?」
アーディルがそう言うと、シェールはぽかんと口を開けた。思ってもいない提案だったようだ。
「なんで?」
「私は心細い。知己であるきみに同行してほしいのだ」
「無理よ。残念だけど、これからシャンティニオンでじっくりアーン語とテロル語を学ぶつもりなの」
シェールは悩む様子もない。
「……なら、君が戻るまで出発を遅らせるように頼んでみる」
「無理に決まってるでしょ? 私はシャンティニオンに部屋を借りて半年くらいじっくりと学ぶつもりなのよ」
半年。
アーディルは絶望的な気分になった。数週間や一月程度ならどうにかなるかもしれないが、流石に半年は延期しては貰えないだろう。
「私がここでこうしているのは、シャンティニオンが占領したてで混乱してると思ったからよ。私にはイーサ先生みたいに護衛はつかないし、勉強しながら待てるなら都合がいいと思っただけ」
「でもアーン語を学ぶのなら、今まで通り一緒に過ごしていても同じではないのか……?」
「アーン語だけじゃなくてテロル語も学ぶのよ。イーサ先生は庶民階層の低俗な言い回しにはちょっと疎いところがあるし、スラングとかも覚えて帰りたいしね」
「じゃあ……半年後、王都で会ったらまた私の世話をしてくれるか?」
アーディルは内心で不安に思いながら、次善の策を提案した。
「なぁに、そんなの嫌に決まってるじゃない。あなたの従僕みたいな真似、するわけないでしょ」
シェールは突き放すように言う。顔には、呆れたような表情が浮かんでいる。
「……シェールは私のことが嫌いなのか?」
「嫌いじゃないけど……うーん、もしかして、私のこと好きになっちゃったの?」
「は?」
好きになった。という言葉に、アーディルはピンと来なかった。物語の中ではありふれたもので、意味は知っていたが、あまりに自分とはかけはなれた縁遠い概念だったからだ。
「……わからない」
「そう。まあ、好きじゃなくてよかったわ。私はあなたのこと好きじゃないから」
「好きじゃない……なぜだ?」
アーディルは少し傷ついたような気持ちになった。
シェールは自分のことが好きではない。
「私、向上心がある人が好きなの。あなたって、王宮でずっと最高の家庭教師がついてくれてたのに、テロル語も話せないじゃない? それじゃあねえ……なんていうか、話題もお母さんのことが多いし。マザコンっていうのかしら? 悪い人じゃないっていうのは分かるんだけど……好きとはちょっと違うかしらね」
その言葉は、ナイフで心臓をえぐるようにしてアーディルの胸を深く刺した。
「そうだったのか」
アーディルはぽつりとつぶやく。視界が暗くなっていくような気がした。心が死に絶え、体が石の墓標になるような気がした。
「くやしい?」
と、シェールは言った。その顔は微笑んでいる。
「くや……?」
アーディルはその概念を理解できなかった。
悔しい。
悔しいという感情を、アーディルは感じたことがなかった。物質的には常に満たされており、他人と比べられたこともなかったからだ。
誰かに否定されても、母は常に肯定してくれた。母は後宮において最大無二の権力者であり、母に肯定されれば他の誰に認めてもらう必要もなかった。
だが、アーディルはシェールに認めてもらいたいと思っている。
「悔しくないの?」
「悔しい……のかもしれない」
「そう」
と、シェールは頷いた。
「じゃあ、今まで勉強に付き合ってもらったお礼に、これをあげるわ」
シェールはいつも抱えていた本をアーディルに差し出した。
「これ、辞書……」
出会った時からシェールが抱えていた本だった。ちらりと見たことがあるが、ただでさえギッシリと文字が詰まっているページの余白には、事細かに詳細な書き込みがされていた。
全てのページがそうなっているのだろうか、と不思議に思ったものだ。
「そ。シャン語からテロル語への辞書だけどね。ま、テロル語もちょっとは読めるんだから、頑張れば勉強できるでしょ。シビャクに連れて行かれるなら、シャン語を勉強しておいて損はないわよ」
「………」
アーディルはその本を受け取った。シェールが手を離すと、ずしんと重かった。
「悔しかったら勉強して、私を見返してみなさい。私は今日中に荷物をまとめてシャンティニオンに出発するわ。半年後にまだシビャクにいたら、また会えるかもしれないわね」
そう言って、シェールは名残惜しくもなさそうに、こざっぱりとドアの向こうに消えてしまった。
◇ ◇ ◇
その三日後、護送隊の準備が整うと、アーディルは馬車に何冊かの本を運び込んだ。
辞書とは学習の道具であるが、単体では言語一つを学習できるものではない。
一両日努力したあと、結局一冊では難しいことに気づき、アーディルはシェールがいたときであれば簡単に出来た伝達を苦労しながら行い、何冊かの本を持ってこさせていた。
「おい」
アーディルは、一緒にシビャクに来るため馬車の横に立っていた竜帝国の役人に声をかけた。
「貴様、ここに残ってこの本の代金を払ってから来い。借りたものだが買い取ることにした」
アーディルはそう言った。人の手から人の手へ、どのように渡ってきたのか知らないが、これは借り物である。
「――は?」
役人は怪訝な顔で返した。
「学習に使う本を借りたが、今後も必要なので買い取ってこのまま持っていく。貴様は代金を払ってから着いてこい。もう一度言わせる気か?」
「いえ、無理でございます。私は皇子の」
「もう一度、言わせる気か?」
アーディルは、役人が腰に佩いたサーベルの柄を握ると、鞘から抜き出した。
やや重いサーベルを持つと、役人の腹に切っ先を当てる。
「お、皇子。おふざけを――」
「私は、この本が学習に必要だと言った」
徹夜で勉強をした後だからか、脳がいい感じに麻痺していた。
繰り返し同じことを述べなければいけない苛々と、かねてよりの怒りがないまぜになり、こんな言語道断の真似をしているのに、なぜか緊張もしなかった。
「借りたものなので、このまま持っていくと窃盗になる。皇子たるものが盗みを働くわけにはいかぬ。貴様は、事情を説明して金を払って買い取ってから来い。そこらの丁稚でもできる簡単な仕事ができないか。それほどの無能なら、貴様は必要ない。
アーディルがそう言うと、役人は驚きで口を開きっぱなしにしていた。
この役人はアーディルと違ってテロル語を話せる。それほど難しい仕事を要求しているわけではない。だが、役人はなにも返事をせずぼーっと突っ立っている。
「手が疲れた」
アーディルはサーベルを支えていられなくなったので、役人の腹に切っ先を軽く突き刺した。
「はっ! はいぃ」
それが応諾の意味なのかは判じかねたが、ともかく返事が出たので、アーディルはサーベルから手を離した。石畳に、カランカランと小気味の良い音が響く。
「行け。金を払わないまま顔を見せたら、殺すからな」
アーディルはそのまま馬車に入り、ドアを締めた。徹夜で頭がぼーっとして辛かった。
馬車は揺れるので本を読むのが難しい。学習の時間を少しでも多く取るため、アーディルは馬車の中での時間を睡眠に当てて、投宿する夜に勉強をしようと思っていた。
ここ数日、眠るのも惜しんで勉強をしている。
なにかに急き立てられるように、今まで感じたことのない熱をもった意欲が心の奥底から湧いてきて仕方がないのだった。
アーディルは、馬車の中の柔らかい長椅子に足を折りたたんで横たわると、目を瞑った。
外では役人がテロル語でやりとりをしているのが聞こえたが、興味がなく、アーディルはすぐに眠りに落ちた。
馬車が発進した衝撃で目が覚め、出発したのかと思うと、またすぐに眠りに入った。
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