第278話 皇太子の私室にて
その日、俺は久しぶりにシビャクに帰ったので、皇太子アーディルの部屋を訪ねていた。
アーディルの居室は、警備の都合上の問題から、王城に置いてある。
俺はその日、アーディルの居室のドアをノックした。
「入りなさい」
ドアの向こうから少年の声がする。俺がドアを開けて入ると、アーディルは椅子に座って頬杖をつきながら分厚い本を読んでおり、ちらりとこちらを見ると驚いたような顔をした。
「あっ、ユーリ閣下、これはどうも」
アーディルはとっさに立ち上がって礼をした。
「アーディル殿下、お元気そうでなにより」
「はい。お陰様で……あ、どうぞお掛けください。といっても、私の家というわけではありませんが」
「いやいや。貴殿は囚人ではないのだ。一つの部屋くらい、己の城と思ってもよかろうよ」
そう言いながら、俺はソファに腰掛けた。
「ありがとうございます。けっこう図太くやらせて頂いていますので、そう言っていただけると助かります」
その噂は聞いている。
「シャン語がずいぶんと上手くなったな」
違和感がないというほどではないが、たった一年しか経っていないことを考えれば、素晴らしい進歩といえる。
「そうですか……そう言っていただけると」
「テロル語も勉強していると聞いている。一年前に会ったときはアーン語しか喋れなかったのに、あっという間に三ヶ国語の話者になったわけだ。見違えるほどの進歩だな」
「ええ……まあ……」
照れているようだ。
「俺もアーン語を少しは勉強したが、挨拶くらいしかできない」
俺はそう言うと、
「こんにちは、貴殿に砂天使の慈しみあれ」
と、アーン語で男相手の挨拶をした。
クルルアーン竜帝国で信仰されているココルル教は一神教だが、神の配下に砂天使と水天使というのがいて、それが雄と雌のような関係になっており、たくさんいる彼らが愛を
元々地元にあった多神教の神々を吸収することで、そうなったらしい。
ココルル教の神殿には水天使に仕える女性の神官がおり、彼女たちの一部は神殿娼婦を兼ねている。面白いのは砂天使に仕える男性の神官もいて、彼らは神殿男娼と呼ばれているところだ。
ただし、砂天使同士で交わるという教義は存在しないので、彼らは男に対して春をひさぐわけではなく、女性に対してのみ売春を行っている。
クルルアーン人と話した時に、神殿男娼が男に春をひさぐことは本当にないのかと尋ねると、その人は物凄く気分の悪そうな顔をして「それは吐き気を催す邪悪で、必ず死刑になる」というようなことを言っていたので、真っ当なココルル教徒にとっては相当にタブーな行為なのだろう。
「貴方にも天神の平穏あれ」
と、アーディルはお決まりの返しをした。
「さて……シビャクには何度も来ていたのだが、君のところには寄らなかったな。すまなかった」
「お忙しかったのでしょう。王城の皆さんは良くしてくださっているので、大丈夫ですよ」
まあ半分リリーさんに会いに来てた部分もあったので、必ずしもお忙しかったわけではないが、言わんといたほうがいいだろう。
「それは良かった。ところで、うちの士官学校に入りたいと要望したそうだな」
俺がそう言うと、アーディルの顔が引き締まった。
士官学校とは騎士院が名を変えた学校で、現在は王立士官学校という名称になっている。校舎は騎士院のものをそのまま使っているが、カリキュラムが大分変わった。
士官学校はなにも首都の一等地にある必要はないので、近い内に郊外に新しいものを建てる予定だ。王都のものは全部ひっくるめて大学になる予定になっている。
「はい」
「なぜそうしたいんだ?」
「語学は講義についていけるくらいの水準になったと思いますし、これ以上は部屋にこもって勉強をする必要もないと思うので」
「だが、君はこの国で軍人の資格を得たいというわけではないだろう。もし学問が好きで学びたいなら、座学中心の文官向きの学校というのもあるが」
教養院のことである。現在はミャロが中心となってカリキュラムと教授陣を改めた上、講義を再開している。
「自分がまだ経験したことのないことを経験したいのです。どうしても駄目でしょうか?」
話には聞いていたが、なんとまあ人が変わったようである。
出会った時のどこか頼りないようなぼんやりとした若者はどこへやら。目が輝いている。
「まあ、軍機に触れない講義になら出ても問題はない。問題のない講義には出られるようにしておこう。体を動かすのに飽きたら、歴史などの講義に出て学ぶのもいいだろう」
「はい。そうしたいです」
「そうしたほうがいい。俺があの学校で一番ためになったのは、まあ戦う方法を学んだのも無駄ではなかったが、イーサ先生の講義だったからな」
「えっ、そうなんですか」
アーディルは驚いた様子で言った。知らなかったようだ。
「そうだよ。俺はイーサ先生に多くのことを教わった。テロル語もそうだが、古代から現代に至るまでの諸国の歴史もな。アーン語は必要になるとは思わなかったから学ばなかったが、クルルアーン竜帝国の歴史や文化についても結構詳しいんだ」
「なるほど……」
「君もイーサ先生に教わったことがあるらしいな。とはいっても、ごくごく小さい頃に一日だけ教えてもらっただけらしいが」
「恥ずかしながら、ちょっと覚えていないんです」
「そうだろうな」
俺とイーサ先生が出会ったのは十歳の頃だ。その頃イーサ先生は迫害から逃れてシヤルタ王国に来たばかりだったわけだが、それ以前に竜帝国に赴いた折に教えたのだとすると、その時この少年は言葉が分かるかどうか怪しいような年齢だったはずだ。
親としても、まあ高名な学者さんが挨拶に来たので記念に一つご教示願いましょうか、といった箔をつけるような感覚だったのではないだろうか。
覚えているわけがない。
「あの人はウィチタの姓を名乗っていましたが、カソリカ・ウィチタの末裔ということになるんですか?」
カソリカ・ウィチタはカソリカ教の、まあ創始者といった感じの人物である。
言うまでもなく世界史の教科書に赤の大文字で載るような大人物だ。
「いや、違う。カソリカ・ウィチタは子を残さなかった。だけどウィチタ家というのは当時でも名門だったから、代わりにカソリカが晩年に取った弟子が養子となって家名を残すことになった。その人がまあ、カソリカの弟子だけあって相当頭のいい人だったから、それからウィチタ家の家名は代々頭のいい養子が継ぐ伝統になったんだ。イーサ先生も養子で、先代とは血もつながっていないよ」
イーサ先生は親のいない捨て子である。産まれてすぐ孤児院に捨てられてしまったのだが、五歳にして牧師の唱える聖句を丸暗記して暗唱してのけたので、びっくりした牧師が
そこからはグングンと頭角を表して、合格者の平均年齢が三十歳以上という
その
「私は出世するために勉強してたんじゃない! 学問が好きだから勉強してたんだ!」
と一念発起し、若いながらに様々な工作活動をしてヴァチカヌスにある女子修道院の修道院長になり、そこで論文を幾つか発表して、晴れて侍従長に抜擢された。
この侍従長というポストがイーサ先生のヴァチカヌスにおける最終職歴である。
やることといえば年三回の儀式でイイススの聖体(いってしまえば死体)の布を替えたりするだけで、他の時間は研究三昧の生活を送ることができ、そこそこ権力もあるので資料をかきあつめることもできたので、イーサ先生にとってはまさにこれ以上望むものはないという理想の職場だったわけだ。
クルルアーン竜帝国に研究旅行に行って幼年のアーディルになにかを教えたのも、その年三回の儀式の合間の話だろう。
「そうなんですか。私もあの人にはとても世話になりました。シェールと会わせてくれたのはあの人ですから」
「ああ、シェール・マルマセットだな。話は聞いているよ。じきに戻ってくると思う。語学学校を始めたがっていると聞いているが……」
それはイーサ先生からお願いされた。
魔女の残党にもそういった熱心な者がいるんだなぁ、と感心したものだ。
「ええ、そうなんです……語学学校については、問題ありませんよね」
「マルマセットだから、ということか?」
「はい」
まあ、王都に一年もいればそのへんの事情くらい分かるようになるか。
「大丈夫、そのへんは問題ない。マルマセットといっても傍系だし、教える内容が語学だけならば国益にもなる」
ただし、語学だけならばの話だ。当然ながらホウ家や王家に憎しみを仕向けるような教育をこっそりしていたり、テロ教唆の集会でも開いているようなら大問題である。
それはそれ、こっちの手の者を生徒として潜り込ませて、きちんと内偵を入れればいいだけの話だ。
問題があるようならシェールを捕まえて処罰すればいい。その頃学校が大きくなっていれば、シェールを除いて学校を残せばいい。どのみち得にしかならない。
「それならばよかった」
と、アーディルは心底から安心したような声を出した。
「こちらに馴染んでいるのは大変結構なのだが、こうなると帰るときが心配になってくるな。君はいつか帰らなければならないんだよ」
「それは、そうかもしれませんね」
アーディルは落ち込んだ顔を見せた。
どうも帰るのは気が進まないらしい。若いし、早くもこちらの生活に馴染んだのだろう。
「そうかもしれない、ではなくて、そうなるのだ。近い未来に確実に起こりうる事態として考えていて欲しい」
「それは、どういう……? 交渉は未だ暗礁に乗り上げている状態なのでは。話が纏まりかけているということですか?」
今日ここに来た本題はそれだった。実際に話してみてから決めるつもりだったが、俺はしごくあっさりと話してしまうことに決めた。
過保護な母親に飼い殺されていた頃には育たなかった自意識が、今は育っているように見えたからだ。
「交渉は成立していたんだよ、最初から。君の父上がお望みならば、いつでもお返し差し上げるという条件になっていた」
俺がそう言うと、アーディルは怪訝そうな顔をした。
「えっ、それはどういう……」
「言葉のままだ」
「……えっと、父は、私のことが邪魔で、遠ざけておきたいということですか?」
アーディルはそう言った。だが、そういう疑念を抱いているにしては別段傷ついているふうでもなかった。
父に嫌われたところで、心の深いところではどうでもいいと思っているのだろう。
もし廃嫡され放り出されたとしても、自力で生活していける自信があるに違いない。
「そういうわけじゃない。先の戦争に竜帝国が参戦した理由が、将来の龍帝である君を戦勝の誉れに浴させることであったことは理解しているな?」
「ええ、理解しています」
「竜帝国の皇家は、新生児を産湯に浸けるように、王になる者にはそういった英雄譚が必要だと考えるらしい。なので、俺は必要な英雄譚を作って差し上げようと提案した。そんなもののために戦争をふっかけられたのでは、たまったものではないからな」
「英雄譚を? こうして捕虜になっていることの、何が英雄なんですか」
まあ、そう思うよな。
「時が来たら、君はこの国から一人で脱出し、自力で旅をして本国まで辿り着くのだ。向こうでは、その脱出劇を波乱万丈に歌う吟遊詩人の歌まで考えられているだろうよ」
俺がそう言うと、アーディルは唖然とした顔をした。
「……は? この手で剣を取って、この国から逃げ出せと?」
「もちろん、君がそんな危険な真似をする必要はない。というか、やってもらっては困る。表向きはそういうことにするという話で、実際には船かなにかでお送りして引き渡すという形になると思う」
「あ、ああ……それはそうか……」
と、アーディルは自失した状態の中でも腑に落ちたようだった。
「……でも、そんなことをしたらこの国の名に傷がつくのでは?」
「それはそうだが、大したことではない。むしろ、こちらとしては君の蛮勇を称える形になるだろうな」
戦争というのは、大抵の場合相手への無理解から始まるものだ。
アーディルが無事即位すれば、若いのだから数十年は在位してくれるだろう。アーディルがこの国で暮らしてうまいこと友好的になってくれれば、安定した友好国を作ることができる。
それは少しばかりの恥と比べれば、天秤にかけるのも馬鹿馬鹿しいほど大きなメリットだ。
それに、国交というのは片方に劣等感がある状態ではあまり上手くいかない。
うちは戦争に負けたけど、自慢の皇太子はお前の国が捕まえておけなかったほどの豪傑なんだぞ。してやったり。と小さな意趣返しを感じているくらいが丁度いい。
「アクナル三世陛下は、跡継ぎである君がミーディア皇后に甘やかされて育つのを憂慮しておられた。こんな事を言っては君の気分を害すかもしれないが、惚れた者の弱みというのか、ご自身で皇后を諌めることはできないようでな。もちろん、ミーディア皇后はこの一連の陰謀を知らない。知れば怒り狂ってありとあらゆる手を使って君を取り戻そうとするだろう」
「ああ、それはそうなると思います」
「だから、陛下にとっては君が隔離されたこの地で育つのはむしろ都合がいい事態なんだ。当然、度を超えた虐待や死に及ぶような危険な扱いをされぬよう、お目付け役をつけた上での隔離だがな。一緒に来た君の国の役人たちは、そういう役割なんだよ。君は自主的に奮起したが、そうならなかったら連中のほうからなにかしら試練を与えるような働きかけをしてきていただろう」
俺がそう言うと、
「なるほど……ハハハ、そういうことだったわけですか」
と、アーディルは乾いた笑いを漏らした。
「本来は秘密にしておかなければならない話だが、俺は君を一人の人格者として見込んだから話した。何も知らない小僧のように扱うのは、今の君に対しては失礼だからな。だから、俺が話してしまったことはお目付け役の役人には黙っていて欲しい」
「はい」
「すまなかったな、自我のない幼い子供のように扱われて気分を害しただろう」
俺がこんなふうに抜け駆けする形で話したのは、アーディルにはいずれ必ずバレることだからだ。実際に大冒険をするわけではない以上、当人に隠し通しておくことはできない。
一年前の頃の、何も知らない童子のような状態であったなら構わなかったが、今の彼はそうではないのだ。
いずれバレる以上、アーディルの中ではずっと隠し通していた方が卑劣に感じられるだろう。彼との関係を大事にしたいこちらとしては、抜け駆けしてバラしておいたほうが具合がいい。
「いえ、そんなことは」
「そうか。まあ、そういうわけだから、こちらとしては一度は君を国に返す必要があるのだ。これは秘密条約で文書化されている義務だから、国家の責任として必ず履行しなければならない。その上で、もし皇帝になるのがどうしても嫌になったのなら、向こうで出奔するかなにかして姿を消してしまってもいい。それは君の自由だ。こちらとしては色々と面倒なことになるがね」
「……面倒なこととは?」
「皇子を失った向こうからは、やるせない憤りのようなものをぶつけられるだろうな。こちらの国内を探せだとか、隠しているなら返せだとか、そういうことは言ってくるだろう。だが、まあ気にしなくていい。こちらも自分勝手に君の身柄を利用しているのだから」
こちらとしては皇子として収まってくれないと色々とご破算なわけだが、ここで脅すようなことを言って即位させるのもおかしな話だ。
そもそも、このご時世で三ヶ国語を自由に喋れる人間ならばそうそう食べるに困ることはない。立場上、どこかの国の官だか軍だかに潜り込んで立身出世するというのは難しいが、商会にでも入れば引く手あまたで重宝されるはずだ。
そういう手に職を持っている人間からしたら、皇帝というのはそう魅力的な職業とはいえない。煩わしい権力闘争の中心に常にいなければならないし、無能を晒したり道義にもとる真似をすれば家臣から陰口を叩かれる。
反乱を起こされれば殺されることもある。人の生き死にに直結する戦争の判断も適切に下さなければならない。それは、まともな想像力を持った人間にとっては大変な重荷である。
世の中の阿呆は、王のことを法に縛られず一生涯やりたい放題できる特権の座とでも思っているようだが、実際は苦労することのほうが多いし、どうしても王にならなければできない人生の楽しい事というのもあまりない。
その時代の文化レベルで叶えられる道楽というのは、そこそこ有能で仕事が苦ではない人間なら、王にまでならなくても大抵は叶えられるものだ。
このアーディルはどう見ても権力欲の権化ではないし、欲が多いようにも見えない。
一年前の状態で放り出されたのならいざしらず、たぶん今なら皇太子をクビになったほうが幸せな人生を送れるのではないだろうか。
「まあ、今すぐの話ではない。あくまで情勢次第だが、きみが二十歳になるくらいまで何も言ってこないかもしれない。暇な時にでも、将来のことを考えてみるといい」
「はい。そうさせていただきます」
「長話になってしまったな。そろそろお暇させていただくとしよう」
そう言って、俺はソファから腰を上げた。
「学校で人と触れあえば、辛いこともあるだろうが、楽しいこともある。この国のことを好きになってくれると嬉しい」
この子にとっては、少し遅く訪れた
どんな人間の人生においても、そういった季節は訪れるべきだ。人間は、その季節に自分が何者であるのか知るのだから。
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