第276話 皇太子アーディルⅡ*

 一週間が経ち、傷にうっすらと薄い皮が被り、座るのが苦痛でなくなってきたころ、部屋に来客があった。


 こんこん、と扉がノックされ、女性が現れた。肌は少し浅黒く、アーディルは最初、その人をエンターク竜王国の人かと思った。

 竜王国人は、ぺニンスラ半島というところで長く戦争をし、長い長い統治期間の間に北方の血が混じった。そのため、クルルアーン竜帝国の人々と比べると、肌の色が薄かったり顔の作りが異なる人が多い。


「ごきげんよう、親愛なるアーディル殿下」


 と、その女性は竜帝国式の挨拶をした。ややイントネーションに癖はあるが、十分に聴きとれる流暢なアーン語だ。


「名を名乗ってください」

「イーサ・ウィチタと申します。出身は教皇領で、今はシヤルタ王国の者です……やはり覚えておられませんよね」

「……え? あー……はい、すみません」

 以前に会ったことがあっただろうか。

「以前、研究のため竜帝国に参りました折、皇后様にお願いされて一日だけ家庭教師をさせていただきました。とはいっても、そのとき殿下は十歳にも満たない年齢でしたので、覚えておられないのは当然のことと存じます」

「そうですか」

「戦場にて捕虜になられたと聞いて少し心配だったのですが、ご無事でいらしたようで安心いたしました」

「はい。あ、どうぞお掛けになってください」

 アーディルがそう言うと、イーサと名乗った女性は「では失礼します」と断ってから、背筋の伸びた姿勢でソファに腰かけた。

「ここでの生活は、なにか不便はございませんか? とはいえ、私にできることは限られているのですが」

「ええと……そうですね。まあ、自由に外に出られないのと、言葉が通じないのは不便です」

「あら……そうでしたか。外に出られないのは、私にはどうしようもできませんが……テロル語はまだ少し難しいですか?」

「はい」


 アーディルは龍宮でテロル語を習わなかったわけではない。だが、実際に言葉を聞いても、上手く聞き取れず喋ることもできなかった。

 シャン人たちはテロル語を主な外国語として習っているようで、今喋っているアーン語は誰も使えない。また竜帝国の通訳もテロル語を話せる者は大勢いるが、シャン語を話せる者はいない。長い間、二つの国に接点がなかったかららしい。

 なので、シャン語とアーン語を両方喋れる者がいない。話を通さなければいけない責任者の人々はみなシャン語しか喋れないので、要望を伝える際にはテロル語を介して伝えることになる。アーン語からテロル語、テロル語からシャン語と、二段階の通訳が必要となり、それが意外と面倒で時間がかかる上、途中でころころと意味が変わってしまうのだった。

 果実が欲しいと言ったら、なぜか強い果実酒が運ばれてきたり、筆記具が欲しいと言ったら絵を描くための画材が届けられたこともあった。


「ふーむ……提案なのですが、私の教え子にアーン語を学びたいと言っている娘がいるのです。どうでしょう? 傍に置かせていただければ、彼女の学習の足しにもなると思うので、よろしければ話してみましょうか?」

「え? そうですか……うーん……」


 正直なところ、あまり気が進まなかった。娘ということは、同年代くらいの女性だろう。

 女性という生きものは、後宮にはたくさんいた。だが、母親以外の後宮の女性は基本的にはアーディルを憎み、害そうとする生きものだった。

 母ミーディアも彼女たちを敵視していて、アーディルに近寄らせなかった。給仕や奴隷として仕える女性、あるいは目の前にいる彼女のような家庭教師の女性はたくさんいたが、今に至るまで、アーディルは特定の若い女性と親しく接したことは、今まで一度もなかった。


「では、よろしくお願いします」

「はい……でも、彼女は名門貴族の出身なので、召使いとは違います。その辺りはご理解くださいね」

「分かりました。どちらにしても、暇は持て余しているので……」

「そうですか。では、よいお話し相手になるかもしれませんね。彼女は学生の身分で、私が命令をして従うというような関係ではないので、嫌と言われたらどうしようもありませんが、話はしてみます」

「……学生、ですか?」

「ええ、ガリラヤニンで――あ、今はシャンティニオンと言ったほうがよろしいですね。シャンティニオンで本場の外国語を学びたいと言って、ついてきたのですよ。アーン語は片言程度ですが、テロル語はほぼ完全に話せます。大変に勉強熱心な子です」

「そうなんですか……」

 アーディルは同年代の学生というものと出会ったことがない。ずっと、後宮の中で自分一人だけを教える家庭教師に囲われてきたからだ。

「はい……と、それでは、申し訳ありませんがそろそろ失礼させていただきます」

 イーサと名乗った女性は、懐中時計を確認すると、慌ただしくそう言った。

「忙しいのですか?」

「実をいうと、そうなのです。元々この都市には寄らずに通過する予定だったのですが、殿下が捕虜になられたと聞いて、せめてご挨拶をと寄らせてもらったので」

「なるほど、それはどうも」

「慌ただしくてすみません。それでは、及ばずながら宸襟しんきんの安らかならんことをお祈りしております」

 そう古めかしい挨拶をすると、イーサと名乗った女性は再び竜帝国式の礼をして部屋から出ていった。



 ◇ ◇ ◇



「どうも、こんにちは」

 その日の午後に早速現れた女性は、アーディルより年下のように見える少女だった。

 肌が白く、長い髪を三つ編みに編んでいる。背が小さく、傍らには分厚い本を抱えていた。禁欲的で質素な庶民服を着ており、見た目からは名門貴族の令嬢といった感じは受けない。

「シェール・マルマセットです」

 ぺこりと頭を下げるだけの挨拶をしてくる。話しているのは、ややたどたどしく聞こえるアーン語だった。

「よろしくお願いします」

 アーディルは挨拶を返した。

「ご要望は、暇を潰すための雑談の話し相手と用件の伝達、つまりシャン語への通訳ということで?」

「はい。その通りです」

「先に断りますが、わたくし未婚女性のたしなみとして夜は同じ部屋にありませんので」

「そうですか」

 やや意味の通りづらいアーン語だったが、夜は来ないという意味だろう。

「それと、約束をしてもらいたいことが一つあります」

「はい?」

 なんだろう。手を触れないでほしい、というような願いだろうか?

「わたくしのアーン語が間違えていたときは、その都度ご指摘しなさい。文法的にも用法的にもです。なんとなくになると、わたくしが会話から得るものがなくなるので」

「はぁ……そうですか」

「よろしいですか?」

「はい、まあ……なら、先程の言葉から指摘していったほうがいいですか?」

「はい。お願いします」

「ご指摘しなさい、という言葉はおかしいですね。しなさいというのは目上の人が下に対して使うような、やや横柄な感じの言い方なので、”ご指摘”という丁寧な言葉と並べると違和感があります」

「……なるほど」

 そう言うと、シェールはポケットから小さく薄く製本された本とペンを取り出して書き付けをした。

「勉強になります。その調子でお願いします」

「なるほど、まあ、分かりました」

 やや面倒ではあったが、どちらにしろ暇なのだし、うんざりするようであればもう来ないでくれと言えばいいだけだ。

 異国人との会話は楽しいと聞くし、楽しい暇つぶしになればどちらにとっても得だろう。



 ◇ ◇ ◇



 それから一週間が経つと、シェールのアーン語は目に見えて上達していた。

 シェールは一言一言の会話に反省点を見出し、アーディルが指摘した用法的な誤りはもちろん、イントネーションの癖も一つ一つ聞き取って言葉を調整していった。

 夕方になって部屋を去ったあとも、夜の間中勉強をしているらしく、翌日現れたときには山のような疑問点と質問を持ってくる。

 その熱心さは、たしかに会話一つとってみても「なんとなく」ではなく、アーディルが感心させられるほどだった。


「シェールは、なぜこんなにアーン語に熱心な……のだ?」

 アーディルは、シェールの要請で敬語以外の自然な会話を学びたいといわれ、ややくだけた話し方をしていた。

「実家――マルマセットの家を再興させるためだわよ」

「”だわ”と”よ”を重ねてつけるのはおかしい」

「再興させるためよ、のほうがいいかしら?」

「うん」

 話の腰が折れてしまった。続けよう。

「イーサ女史からは、名門貴族の出身であると説明を受けたが」

 確かそのようなことを言っていた。

「名門貴族……」シェールはつぶやくと、なぜか遠い目をした。「まあ、そうね。間違っては居ないわね」

「名門貴族なら、再興というのはおかしい。隆盛させるため、というような言葉が正しい」

 アーディルは字義を間違って言葉を使ったのかと思った。再興というのは、興ってから沈んだものを再び興すような時に使う言葉だ。元々が映えある王家だったものが名門程度まで沈んでいる、というような場合でもなければ使うのはおかしい。

「間違っていないわ。没落貴族になって間もないから、家格に尊貴を感じてくれる人がまだ多くいて、名門貴族と名乗っても間違いではない。といった感じね」

「では、没落してあまりよくない状況なのか」

「よくないどころではないわね。あなたのお国で喩えるなら……皇家に対して反乱を起こして鎮圧された首謀者の家、といった感じだから」

 アーディルは頭の中が一瞬、真っ白になった。

「どういうことだ? それなら、その……皆殺しになるのでは?」

「祖母と母は死罪だったわね。祖母はイザボー・マルマセットと言うのだけど、結構有名な人だったのよ」

「シェールは助かったのか?」

「私は学生だったし何も知らされていなかったから、なんの罪も得なかったわ。ちなみにお母様は殺人教唆の罪で、お婆様は、まあ、大逆罪になっていたでしょうね。反乱の時に私兵を動かしていたから」

「そう……なのか」

 アーディルにはぴんと来なかった。シェールの家族が犯した罪についてよく知らないので、全容が飲み込めない。


 アーディルは法に詳しくないが、普通は皇家を脅かすほどに大規模な反乱であれば、家族まで連座して罰せられるものだろう。一族としては滅びるし、生き残ったとしても家名を公的に名乗ることは許されない。

 シェールは公的に問題なくここにいるわけで、受けるべき罪から逃れている者が隠れ家に潜むようにここに通っているわけではない。マルマセットという姓も普通に名乗っているし、この部屋に入るときも衛兵に賄賂を渡してこっそりと忍んで入るわけではない。

 大逆の罪を犯した者の娘がこうして暮らしていられるというのは、アーディルには感覚的にうまく理解できなかった。


「でもまあ、公職――官僚にはなれないし、もし登用されたとしても下っぱで飼い殺しになるでしょうから、こうして別の道を探して頑張ってるわけ」

「別の道とは……具体的には何を目指しているのだ?」

「学校よ」

 学校?

「王都に語学の学校を作って、経営するつもりなの。これからの時代、間違いなく需要があるでしょうし」

「学校を建ててお金を集めて、いつか復讐するつもりなのか?」

「復讐?」

 シェールはハハッ、と笑い飛ばした。

「違う違う。あなたは私たちの国のことを知らないから、良くわからないでしょうけど、お婆様たちは正真正銘の売国奴だったのよ。粛清されたことに不満はないわ」

「そうなのか……」

 アーディルにはぴんとこなかった。竜帝国の感覚では、親が反乱を企てたら子も罰せられるし、親を殺されて逃げ延びれば復讐を誓うものだと思っていたからだ。

 ただ、それは男の世界の話であって、シェールのような娘子では話が違ってくるのかもしれない。


「いつか復讐したいとすれば、ラベロ・ルベとミャロ・ギュダンヴィエルかしらね。ラベロ・ルベはお婆様を裁判前に虫けらのように殺したし、ギュダンヴィエルに大きな顔をされるのは屈辱だから」


 そう言いながらも、シェールはさほど興味を持っていないようだった。あくまで学校の設立が第一の目標であって、復讐に情熱を注いでいるようには思えない。

 いつか資金的にも時間的にも余裕があったら取り組むかもしれない課題、というような感じがする。


「まあ……あなたには一生関係のないことでしょう。全ては西の果ての出来事よ」

「そうかなぁ。まあ、そうか」

「さ、そろそろ勉強を続けさせて。この本のこの文章は前後と意味が通じていないけど、なにかの比喩なのかしら?」


 シェールはアーディルの隣に来ると、本を広げて問題の文章を指で示した。

 シェールはどこまでも勉強熱心で、その日も夕方まで学習を続けた。

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